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高天原異聞 ~女神の言伝~  作者: ラサ
第九章 希神ーこいねがう神々ー

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6 離去


 気が付けば、美咲は闇の中にいた。


 さっきまで月神とともにいたのに、

 月神の涙が触れた途端、意識が跳ばされたのだ。


 もともと意識だけだったのに、

 今の美咲はただの死人のように存在が希薄で心許ない。


 まるで女神の自分と、黄泉返った記憶のない美咲とに 

 分かたれてしまったかのように。


 その証拠に、意識となっても首にきちんとかかっていた勾玉が、

 今はなかった。


「ここは、どこなの……?」


 辺りを見回しても闇ばかり。自分の姿だけは見えるが、

 それ以外に何も見えない。


 一人きりで、もう跳ぶこともできずに、立ち尽くすしかなかった。



――母上様……



 誰かが、自分を呼んでいる。



 その言霊の響きを、美咲は知っていた。


咲耶比売(さくやひめ)……?」



――お戻り下さいませ。此処は死の領域。

  留まれば、現身(うつしみ)が喪われてしまいます



 闇の中にその姿を探しても、そこに咲耶比売の姿はない。


「咲耶比売、どこに行けばいいの?

 どうすれば、ここから出られるの?」



――歩き続けて下さい。留まってはなりませぬ。

  やがて、光が視えるでしょう



 美咲は促されて動き出した。


「光なんて見えないわ……」



――いいえ。もう、ともに歩むことは出来ませんが、

  必ず、現世の光が顕れるでしょう



 咲耶比売の言霊が小さくなったような気がした。


「咲耶比売、瓊瓊杵(ににぎ)様と一緒にいるの? もう哀しくはない?」



――はい。死の領域にあろうとも、私は幸せです。

  愛しい方と、もう離れることはありませぬ故



「よかった……」



――母上様も、お戻り下さいませ。父上様が、待っておられます



 そうだ。


 慎也が待っている。


 建速も、国津神々もいる。


 帰らなくては。


 その時、背後で嫌な気配がした。


「!?」


 振り返ると、闇の中に蠢く影がある。


 切羽詰まったような咲耶比売の言霊。



――母上様、お逃げ下さい。九十九神(つくもがみ)です



「――!!」


 咲耶比売に答える前に、美咲は駆け出した。


 影が追ってくる気配がした。






「建速様」


 図書館内に戻った荒ぶる神に、

 次に声をかけてきたのは大山津見命(おおやまつみのみこと)だった。


闇山津見(くらやまつみ)に、闇の領界を探らせました」


「何か妙な動きでも?」


「妙と言うより、有り得ぬ事が」


「有り得ぬ事?」


「闇の主と太陽の女神が、闇の領界に会していたと」


天照(あまてらす)と、黄泉大神(よもつおおかみ)が――? 月読(つくよみ)ではなく?」


「は、確かに太陽の女神であったと。思兼命(おもいかねのみこと)もともにあったとか。

 よもや、母上様を黄泉国に返すために、手を結んだのでは」


「――そうであっても、我らは変わらぬ。母神を護るのみ」


「天に叛かれるのですか。本来、高天原は貴方様の――」



「我の天は、高天原に非ず。


 豊葦原に降り、母神を黄泉国より取り戻す。


 その為に、我は在る。


 それが、天命であったのだから」



 揺るぎない意志に、大山津見命は息をついた。


「――我ら国津神が目覚めたのも、天命でございましょう。

 神代では為す術もなく喪われた母上様を、今生では必ず御護り致します」



 突如、大気を裂くように神威が満ちた。



「!?」


 荒ぶる神の目前の空間が揺らぐ。


 差し伸べられた手の前に、揺らめく神気と、

 真紅に輝く炎を湛えて、その剣は顕れた。


天之尾羽張(あめのおはばり)――」


 神殺しの剣が、今一度、自らの意志で現世に顕現する――






 美咲は走った。


 振り返らずに、ただひたすら。


 どこまでも追いかけてくる九十九神の気配。


 幸いなのは、意識のみのせいか走り続けても疲れないことだけだった。


 迫ってくる恐怖は消えないが、美咲はとにかく走り続けた。


 もう咲耶比売の言霊も聞こえない。


 走り続けて、ようやく目の前にうっすらとした光が見えた。


「!!」


 あれが、現世の光だ。


 美咲は少しでもその光に近づこうと思い切り足を動かした。


 だが、九十九神の方が速かった。


 闇の(こご)りである九十九神が美咲の脚に絡みついた。


「いやぁ!!」


 意識のみの美咲の身体を、九十九神が絡め取る。


 まず、腕が押さえ付けられた。


 続いて、両脚が。


 蠢く闇の触手が、美咲の身体を這い回る。


「いやあ、やめてっ」


 嫌悪と恐怖で悲鳴をあげる美咲の口に触手が入り込む。


 喉の奥に何かが流し込まれた。


 吐き出したいのに出来ずに、美咲はそれを呑み込まされた。


 何度も嚥下させられ、ようやく触手が離れる。


 美咲は自由になった指を、喉の奥に入れ、

 呑み込まされたものを吐き出した。


 だが、全てを吐き出せるわけもなく、苦しさに涙が零れても、

 喉の奥に指を入れて何度も嘔吐(えづ)く。



 黄泉戸契(よもつへぐい)――黄泉のものを食すること。



 一度口にしては、現世には戻れない。


 それが、頭をよぎった。


 何を飲まされたのかもわからない。


 ただの水のようにも思えたが、そうであるはずもない。


 身体が痺れるように震えだした。



――母上様。ようやく誓約が果たされる(とき)が参りました


――さあ、我らとともに、黄泉国へ返るのです


――対の命である主様がお待ちです



 意識の集合体である九十九神が話しかけてくる。


 震えて動けない美咲の身体を持ち上げた。


「……いや……」


 抗おうにも優しく包み込まれて動けない。


 向かっていた光から遠ざかっていく――



 その時。



 激しい熱と光が、真っ直ぐに美咲に向かってきた。


 美咲を持ち上げた九十九神を貫き、美咲から引き剥がす。


 真紅の炎が、美咲を取り囲む。



――穢らわしい九十九神如きが、母上様に触れるな!!



 業火が、九十九神を取り囲み、包み込んだ。


 硝子を劈くような響きが九十九神から発せられ、闇を震わせる。


 瞬く間に業火に焼かれ、九十九神の半分は逃げ去った。


 動けない美咲は、横たわったままそれを見ていた。



 美しく輝く炎。


 血のような赤。



 だが、それは遠呂知(おろち)の瞳とは違っていた。


 もっと暖かく、美咲を思う心が伝わってくる。


 心の何処かが、懐かしさと愛しさで溢れた。



 誰なの?



 心の中で問いかける。


 だが、それが美咲の最後の記憶だった。


 限界が来て、美咲は意識を保てない。



 死に穢された。


 もう、戻れない。



 美咲の意識は、そのまま途絶えた。






 突如顕れた神剣から、揺らめく炎が図書準備室に向かって往った。


「美咲の処か!?」


 荒ぶる神が準備室へ向かう。


 だが、その前に久久能智(くくのち)石楠(いわくす)が飛び出してきた。


「建速様!!」


「母上様が!!」


「何事だ!?」


 駆け寄った荒ぶる神の前に、石楠と久久能智が頽れる。


「母上様の鼓動が、止まりました――」


「呼吸もです――」











 今度こそ捕らえたと思った太古の女神の気配が、遠ざかるのを感じた。


「――」


 闇の中から、するりと顕れたのは女神を捕らえるように命じた九十九神だ。


 驚くほどに、神気が弱まり、神威が失われていた。


「何があった?」



――火神が、太古の女神を連れ去りました……



「火神が――?」


 九十九神に触れると、確かに、神気の名残がある。


 祖神に殺されてから、ずっと黄泉国に在った火神が、

 何を思って黄泉国の意志に叛くのか。


 自分を死に追いやった祖神を恨んでいるのではなかったのか。


 火神の意図が掴めずに、闇の主は暫し目を閉じる。


 その沈黙に耐えきれぬのか、九十九神はさらに身を竦める。



――此度もまた……命を果たすことができず……申し訳ございませぬ……



 幽けき言霊に、闇の主は目を開ける。


 その琥珀の瞳には、憐憫の思いが視て取れた。


「そなたらは、よくやっている。謝るな」


 主の言霊に、小さくなってしまった九十九神は幼子のように身を震わせる。



――我らは……主様のお役に、立てるだけで……



 自分から分かたれた不完全な命。


 憑くべきものがなければ、存在すらない憐れな神。


 そのようにしか、生み出せなかったからこそ愛おしい。


 黄泉の國産みさえ成れば、

 九十九神にも本来在るべき神の姿を与えてやれるのだ。


「よくやった。暫し休め」



――有難き言霊……



 影のように朧な身をか細く震わせながら、九十九神は闇の中に消えた。


 闇の主は一つ息をつく。



 其処には、倒れたままの思兼と闇の主しかいなくなった。






 己の宮の中庭に降り立った時、

 太陽の女神はそこに天之宇受売命(あめのうずめのみこと)を視た。


「宇受売――」


「禊ぎを。闇の穢れは、尊き御身には似合いませぬ」


 巫女神が先導し、太陽の女神は従う。


 禊ぎの間には、宇受売以外の采女は誰もいなかった。


 女神の髪を飾る装飾品を、宇受売が背後から手際よく抜き取る。


 結い紐が全て解かれれば、艶やかで美しい髪が床に零れる。


「采女達は皆下がらせました。全て宇受売が致します」


「神代のままにか?」


「はい」


 宇受売は上衣の薄衣を引き下ろすと

 太陽の女神の御前に跪き、帯を解く。


 帯が落ちると、裳が続く。


 一糸も纏わぬ美しい肌が露わになると、

 太陽の女神が静かに進み出でて翡翠の階を降りていく。


 清水に身を浸せば、天津神にとっての穢れは瞬く間に消えていく。


 闇に身を曝せば、その分負担がかかる。


 所詮光と闇、生と死は相容れぬものなのだ。


 だからこそ、黄泉大神は死の女神となった伊邪那美を求めるのであろう。


 生神(いきがみ)であれば、

 あの強大な死の神威を前に平静で在ることすら難しいのだから。


「――」


 物思いを振り切るように、一度頭まで深く身を沈める。


 それから、太陽の女神は翡翠の階を登っていく。


 滴る水は、抑えきれぬ女神の神威によって、歩を進める事に蒸発する。


 階が終わる板の間には、宇受売が新たな衣を手に待っていた。


 慣れた手つきで、宇受売は太陽の女神を着付けていく。


 その動きは、隔てていた時の流れなど感じさせぬように流暢だった。


 着付けが終わると、太陽の女神は鏡の前に座らされ、今度は髪結いが始まる。


 その優しい感触に、太陽の女神は目を閉じる。


 全てが仕上がると、宇受売は鏡を持ち上げる。


「出来ました」


 宇受売の満足げな言霊に目を開けると、其処には美しい容が視える。


「私は、変わらぬか」


「ええ。神代で最後にお世話したときと、何ら変わりなくお美しいままです」


「神代のままか――」


 そこで、太陽の女神は美しい唇を歪めて咲った。



 神代のまま。



 確かに、なんの変化もない姿が在る。


 だが、心の内はどうだろう。


 思兼に乞われるまま高天原の秩序を護ってきたが、

 それに何の意味があったというのか。


 目覚めても、神々は変わらぬ。


 神代のままに、ただ在るがままで変えようとも思わぬ。


 何もかもが、時の流れとともに大きく変わってしまったのに、

 自分だけが、三貴神である月読とも建速ともともに在れぬままだ。



 そして、闇の主の言霊に未だに心惑わされている。



「――」


 太陽の女神の細い指先が鏡に触れる。


 すると、鏡は墨のように黒く塗りつぶされた。


「天照様、これは――」


「現世の様子だ。視よ、建速。

 己が約定を果たさぬゆえの崩壊じゃ。

 父上様の護ってきた結界が崩れる。

 私の豊葦原が、黄泉国となる――」


 宇受売は鏡を覗き込んだまま動けずにいる。


「宇受売、そなたも豊葦原に戻りたいか」


 その言霊に、宇受売は我に返る。


「いいえ。天照様。宇受売はもう何処へも往きませぬ。

 ずっと天照様のお傍におります」


 その言霊を待ち望んでいたのに、何処か虚ろに響く。



「そなたの言霊に(いつわ)りはないのに、何故私は信じられぬのだろう」



「天照様――」


 抑え付けていた思いを、今は抑えきれない。


「宇受売、全てを元に戻したいと私が言ったなら、そなたは嗤うか?」


 太陽の女神の言霊に、宇受売は暫し沈黙した。



「――いいえ。きっと、誰もが思うのでしょう。

 幸せであった時が短ければ短いほど。

 永ければ永い故に。

 幸せとは、過ぎ去ってしまうほどに思い募るものですから」



「過ぎ去るほどに募る――そのようだな……」



 過ぎ去り、遠ざかってしまった時が幸せだったからこそ。



 二柱の女神が、静かに物思いに耽る――






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