7 死至
図書準備室に飛び込んだ荒ぶる神は、
葺根と八塚に押さえられながらも暴れる慎也を視た。
「父上様、なりませぬ!!」
「放せ!! 邪魔するな!!」
両手首を左右から押さえ付けられた慎也の手には、カッターが握られている。
「何事だ!!」
荒ぶる神の鋭い言霊が、視線を集める。
「建速様、父上様を止めて下さい!!」
必死に止める葺根。
荒ぶる神を射殺すように睨みつけながら、慎也が叫ぶ。
「戻ってくるって言ったじゃないか!! それなのに――!!」
進み出た荒ぶる神が、
手を伸ばして慎也の持つカッターの刃を握りしめた。
「!?」
「建速様!!」
慎也の身体が大きく震えた。
だが、握りしめた大きな手から血が滴り落ちるのを見て、
それ以上の動きを止めた。
「それなのに、どうした?」
荒ぶる神の言霊に、責める響きはなかった。
ただ、静かに問うた。
「――」
「自らを傷つけ、死んで追いかけるつもりか?
記憶も神威も戻らぬお前では無理だ」
慎也の手からカッターを抜き取ると、その場に落とす。
「建速様、お手が――」
八塚の言葉を遮るように、荒ぶる神は傷ついた手を上げた。
手の平に大きく付いた傷から血が流れていた。
だが。
「――」
慎也は目を瞠った。
血だらけの手から、傷が見る間に消えていく。
濡れた血さえ、見る間に消える。
「傷ついても、御治が働く。
だからといって、痛みがないわけではない。
我ら神々も傷つけば痛みを感じる。
心も、身体も」
身体を震わせたまま動けない慎也を、荒ぶる神が抱きしめる。
「美咲は戻ってくる。
自分の力で戻れないなら、迎えに往く。
だから、心を静めろ。
お前の悲しみが、我ら国津神には一番こたえるんだ」
「――」
「我々は、お前と美咲のために此処に在る。
言霊にまで誓ったのに、何故信じない」
「……建速……建速……怖いんだ……」
「怖れるな。俺達がいる」
疲れ果てたのか、慎也は荒ぶる神の腕の中でそのまま意識を失った。
「暫く眠っていればいい。起きていても、つらいだけだからな」
祖神を抱く荒ぶる神を、
国津神達は静かな涙とともに視つめるしかなかった。
慎也の悲しみと狂気は、神代を思わせて、
国津神達にはやり切れない。
伊邪那美を喪った後、
伊邪那岐は二度と豊葦原の国津神々のもとには戻ってこなかった。
喪失とともに、静かに狂気に呑まれ、果てには、
対の命を同じように喪い狂気に呑まれた瓊瓊杵命とともに
神去ることとなったのだ。
対の命を喪うと言うことは、それ程に耐え難きことなのだ。
慎也を抱きあげると、
荒ぶる神は美咲が横たわったソファーの向かい側に横たえた。
久久能智と石楠が慎也に駆け寄る。
「目が覚めるまでついていてやれ」
「はい」
久久能智と石楠は慎也の傍らに膝をつき、
久久能智が青ざめた頬にかかる髪をかき上げてやる。
「記憶がなくとも、対の命を喪った恐怖を拭い去れぬのですね」
「母上様のお傍に在るだけでお幸せそうであったのに……
なんとおいたわしい――」
石楠が慎也の手に触れながら、涙を流す。
「何があったのだ?」
八塚と葺根に問う。
「わからぬのです。
我々は、母上様を抱く父上様のお傍に控えておりました。
母上様は眠っておられるだけで、闇の気配など何もありませんでした」
「突然、母上様のお身体が大きく震えたと思ったら、
そのまま、息絶えておしまいになったのです」
「勾玉は? 神威も何も発動しなかったのか」
「何も。光ることさえしませんでした」
「――」
護りに着けたはずの勾玉が、神威を発動しなかった。
横たわる美咲の勾玉に触れるが、
そこにはなんの神威も神気も感じられない。
荒ぶる神は、そのまま美咲の胸元に手を置いた。
確かに、鼓動がない。
美咲の命が感じられない。
魂が抜けたのだ。
魂魄が内になければ、身体は死ぬ。
女神を護る筈の水神と風神は何故動かぬのか。
「――」
まさか、この死は、女神の意志なのか。
荒ぶる神の神気が揺らぎ、神威が満ちる。
「美咲、戻ってこい――」
だが、荒ぶる神の言霊に、女神からの応えはない。
死ぬはずがない。
これが、女神の意志で在る筈がない。
対の命を置いて、国津神々を置いて、神去る筈がないのだ。
「建速様」
懸かる声に、荒ぶる神は振り返る。
神威によって神殺しの剣に触れることなく
中空に捧げ持つ大山津見命が立っている。
「天之尾羽張の神威が、何かを訴えております」
神殺しの剣は、大山津見の神威に押さえ付けられながらも、
刀身を震わせている。
荒ぶる神は畏れることなく剣に触れる。
その途端、身体が炎に包まれる。
「!!」
「建速様!?」
慌てる大山津見を、剣に触れていない手で荒ぶる神は制した。
「大丈夫だ」
炎は揺らめいているが、陽炎のように其処に在るだけで、
荒ぶる神を傷つけるものではなかった。
「建速様、これは、一体……」
「――」
熱のない炎に包まれながら、荒ぶる神は死の神威に触れていた。
――建速様……
神話が炎から伝わる。
「その声は、咲耶比売か?」
――建速様……母上様が死の領域に囚われました
「そのようだな。どうやら、迎えに往かねばならぬようだ」
――お急ぎ下さいませ。刻が、近づいております
「それは、最後の刻か」
――恐らくは。黄泉大神にとっても、母上様を奪う最後の機会となりましょう
「わかった。礼を言うぞ。咲耶比売」
――お気をつけ下さいませ。どうやら、母上様にも異変が
「どういう事だ」
――私にもわかりませんが、死の領域で垣間視た母上様は、
神威を全く使えぬようでございました。
神気もほとんど感じられず、まるで、只人のようであったのです
「神威を使えぬだと?」
――ええ。お独りでは、死の領域を出ることは出来ぬでしょう
その時。
荒ぶる神は静かに押し寄せる死の神威を感じた。
「死の神威が、豊葦原に届く」
「建速様? 我々国津神は何も――」
ゆらりと、大地が揺れ。
次の瞬間には、振り子のように大きく揺れだした。
「国津神々よ、死の神威を押し止めよ!!」
荒ぶる神の言霊に、国津神々の神威が呼応する。
荒ぶる神と国津神々の神威が、
眩い光となって死の神威へと放たれる。
「建速様、我々には神威の源が感じられませぬ!!」
「我の神威に続け!! 黄泉比良坂を越えさせるな!!」
死の領域から溢れた黄泉の源泉が、
狭間の領域――かつて根の堅州国の在った領域をすでに満たしていた。
大国主、須勢理比売、木之花知流比売、八島士奴美、そして、
木之花咲耶比売と瓊瓊杵命が立て続けに神去ったことによって、
死の神威が黄泉国を越えるほどに増大した。
そして、今また伊邪那美の現身である美咲が死んだ。
それは生と死の神威の均衡を覆し、
豊葦原を黄泉国に塗り替えるほどの喪失だった。
死が強すぎる。
黄泉の源泉が、根の堅州国の領界を満たした今、
豊葦原をも呑み込むのは時間の問題だ。
根の堅州国に長い間留まった荒ぶる神だからこそ
感じ取れる感覚だった。
さらに大きく、地が揺れた。
「!!」
あまりの揺れの大きさに、国津神々が膝をつく。
凄まじい振動と横揺れに、足場が覚束ない。
「父上様!!」
久久能智と石楠がついていた慎也が、激しい揺れに目を覚ました。
ふらつきながらソファーから身を起こす。
「動くな、慎也。国津神が護る」
「父上様、ご安心下さい。我々が御護りします」
激しい揺れの中で、慎也はどこか虚ろなままだった。
「地の門が、開く――」
その小さな呟きを、荒ぶる神は確かに聞き取った。
「地の門――?」
それは、かつて伊邪那岐が千引の岩で塞いだ黄泉国との境であった。
そして、荒ぶる神は神眼によって視た。
どす黒く歪んだ混沌が、視る間に境を超え、
さらには黄泉比良坂を越え、地を覆っていくのを。
その後を静かによせてくる黒く輝く水。
地を覆い、街を覆い、全てを呑み込んでいく――それが、黄泉の源泉だった。
――駄目です――このままでは、豊葦原は黄泉の領界となる
現世が黄泉の領界と重なり、咲耶比売の神話がさらに鮮明となる。
「こうなることを知っていて、
女神の死を待っていたのか、黄泉大神よ――」
――建速様、国津神々よ。豊葦原を御護り下さい
咲耶比売の神話に続いて、瓊瓊杵命の神話が伝わる。
「建速様!! 我ら国津神の神威では、黄泉の源泉は返せませぬ!!」
神々の神威が豊葦原に押し寄せてくる混沌と黄泉の源泉を押し止めるも、
死の神威を前にそれ以上抗えない。
「食い止めろ。美咲を連れ戻すまで」
荒ぶる神が振り返る。
「神でない道往きが必要だ。八塚」
名を呼ばれ、八塚が前に進み出る。
「ここに」
「死人となり、死の領域へ我を導け」
「御意に」
伸ばされた手に八塚が迷うことなく己の手を伸ばす。
「建速様!!」
葺根が叫んで、八塚の肩を掴む。
「八塚を殺すのですか」
久久能智と石楠、大山津見命も、荒ぶる神を視据える。
「八塚は只人です。我らと違い、死ねば返りませぬぞ」
「それでもだ。死神では駄目だ。闇の主に気づかれる。
死人であれば、時間は稼げる」
「だからといって、何の力もない只人を連れていくわけにも参りませぬ。
人でありながら神威を操れる私が最適でしょう」
「八塚!!」
「葺根様、国津神々よ。
私のことは御案じなさいませぬよう。
むしろ喜んで下さいませ。
皆様方と同じく、私にもお役に立つ時が来たのですから」
「八塚。我はそなたを死なせたくない。
この憑坐に降りる時、必ずやそなたを護ると誓ったのに。
戻れぬと知りながらそれでも往くか」
「参ります。
我が命は血族の祖神である建速様のもの。
ともに往くのです。
何を惜しむことがありましょう」
八塚は微笑んでいた。
葺根がそれ以上何も言えずに八塚を抱きしめる。
「俺も行く」
「父上様!!」
ソファーから立ち上がり、建速の前に進み出る。
「俺は伊邪那岐とは違う。どこまでも、追いかける。
美咲さんと約束したんだ」
慎也が真っ直ぐに荒ぶる神を見据える。
荒ぶる神がその肩に手を置く。
「魂のみで、連れていくことになる。記憶がなくても、お前は神なのだ。
闇の主に気づかれてしまう怖れがある。
それでは、美咲を視つける前に闇の手に堕ちることにもなり兼ねん。
俺と八塚が美咲を視つけて必ず戻ってくる。それまでは待っていろ」
「父上様、ここは建速様と私にお任せ下さい」
八塚も宥めるように語る。
「――」
「言霊に誓った。俺を信じろ」
「――建速を信じてないんじゃない。
俺は、俺が信じられない。
美咲さんがいないと、ダメなんだ。
おかしくなっていく。
俺が俺でなくなっていく――」
慎也は震えていた。
「美咲を取り戻したいんだろう?」
「取り戻したい。美咲さんがいないと、息も出来ない」
「お前のために、我らのために、美咲は必ず取り戻す」
揺らがない言霊。
慎也を視つめるその眼は、慈愛に溢れていた。
「俺が正気を失う前に、戻ってきてくれ――」
慎也の言葉に、荒ぶる神は頷く。
「結界を敷く。皆下がれ」
言われた通り、国津神々と葺根、慎也が館内へ通じる扉まで下がる。
「奏上致す」
荒ぶる神の言霊とともに、図書準備室の空間から色が消えた。
眩いばかりの白い空間の中、八塚とともに中央に佇む荒ぶる神と、
息絶えたまま横たわる美咲しか存在しない。
横たえられたままの美咲は、白い空間の中、浮き上がって見える。
継いで、荒ぶる神の足下から、稲妻が這うように円陣を描く。
「今ここに、死へ至る門を開く。
我は理を正すために、母神を現世に返らせる。
死人を道往きとして、
我を母神の在る闇の領域へ降らせよ。
一度門を開けし後は、
我より他に門を開けること能わず」
荒ぶる神の言霊に応え、
円陣を取り囲むように稲妻の壁が結界を包み込んだ。
「八塚。そなたは死人となる」
「御意。この命は荒ぶる神のもの。
いかようにもお使いなされませ」
円陣の中央に立つ八塚の胸に、荒ぶる神は手を置いた。
「鼓動を止めよ」
その言霊通りに、八塚の心臓が、鼓動を止めた。
縫い止められたように身体は立ち尽くしたままだが、
がくりと頭が傾いだ。
「八塚――」
結界の外で、葺根が痛ましそうに呟いた。
荒ぶる神の手が、八塚の胸に沈み込んでいく。
「建速様、お気をつけ下さいませ!」
葺根の言霊を背中で聞きながら、
「必ず戻る。
それまでは、何としてでも黄泉の源泉を押し止めろ」
荒ぶる神の身体が、八塚の身体の中に呑み込まれ、
結界の中から消えていった。




