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第2話 領主の夜

 夜は、音を削ぎ落とす。


 昼間、あれほど重たく大地を覆っていた雲は、日が落ちるとその輪郭を失い、ただ暗闇として空と地のあいだに沈み込んでいた。遠くの丘陵も森も、その境界を曖昧にし、世界はひと続きの影となって広がっている。


 その中で、わずかに残された光だけが、人の営みの存在を示していた。


 点在する灯火は弱く、頼りなく、それでも消えずに揺れている。それはまるで、風に耐える小さな命そのもののようであり、エリザベートはその光景を、窓越しに長いあいだ見つめていた。


 石造りの部屋は冷えている。

 エリザベート・ル・フォルスワーグ、この大陸の北西端に位置するフォルスワーグ領と同じ名前を冠する妙齢の女性が吐いた息は、微かな色を滲ませて消えた。


 厚い壁は外気を遮るが、同時に温もりも逃がさないわけではない。暖炉には火が入っているものの、その炎は必要最小限に抑えられており、部屋の隅々まで温めるには足りなかった。


 だが、それでいい。


 過剰は、損失に繋がる。

 その認識は、すでに身体の一部のように染みついている。


 静まり返る部屋の中で、エリザベートは、ゆっくりと視線を落とした。


 膝の上には剣がある。


 長く使い込まれたそれは、光を鈍く反射しながら、静かにそこに横たわっていた。使い込まれた握りと刀身に挟まれた柄に、翠色に薄く光る石を嵌め込まれた片手剣の刃には細かな傷が刻まれ、それが過去の衝突の数を物語っている。だが致命的な欠けはない。丁寧に手入れされ、常に実用に耐える状態が保たれている。


 彼女は布を取り、刃に当てる。

 ゆっくりと、一定の力で滑らせる。


 その動きは習慣であり、同時に思考を整えるためのものでもあった。余計な感情を削ぎ落とし、必要なものだけを残すための時間。


 ──のはずだった。


 だがその夜に限っては、その均衡が崩れていた。


「……損失を測る、か」

 小さく、ほとんど独り言に近い声が漏れる。


 その言葉を口にした瞬間、胸の奥にわずかな違和感が生まれるのを、エリザベートは自覚した。


 あの男──レオンの声は、決して強いものではなかった。威圧でもなく、誇示でもなく、ただ事実を述べるような静かな響きだった。だがそれゆえに、その言葉は妙に耳に残り、こうして思考の隙間に入り込んでくる。


 測り、把握し、分ける。


 損失を。


 それは理屈としては理解できる。

 だが同時に、現実を知らない発想だとも思う。


 この土地では、損失は避けられないものだ。事故は起こる。人は倒れる。荷は失われる。そしてそれらすべてを防ぐことなど、不可能に近い。


 だからこそ──


 選ぶしかない。

 何を守り、何を切り捨てるかを。


 それが、家宝である剣とともに死んだ父から引き継いだフォルスワーグの地を治めるために、これまで自分が取ってきた方法であり、それ以外にこの領地を維持する手段は存在しないと、八年もの間、ずっと、そうずっと信じてきたのだ。


 少し力が入った剣を拭う手が、ほんのわずかに止まる。


 布越しに伝わる刃の冷たさが、指先からじわりと広がっていく。


(……本当に、そうなのか)


 言葉にならないその問いは、決して大きなものではない。

 だが、唯一聞こえる自分には、なぜか無視できるほど小さくもない…そう思えた。


 エリザベートはゆっくりと息を吐き、再び刃を拭い始める。


 亡き父と向かい合うように、外に広がる深い闇に吐息の色が溶け込むように、いつもと変わらぬ一定の動きに戻ることで、思考を整えようとする。


 だが、なぜか完全には戻らない。

 意識のどこかに、あの言葉が残り続けている。


 視線が自然と窓へ向かう。

 この屋敷、領主の居室に唯一嵌め込まれた透明度が高い硝子窓。

 

 夜の中に点在する灯り。

 その一つ一つが、人の生活だ。


 食事をし、言葉を交わし、眠り、明日を迎えるためのわずかな希望。

 だがその灯りは、あまりにも不安定だ。


 風が吹けば消えそうなほどに弱く、そして実際に、時折一つ、また一つと数を減らしていく。


 それを、これまで何度も見てきた。


(守る。父が愛した、先祖がそして一族が愛したこの土地を必ず護る。)


 そのために、自分はここにいる。


 領主として。

 剣を取る者として。


 だが守るためには、すべてを抱えることはできない。

 それは、自分のそして先祖たちの過去において証明されている。


 人も、物資も、時間も足りない中で、すべてを守ろうとすれば、結果としてすべてを失う。


 だからこそ、自分は選んできた。

 優先順位を決め、切り捨てるものを決める。

 その判断が遅れれば、被害は拡大する。


 それが現実だ。


 ──だが。


(分ける、という考え方は)


 その前提を覆すものだった。

 損失を一人で抱え込まず、複数で引き受ける。

 そうすれば、一つの事故が致命傷にならない。


 理屈としては、理解できる。

 むしろ単純だ。


 だが──


(誰が、それを受け入れる)


 人は、自分の損失を嫌う。

 他人のために背負うことを、当然とは思わない。


 特に、この土地では。

 

 余裕がないのだ。大陸の北西の端に位置するフォルスワーグにあるのは、領都とは名ばかりのこの街と、特産品もない貧しい村が三つ、そして行政費用の大部分を産み出す鉱山がわずかに一つ…、それだけなのだ。


 誰もが限界に近い状態で生きている。


 その中で「分ける」ことは、つまり「余計に背負う」ことに等しい。


 それが成立するとは、到底思えなかった。


 そっと息を吐きながら、エリザベートは立ち上がる。


 その重さすら身体の一部になった剣を腰に下げ、部屋を出る。


 廊下は静まり返っている。


 高級な生地であったであろう、くたびれた絨毯から解放された自分の足音だけが石の床に響き、その反響がわずかに遅れて返ってくる。


 かつて栄華を、繁栄を誇ったこの屋敷は広い。


 だが、今や使われている場所は限られている。人が足りないからだ。


 いや──


 減ったのだ。減らしたのだ。

 かつては、もっと多くの人間がここにいた。

 

 家族も、使用人も、兵も。

 笑い声があり、食卓には人が集まり、夜でも灯りと温もりが絶えなかった。


 だが今は違う。


 その多くは失われた。

 戦いで。

 事故で。


 そして──


 自分の判断で。


(残すために、守るために、繋ぐために)


 切り捨てた。

 その結果が、この静けさだ。暗さだ。

 風の強さが手に取るようにわかる、そんな静寂だ。


 自分が守るべき、護るべき街がふと見たくなった。屋敷の二階部分に造られたテラスへ出ると、夜気が肌に触れる。

 冷たいが、澄んでいる。

 それは、昼間の湿った重さとは違い、余計なものを削ぎ落としたような夜の風だった。


 視界の先に、先ほど窓硝子の向こう側にひろがっていた街の灯りが見える。


 その中に、一つだけ、明らかに違う動きをする光があった。松明や蝋燭とは違う、瞬くことのない光、橙の中に薄く翠が混ざった魔道具ランプの灯り。


 ゆっくりと移動し、時折止まり、また動く。


 巡回の兵ではない。


 もっと不規則で、目的が違う動き。


 確信めいた何かが、エリザベートを執務室に走らせた。

 戻った領主の手には、屋敷と関所と予備、フォルスワーグ領にわずか三つしかない遠見の魔道具が握られていた。

 そして、目を凝らす。冷たい夜気の中で距離はあるが、その輪郭が徐々に見えてくる。


「……あの男か」


 自然と、名前が浮かぶ。


 レオン。


 昼間、あの場にいた文官。

 エリザベートは先日届いた王都からの手紙を思い出す。

 レオン・ハルバート、二十七歳

 この国の最高学府である王立学院を三席で卒業したと経歴欄には書かれていたはずだ。

 濃い灰色の髪と漆黒の瞳をした青年。


 彼は灯りを持ち、地面にしゃがみ込み、何かを確認していた。

 土を触り、周囲を見渡し、また帳面に何かを書き込む。何度も何度も。それを繰り返す。


 その動きは、奇妙だった。

 危機感が薄い。

 だが無警戒ではない。


 周囲を確認しながら、しかし目的は別のところにある。


 まるで──


(世界を、別の角度から見ている)


 そんな印象を受ける。

 エリザベートは、しばらくその様子を見続けた。室内ではわずかな色しか見せなかった吐息がはっきりと白くたなびく。


 照らされた光が揺れるたびに、彼の姿が断続的に現れる。


 細いが引き締まった身体。


 街中とはいえ、一歩外に出れば魔獣が跋扈する辺境の夜にも関わらず、武装はわずか。


 背は平均より少し高いくらいか…


 頭脳労働しかできない王都の文官、この土地で、この辺境で生きる術を知らない、奪われる側の人間に見えた。


 それなのに──


(恐れていない)


 少なくとも、そう見える。


 それがエリザベートには理解できない。


 無知ならば説明がつく。

 だが、あの男は理解している。


 損失を。

 この土地の現実を。


 それでも、動きを止めない。


(……折れない)


 根拠はない。


 だが、そう感じる。

 その感覚が、わずかに胸の奥を引く。

 不快ではない。

 だが落ち着かない。


 自分の知っている人間の範疇に収まらない存在。それは、警戒すべきもののはずだ。


 だが──


 視線が逸れない。

 灯りが左右に揺れる。

 風に押されて、動きに合わせて、傾く。


 それでも消えない。止まらない。


 その小さな光を見つめながら、エリザベートは気づく。


 自分が、あの光に“重ねている”ことに。

 

 一つだ。小さい。左右に揺れる。不安定だ。


 だが、消えていない。煌めき続ける。


 そのあり方が――


「……馬鹿げている」


 小さく呟き、視線を外す。

 そんな感傷に意味はない。

 現実は変わらない。


 だが。


 完全には切り捨てきれない何かが、胸の奥に残っていた。


 それが何なのか、まだ言葉にはできない。

 本当にそんなものが残っているのか。

 残っていて欲しいとすがっているだけなのか。それは誰にもわからない。


 ただ一つ確かなことは…


 あの男が、この静まり返った世界に、わずかな“変化”を持ち込んでいるということだった。


 そしてその変化が、自分の内側にまで及び始めているという事実を――


 この日の、この夜のエリザベートは、まだ気づかぬままだった。




第2話をお読みいただきありがとうございました!

レオンとエリザベート、この二人が合わさった時にどんなロジカル内政が始まるのか、ぜひ見届けていただけますと嬉しいです。

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