7 静恋
かすかに届く雨の音が、
にわかに美咲を現実に返らせる。
そのわずかな反応に気づいた慎也が、
名残惜しげに体を離した。
「どうかした? 美咲さん」
「――今何時なの?」
腕時計を見つつ、
「六時半すぎ」
慎也が答える。
「もう閉館時間すぎてるじゃない。
戻らないと」
驚くと同時に、
慌てて慎也から身体を離す。
仕事中になんてことを。
美咲は顔から火が出そうだった。
雰囲気に流されて人気のない書庫などで。
もし誰かに見られでもしたら大問題ではないか。
慌てる美咲にも慎也は動じない。
そんな落ち着いて動じない年下の慎也のほうが、
なぜか美咲よりも年上にも思える。
自分はこんなにもたやすく揺らいでしまうのに。
その余裕を分けてほしい。
「ーー」
それでも、
この気持ちを手放すことはもうできないだろう。
好きだと、互いに言葉にしてしまったから。
想うだけなら、
口にしなければ、
まだごまかせたかも知れない。
どんなに態度が見え見えでも――そう、語らなければ。
でも、自分は告げてしまった。
もう戻れない。
もう隠せない。
いつかこのことを、後悔する日が来るのだろうか。
慎也はまだ学生だ。
広い世界を知れば、
今とは違う慎也になるかもしれない。
そうなったら、自分は――
「美咲さん?」
慎也の呼びかけに我に返る。
告白しただけで、もうそんなことまで考えてしまうとは。
胸の奥で、羞恥と幸福が静かに混ざり合う。
「大丈夫、山中先生なら先に帰ったから。
美咲さん気づいてないけど、
図書館ももう山中先生と閉めたよ。
今館内にいるのは俺と美咲さんだけ」
続く慎也の言葉に、美咲はさらに驚く。
「信じられない――山中先生に気づかれたらどうするのよ!」
「二人で残ってたぐらいで気づかれないよ。
俺、先生のお気にだから、喜んで鍵預けて帰ってったよ。
美咲さんのことも褒めてた。
若いのに全然作業を嫌がらずにやってくれるから、
仕事がはかどるって。
万が一疑ってても見逃してくれるよ」
余裕綽々で答える慎也に、美咲は困ってしまう。
これでは本当に、
どちらが年上なのかわからないではないか。
ふりまわされっぱなしで、
翻弄されるのはいつだって美咲のほうだ。
慎也に出会ってから、慎也の前では、
いつもおろおろしている気がする。
「――」
溜息をついて、美咲は足に力を入れた。
今度はちゃんと立ち上がれる。
階段を下りて、
散らばった本と台帳を拾おうとしたが、
「雨がまだ降ってたら、相合傘しようね」
慎也の立ち上がりざまの呑気な台詞に、
たまらず振り返る。
「今日も一緒に帰る気なの!?」
慌てた美咲の問いに慎也はきょとんとする。
「当然でしょ?
俺達、恋人同士になったんだから」
「なってません!!」
むきになって否定する美咲に、
慎也はいたずらっぽく笑った。
「なってないの?
好きだって言ってくれたのに?」
慎也が美咲の腕を掴んで引き寄せる。
「あんなに長いこと抱き合ってたのに、
恋人じゃないの?」
一気に距離が近づいた。
「ちょ――何するの」
「もう一回抱きしめようかなって――
美咲さんが、早く恋人になってくれるように」
慎也の顔が近づく。
美咲は咄嗟に手を上げて慎也を止めた。
「――わ、わかったわよ。一緒に帰るから!」
「俺達、恋人同士になったんだよね?」
慎也の念押しに、
「なったから! なったから、離れて!!」
全力で美咲は肯定するしかなかった。
「じゃ、帰れるときはいつも一緒に帰ろうね。
心配性の美咲さんのために
人通りの少ないとこ通るから」
にっこり笑って、慎也はぱっと手を放すと、
何事もなかったかのように
美咲が落とした本をさっさと拾い上げる。
その表情は、声を出して笑いたいのを
こらえているように見えた。
「――からかってるでしょ」
「わかった?」
「わかるわよ!」
怒った美咲は慎也から本を奪い返すと、
ずんずんと歩き出した。
「ごめんね、美咲さん。怒らないでよ」
扉の前まで来ると、
すぐ後ろにいた慎也が身を乗り出して
引き戸を開けてくれる。
「でも、美咲さんがあんまり可愛いから」
恥ずかしげもなく言う慎也に、
美咲のほうが赤くなる。
「そういうことを、言わないで!」
結局、
傘を持っていても使おうとしない慎也のせいで、
美咲は慎也と相合傘で帰る羽目になった。
肩に触れる静かな雨粒より、
慎也の気配のほうがどこまでも近かった。




