5 臨絶
荒ぶる神が現世に戻った時、
豊葦原は未だ死の神威の脅威に晒されていた。
視えぬ闇の重圧に、大気は重々しく、陰鬱としている。
地は小刻みに震え、低く低く悲鳴を上げ続けている。
稲妻の壁に護られた結界の外には、
葺根と慎也、久久能智と石楠が視える。
「建速様!?」
「建速、美咲さんは!!」
「視つけた。こちら側から喚び戻さねばならん」
稲妻が白い光に姿を変え、結界の内を照らす。
「呼び戻すって、どうやって」
結界の外から不安げに見ている慎也を、荒ぶる神が視据える。
「――」
だが、荒ぶる神が言霊を発するよりも早く、
「お使いください。全てお返しいたします」
年老いた憑坐の器に在って
なお生命に満ち溢れた神気を持つ神が進み出る。
大山津見命だ。
「大山津見命――知っていたか」
「娘の最後の言伝が、我らが今生で成すべきことを示してくれたのです。
我ら国津神の命を以ってして母上様を黄泉より返らせるのですね」
「なんですと⁉」
葺根の驚きの声音に、慎也の顔が青ざめる。
「どういうことだよ、
国津神全部が死ぬ代わりに、美咲さんが生き返るってことか」
「その通りでございます、父上様」
「ダメだ、それじゃあ、美咲さんが泣く」
「我らのために泣いてくださる母上様を思うと心が痛みますが、
今度こそ、我々が母上様にできうる幸いでございましょう。
我々はこの時をずっと待って待っていたのですから」
「大山津見命――」
「心残りなど在りませぬ。我ら山津見が先駆けとなりましょうぞ」
大山津見命の神気が揺らぎ、神威が満ちる。
山津見の国津神々が呼応する。
「慎也くん!!」
その時、結界の中から声がした。
「美咲さん!?」
白く輝く建速の結界が、闇に染まる。
立ち尽くす八塚の身体を見る間に覆い、黒曜石のように闇が輝く。
そして、その間に見知らぬ子供を抱いた美咲の姿が淡く顕われる。
「建速、八塚様が目を覚まさない……」
「大丈夫だ、美咲が返れば目を覚ます」
「本当? よかった……」
八塚を抱いたまま、美咲はその場にへたり込む。
現世と幽世が重なった結界の中で、
美咲と子供の八塚の姿は陽炎のように頼りなかった。
「何があった?」
「わからない……黄泉大神が来て……」
「闇の主が?」
「天照大御神もいた。
現世に戻れば、豊葦原は黄泉国の領界のままだって……」
「天照――やはりな」
荒ぶる神が呟く。
高天原と黄泉国が手を組んだ。
おそらく、天照に従う月読もだ。
いとも容易く闇の主に取り込まれようとは、
やはり心の弱さを衝かれたのか。
三貴神であろうとも、天照も月読も本来和魂しか持たぬ、
心優しき神だ。
創世の二神よりも太古から在る黄泉大神の
巧みな言霊に抗えるはずもない。
「美咲、闇の主の言霊に惑わされるな。
必ず現世に返す」
「建速を信じる。
私も八塚様も生き返らせてくれるよね」
「ああ。俺の命に誓う」
「そのように容易く誓っていいものか――」
「⁉」
美咲の背後から闇に在ってこそ美しい異形の神が姿を顕す。
境に在る美咲には、それ以上動けない。
どうすることもできないと知っているからか、
闇の主は美咲を一瞥し、
微咲むと荒ぶる神に視線を移した。
「荒ぶる神よ、
豊葦原に留まる限りそなたは永劫に誰とも交われぬ。
ただ、過ぎ去るのみ。
今生においても、そのように生きるか」
「俺の生き様をそなたが憂える必要はない」
「そなたの希みは叶わぬ。
神代においても、過ぎし世においても、今生においても」
「俺を惑わそうとしても無駄だ。
そなたの言霊は俺には響かぬ」
「そなたにはな。だが、響く神も在る」
闇の主が視線を向ける。
立ち尽くす慎也へと。
「伊邪那岐の現身よ。
そなたは伊邪那美とは違う。
黄泉返ったわけではない。
それなのに、なぜ神代の記憶がないのだ?」
俄かに問われ、慎也が身体を強張らせる。
「――」
「女神が事代主に襲われたとき、
なぜ、すぐ救けに往かなかった?
すぐ傍にいたのに。
その間、そなたは何をしていた」
「何を――」
戸惑ながらも慎也は記憶を探る。
確か自分も襲われ、気を失っていたはずだ。
だから、救けにはいけなかった。
だが、記憶はどこか朧気で、
矛盾はないはずなのに、
鼓動が大きく脈打つ。
それだけか?
本当に、それだけなのか――?
久久能智と石楠が慎也の前に出る。
「父上様、聴いてはなりません!」
美しい琥珀の瞳が慎也を視据えている。
「記憶が無いのではない。
現身の内に隠れているに過ぎぬ。
今こそ出て来るがいい、伊邪那岐よ」
「やめろ――」
ひたと迫る恐怖に、口を吐いた拒絶の言葉。
これ以上、聞いてはいけない――そう思った。
それなのに――
「黄泉大神と交わした誓約を果たす刻が来た。
そなたの言霊で、告げてみよ。
伊邪那岐命――」
闇の主の言霊が慎也の身体に絡みつく。
「うあぁぁぁ――――――――!!」
叫びとともに、意識が途切れた。
慎也の身体から今までに発したことのない神気が溢れ出た。
「慎也くん!!」
「父上様!!」
「慎也!!」
あまりの眩しさに、神々さえも目を覆った。
神々しく、何処までも慈悲深き神気が溢れる。
美咲はその神気を感じた途端、
溢れる想いを止められなくなった。
心が震える。
愛しさに、息が詰まる。
知っている、この神気を。
どんなに時を経ても忘れることなどできない。
永遠を願った、唯一の――
「あなたは――」
幽世と現世の境で、美咲が思わず手を伸ばす。
その手に応えるように、
慎也の身体は静かに結界の内側に入り込む。
一歩進むごとに、溢れ出た神気が落ち着いていく。
そうして、美咲の前に立つのは、
慎也の姿でありながら、慎也ではない創世の男神だった。
喜びにうち震える心。
視返す眼差しさえ懐かしい。
「――」
その眼差しは愛しさを隠してはいないのに、
何処か苦しげにも見えた。
「我は、伊邪那岐――全ての創造神にして、
天津国、高天原の守護を司る最古の神――」
「ち――父上様!!」
慈愛に満ち溢れる言霊に、久久能智と石楠が感極まって平伏す。
天津神である葺根さえも跪き、頭を垂れる。
だが、続いて告げた言霊は、無慈悲だった。
「我らの創りし世界が闇の領界となった。
古の約定に従いて黄泉国へ返れ、
伊邪那美」
「⁉」
美咲の胸を抉るような言霊。
痛みに、動けない。
黄泉国へ返れ――そう、言った。
信じられなかった。
慎也の顔で、声で、そのような言葉を聞こうとは。
「父上様⁉」
「何故そのような言霊を⁉」
驚く久久能智と石楠に、
伊邪那岐がそれ以上の言霊を制すように静かに手を上げた。
ただ静かに、美咲を視返し――
「そなたが留まろうとする限り、
我は、そなたを返さなければならなくなる。
我がそなたを殺すなど――そんなことはさせないでくれ」
静かに、痛みを堪えるように、伊邪那岐は目を伏せた。
美咲の伸ばした手は、頼りなげに落ちた。
「聞いたか、伊邪那美の現身よ。
現世にそなたの在る処はないのだ。
そなたの在るべき処は黄泉国しかない」
背後から、かかる言霊。
まるで、それしか受け入れようがないように。
「あ……あぁ……」
息ができない。
胸が、苦しい。
絶望と失望がないまぜになって、何もわからない。
心から愛した対の命が、再び自分を拒んだのだ。
あれは夢じゃなかった。
ただの不安でもなかった。
あの時と同じだ。
迎えに来てくれたのに、置いて逃げた。
追い縋ったのに、去って往った。
何度繰り返せば、気が済むのか。
こんなにも心が引き裂かれるような痛みを
どうやって受け止めればいいのか。
「……」
縋るものが欲しくて、美咲は視線を彷徨わせた。
だが、何もない。
創造神の言霊を聞いた国津神達は動かない――否、動けない。
当然だ。
父神である伊邪那岐が、伊邪那美を拒んだのだから。
理に従えば、本来伊邪那美は現世には在れないのだから。
「……」
涙で、もう何も見えない。
もう何も言えない。
前には伊邪那岐。
背後には黄泉大神。
美咲にはすでに逃げ場はなかった――
その時、
影が動いた。
美咲はぎこちなく顔を上げ――その影を見た。
「建速――」
荒ぶる神の大きな体躯が美咲と伊邪那岐の間に割って入る。
「――」
荒ぶる神は無言だった。
黙したまま慎也――伊邪那岐の胸に手を当て。
そこに、神威を打ち込んだ。
「!!」
静かに、慎也の身体が頽れる。
抱きとめながら、慎也の身体を横たえる。
「た、建速様、父上様に何を――⁉」
「眠らせただけだ。心配するな」
短く呟いて、荒ぶる神は美咲を振り返る。
「建速……」
「泣くな、美咲。大丈夫だ」
荒ぶる神が美咲に近づいて跪く。
「……」
美咲の頬を流れる涙を拭おうと手を伸ばすが、
陽炎のように儚い美咲の、
絶望に満ちた涙を拭い去ることはできなかった。
虚ろな瞳からとめどなく零れ落ちる涙。
「はっ……あの人……また、私を裏切ったわ……」
冗談を笑うように、漏れた言葉。
「美咲」
荒ぶる神の言霊も耳に入っていない。
乾いた笑いが美咲の肩を震わせる。
滑稽だった。
笑うしかなかった。
今までのこと全てが、冗談のように。
「黄泉国へ返れって……返らなければ、殺すって……
っ……私のこと、殺すって――!!」
「美咲、俺を視ろ!!」
魂魄であるのに両腕を掴まれ、
彷徨っていた美咲の視線が荒ぶる神をとらえた。
「……建速も、そうしなきゃいけないんでしょ?
理は絶対だから。
伊邪那岐が私を拒んだのなら、
私が黄泉返ることはできないんでしょう?
だって、伊邪那岐は創造神なんだから。
伊邪那岐の命令には、国津神も天津神も逆らえない――」
「違う。美咲。伊邪那岐が何を語っても、
それは国津神の――俺の意志ではない」
建速の大きな手が美咲の頬に触れる。
「あんたを求めて全てを捨てた。
それを悔いたことはない。
俺はずっと、あんたに会いたかったんだ」
頬にかかる温かな手を、
美咲は叫びだしたいのを堪えながら受け入れた。
それは、慎也の手を思い出させた。
自分に触れる手は、全て慎也のものだった。
なぜ、こんなことになったのだろう。
慎也に逢いたかった。
触れてほしかった。
真っ直ぐに自分を見つめて、
好きだと――行くなと、言ってくれたら、
他の誰が何を言っても傷つかなかっただろう。
今までの日々は――あの幸せだった日々は、
全部偽りだったのか。
絶望に、淡く輝く美咲の身体が揺らぐ。
「美咲!」
そして絶望に呼応するように、
己の命が現世から離れていくのがわかる。
死に引き返される。
絶望に抗えず、意識が遠のいていく――
「美咲、駄目だ、現世に返れ!!」
消えかける美咲に、荒ぶる神の言霊が響く。
荒ぶる神の神気が揺らぎ、神威が満ちる。
「言霊に誓った。
全ての神が敵にまわっても、俺は美咲を護る」
陽炎のような御魂が強く抱きしめられて、
途切れかけた意識が引き戻される。
「建速……」
美咲を逃さぬように抱きしめたまま語られる言霊。
「今意識を途切らせたら、
再び黄泉返ることはできなくなるぞ。
あんたは黄泉国に返ることができるのか。
死の女神として、
闇の主と黄泉の國産みをする覚悟が在るのか」
その無情とも言える言霊に、
美咲は堪え切れず泣いた。
「そんなこと、
できるわけないじゃない……!」
「ならば留まれ。
誰の言霊にも惑わされるな。
美咲がどうしたいかだけだ」
揺らがない言霊に、
美咲はしがみついた。
「いいの……? 私……ここにいても……」
腕を上げ、荒ぶる神に縋りつく。
「許しが要るのか?
ならば俺が許す。
美咲は現世に在っていい。
神代が終わるその時まで、
現世の俺達の傍らに在ってくれ。
それが俺の天命であり、存在意義なんだ」
「建速……建速」
美咲は揺らがない荒ぶる神の言霊に泣きじゃくる。
荒ぶる神はしっかりと美咲を抱きしめ、
現世に引き留める。
美咲の御魂が先程よりも存在感を増して、
揺らぐことなく結界の内に留まったのを感じて、
「――葺根、結界の内に」
荒ぶる神は葺根を喚んだ。
「――御意」
慌てて結界に入り込んだ葺根が荒ぶる神と美咲の傍らに控える。
荒ぶる神は美咲から身体を離すと、
一度その顔を覗き込んでから、
「美咲達を頼む。何があろうと此処を動くな」
「ご安心ください」
静かに結界から出た。
右手を伸ばすと呼応するように神殺しの剣が顕われる。
荒ぶる神と闇の主が静かに真向かう。
「理に従うそなたには、我は斬れぬ」
「そう思うか。
だが、先に理を乱したそなたが許されることはない」
神殺しの剣の一振りが大気を震わす。
「そなたの対の命は、今、我の領界に在る。
伊邪那美を返せ。
さすればそなたの対の命を我も返そう」
「そなたのいう俺の対とは、櫛名田のことか」
「そう。いじらしいほどにそなたを求め、
黄泉返りを繰り返す女神を憐れに思うなら――」
「世迷い事をぬかすな!
そなたは何故応えを求めるのだ!!」
荒ぶる神が闇の主の言霊を遮り、
一気に間合いを詰める。
「⁉」
神殺しの剣が横に一閃される。
闇の主が身を翻して跳びのき、
詰められた間合いを再びとる。
「己の内に応えを求めよ。
対の命とは教えられねばわからぬのか?」
荒ぶる神の怒りに、
大気が揺らぎ、雷が轟いた。
「――」
「己の対もわからぬ者に、求める資格はない。
対の命とは互いが己の内に感じるものだからだ。
傍らに在っては他の誰をも必要とせぬもの、
喪っては生きていけぬもの――だからこその対なのだ。
伊邪那美が黄泉国から去って、そなたは正気を失ったか?
伊邪那岐のように対を追い求め、あらゆる領界を彷徨ったか?
初めから得てもいないものが対である筈がない!!
ならばそなたに対の命は永遠に在り得ぬのだ!!」
「――!!」
荒ぶる怒りの神気が揺らぎ、神威が満ちる。
「奏上致す」
風が激しく渦巻く。
稲妻が激しく轟く。
地が激しく震える。
「理を乱す者。
理を曲げる者。
我は其を斬る者。
古の約定において、
其は滅すべき者なり」
神殺しの剣からも、神気が揺らぎ、神威が満ちる。
「――」
荒ぶる雷に、暗闇が白く罅割れる。
恰も、闇の世界そのものを打ち砕くかのように。
闇の主は動かない。
黙ったまま、動けない。
神殺しの剣が大きく振り被られ、
地を蹴った荒ぶる神が再び間合いを詰め、
闇の主へと剣を振り下ろした。




