1 妄執
――遠呂知の性に、もう抗おうとは思わぬ。
邪魔するものは、全て、呑み込んでくれる!!
八島士奴美の紅い瞳が視開かれ、
大気を震わせる咆哮が放たれる。
同時に、その背後の闇から結界をうち破り、
黒い水がうねりをあげてなだれ込んできた。
そのあまりの激しさに、神威を放ちながら荒ぶる神が叫ぶ。
「黄泉の源泉か、持ちこたえろ、国津神!!」
荒ぶる神の叫びとともに国津神が呼応する。
美咲と慎也を中心に、視えない半球の結界が瞬く間に敷かれた。
その半球は迫り来る黒い水を押し返すかのように広がっていく。
八百万の国津神々が、全ての神威を合わせて新たな結界を敷き、
現世を呑み込もうとする黄泉の源泉を押しとどめているのだ。
「!!」
今度は、美咲が服の下に身に付けていた勾玉が
淡い光を放ち、
熱く震えた。
美咲はその震えに呼応するように、記憶にない言霊を発した。
「速秋津比古、速秋津比売、祓戸大神達よ、
黄泉の源泉を止めて。
あれは現世に在ってはならぬもの。
死の領域に在るべきもの。
古の約定に従いて、
水の神威をして、
この豊葦原から死の穢れを祓い清めよ」
その瞬間、水を司る神々の神威がうねるように轟いた。
国津神達の神威と重なり、
八島士奴美を呑み込んだ黄泉の源泉とぶつかった。
黄泉の源泉が仄暗い黒の遠呂知なら、
水神の呼び寄せた現世の水は青白く輝く白の遠呂知だった。
交わらずに絡み合うその様は神代の八俣遠呂知を思わせた。
「!!」
言霊を発した美咲が、さらなる胸の痛みに耐えかねて、膝をつく。
「美咲さん!?」
慎也が慌てて膝をついて抱きとめる。
「美咲!?」
「母上様!?」
美咲に駆け寄る宇受売、葺根、八塚に続き、
瓊瓊杵と咲耶比売も美咲に駆け寄る。
黄泉の源泉を押しとどめるため、国津神々達と荒ぶる神は動けない。
代わりに八塚が美咲に触れる。
「建速様、呪詛です!! 母上様は、呪詛に縛られております!!」
咲耶比売も美咲に触れる。
「ああ……神威を使うことで呪詛が発動するようになっていたのですね。
母上様の身体から、神威が奪われています。
このままでは、黄泉国に引き戻されてしまうでしょう」
荒ぶる神が小さく舌打ちした。
「この呪詛は――月読か」
神威を奪う呪詛――それは、美咲にとっては死の呪いだった。
美咲が、咲耶比売を見上げる。
「……私、死ぬの……?」
咲耶比売が美咲の手を取る。
「いいえ。私がおります。
これ以上母上様の神威が失われぬよう止めることならできます。
私は、かつて母上様の半身でしたから」
咲耶比売の神気が揺らぎ、神威が満ちる。
咲耶比売が触れた手から、温かな神威が美咲の内に入り込み、
胸の痛みが徐々にひいていく。
「……痛みが、弱くなった……」
「ようございました、母上様」
慎也の胸に抱かれながら、
美咲は繋いでいた咲耶比売の手を握り返した。
「ありがとう……咲耶比売」
「いいえ。ですが、母上様。
呪詛が消えるまで神威を使ってはなりませぬ。
私の神威では、呪詛を打ち消すことはできませぬ故」
「ええ……」
そこでぎゅっと、慎也が美咲を抱きしめる。
「……慎也くん……」
見上げた慎也は、美咲よりも蒼白で、
抱きしめてくれている身体は震えていた。
「ダメだよ、美咲さん。
約束したよね、俺をおいていくのは許さないって。
黄泉国へ行ったって、追いかけるよ。
美咲さんがそうしてくれたみたいに」
自分の方が死にそうな顔をしているのに、と美咲は思った。
「おいていかないわ。ずっと一緒にいる……」
「俺は、伊邪那岐みたいに途中で引き返したりしないから」
こんな時だというのに、愛おしさで嬉しくなる。
一緒にいたい。
ただそれだけ。
そう願って、今も定めに抗っている神がいる。
叶わぬその願いを叶えるために、抗う死神が憐れだった――
死神が呼び寄せた黄泉の源泉を、
豊葦原の水神が押さえ付け、押し戻す。
だが、互いの神威は互角だった。
始まりの女神が召還した水神とその眷属、
全ての国津神を以てして、
ようやく遠呂知を押さえ込んでいる。
それほどに、死神である八島士奴美の神威は驚異だった。
本来ならば、この豊葦原を治めるべきであった者――
遠呂知の末に相応しい神威であった。
「姉比売を斬ったように、
その夫たる八島士奴美も斬らねばならぬか――」
荒ぶる神の手に、すらりとした美しい剣が顕れる。
姉比売である木之花知流比売を消滅させた神殺しの剣は、
今なおいっそう美しく静かな炎を湛えていた。
荒ぶる神が、今また神を滅するのだ。
「別れをせよ」
荒ぶる神の言霊が、小さく響いた。
「建速様、これしかないのですか……
八島士奴美様は、救えぬのですか……」
咲耶比売が、懇願する。
だが、荒ぶる神はどこまでも揺るぎなく答える。
「救われようと思わぬ者をどうして救えよう。
八島士奴美は、すでに死せる神だ。
そして、姉比売のおらぬ世界では、生きられぬ。
伊邪那岐が伊邪那美を何処までも求めるように。
瓊瓊杵がそなたを追って死神となったように。
対の命とは、そういうものなのだ」
「……」
神殺しの剣が、目映く輝く。
荒ぶる神の意志に応えるように。
神威を抑えぬ荒ぶる神の周囲に風が渦を巻く。
猛々しい神気に、空間が圧倒される。
結界の中にいる美咲と慎也にも視えぬ重圧がかかる。
咲耶比売と瓊瓊杵命も、鮮明にそれを感じ取った。
「何という神威……何という神気……」
慎也の中の瓊瓊杵命が呟く。
これが、神の力なのだ。
現身を持たずとも現象できる神。
創世の神から成りませる最後の貴神。
空と大地と海原だけでなく、今また炎を従え、
この世の理を覆せるほどの。
それが、荒ぶる神。
「八島士奴美様……」
咲耶比売が泣いていた。
己の半神である姉比売の背の君が、憐れでならなかった。
かの神が求めたのは、唯独り――姉比売のみ。
幸せになれるはずだった――そうであった頃の
寄り添う二柱の神の姿が思い出される。
「お姉様……ごめんなさい……」
轟く風が荒ぶる神の身体を宙に浮かせた。
高く、高く、絡み合う白と黒の遠呂知の頭上まで。
黒の遠呂知が気づいて暴れるも、白の遠呂知が逃さぬよう押さえ込む。
「奏上致す」
荒ぶる神の言霊が、地上の美咲達にもはっきりと届いた。
「古の約定に従いて、現世の理を正さん。
在るべきものを、在るべき処へ。
死を返し、死よりも強い生を還させ給え」
荒ぶる神の持つ神殺しの剣が、大きく振り下ろされる。
放たれた神威は過たず、真紅の軌跡を描いて
黒い遠呂知の額に当たる部分へ打ち下ろされた。
凄まじい絶叫が、大気を震わせた。
のたうち回る黒の遠呂知を、白の遠呂知がそれでも離さない。
ずるりと、黒の遠呂知から、死神が抜け出た。
そして、力無く地に落ちた。
八島士奴美が抜け出た黒の遠呂知は、
瞬く間にもとの黄泉の源泉へと戻る。
国津神達の神威がすぐさま結界の外へと押し出した。
「八島士奴美様!!」
咲耶比売は、死神へと駆け寄る。
「咲耶、待て!!」
瓊瓊杵が抱き留め、それ以上は進ませない。
「瓊瓊杵様!!」
「死神に近づいてはならぬ!!」
咲耶比売がなおも抗う。
「ですが、このまま逝かせては、姉に申し訳が立ちませぬ」
「このまま逝かせるのだ」
そう言ったのは、荒ぶる神だった。
咲耶比売と死神を遮るように降り立った荒ぶる神は、
地面に倒れている八島士奴美を視つめた。
「建速様……」
「そなたでは駄目だ。その姿では。ただ静かに、逝かせてやれ」
静かな涙が、咲耶比売の頬を流れる。
「では、せめて花を……美しい花を……」
「――」
荒ぶる神は止めなかった。
瓊瓊杵の腕から少しだけ離れ、咲耶比売の手が伸ばされた。
神気が揺らぎ、神威が満ちる。
図書館の入り口に並ぶ桜並木が、
咲耶比売の神威を受けて、視る間に美しく花をつけた。
結界の外は、未だ闇に覆われている。
暗闇の中で静かに散る花は、美しかったがどこか寂しげだった。
青い空が欲しかった。
澄んだ空の下でならば、
この花も咲き誇る様に美しかった姉を思わせてくれるだろうに。
身を焼くような痛みが狂気を凌駕し、ふと静かな時間が流れる。
――咲耶……
全てを壊しても、この世の理を崩してでも、
取り戻したかった妻を、八島士奴美は探す。
暗闇の中、愛しい者は何処にもいない。
傍にいると誓った愛しい妻は何処に。
涙でかすむ視界に、視えた懐かしい姿は幻か。
――咲耶……何処だ……
美しく散る花で、妻の姿を探せない。
いつもなら、晴れた空の下、咲き誇る花の中で、
その姿を視いだせるのに。
心の何処かでは、わかっていたのかもしれない。
喪ったものを取り戻すことはできないのだと。
だが、唯一の対の命を喪い、もうこれ以上は耐えられなかった。
死神の自分には、
この執着を終わらせることなどできなかったのだから。
遠呂知の神威をもってしても、
死の神威を手に入れても、叶わぬ願い。
願うことが、愚かだったのか。
――咲耶……
散る花の向こう、暗闇の向こうに、不意に愛しい妻の姿を視いだす。
佇むその姿は、変わることなく愛おしい。
追って逝こう。
何処までも。
そなたが暗闇の中に留まるのならば、自分もともに。
闇に降ってもなお美しく咲く花のようなそなたがいれば、
暗闇でさえも愛しいものとなるだろう。
この執着を、抗えぬ性を、そなただけが鎮めてくれる。
死神の最期の執着が、遠呂知を象り、
咲耶比売の憑坐に絡みついた。
「ああぁぁ――――!!」
「咲耶!?」
締め付けられた憑坐の肉体が血に染まり、
咲耶比売の絶叫が響く。
傍らの瓊瓊杵が、引きはがそうと神威を放つが、
絡みついていた尾に払われ、胸を切り裂かれ、倒れる。
憑坐を守るために、咲耶比売がその身体から離れる。
神霊が憑坐の肉体を抜けても、
遠呂知の妄執は追いかけることをやめない。
――咲耶!!
その命を、同時に憑坐から離れた瓊瓊杵命が
護るように抱きしめる。
神霊のみの姿となった二柱の神を追って、
遠呂知が襲いかかる。
「慎也と美咲の中へ!!」
荒ぶる神が叫ぶ。
瓊瓊杵と咲耶比売の神霊は、
元の憑坐である慎也と美咲の中に飛び込んだ。
追うことをやめない遠呂知は、
慎也と美咲へ向かって来る。
「建速様!!」
慎也の中の瓊瓊杵が美咲に入った咲耶比売を抱きしめ、叫ぶ。
遠呂知が襲いかかる瞬間、
慎也と美咲を護る国津神の結界が遠呂知を弾き飛ばした。
そして、次の瞬間、突如顕れた白く光り輝く炎が、
稲妻のように遠呂知に落ち、その妄執を貫いた。
「!!」
白い炎は稲妻のように無数に遠呂知を貫き、
それ以上の動きを止めた。
遠呂知の最後の妄執がなおも咲耶比売の神霊を求めてのたうち回るも、
さらなる炎が妄執を撃ち貫く。
そして、遠呂知を貫いた無数の炎が、
一際白く輝き、遠呂知の妄執を凄まじい熱で浄化し始めた。
――咲、耶……
白い炎が遠呂知を包み込み、
妄執がその器を保てずに熔けてゆく。
紅い瞳が熔けて流れ、まるで、血の涙を流しているようだった。
「八島士奴美様……」
美咲の口から、咲耶比売の言霊が漏れた。
白い炎に焼かれ、
八島士奴美の妄執が創り上げた遠呂知は、
ついに消え去った。




