9 ハ知
神逐いされて降り立った川辺から川上に進むと、
川の音に紛れて、嘆き悲しむ声がする。
近づいていくと、大きな館と、開いたままの門が視えた。
中に入ると、身も世もなく嘆いているのは
国津神の夫婦とその娘であろう比売だった。
――何を嘆くのだ。
問えば、驚いた親子が顔を上げてこちらを視返した。
――貴方様は……
――あまりの嘆きように、気になって入ってきた。
何をそのように嘆いているのだ。
再度問いかけると、父神である国津神が語り出す。
大山津見命の子である足名椎と手名椎の夫婦には、
八柱の娘がいた。
この地の守り神である遠呂知が娘である比売神を娶ったが、
一年と経たずに神去ってしまう。
以来、毎年比売神を嫁がせては死なせることとなった。
そして、この末比売で最後だという。
後継ぎである末比売を喪っては、もう生きる甲斐もない。
だから、こうして嘆いているのだと。
――最後の花嫁か……
泣き濡れた容も美しい末比売は、
命尽きるようには視えなかった。
しかも、この比売の額には、すでに遠呂知の印がついていた。
遠呂知はきっと、七柱の比売神を贄に、
男神の身体を得たのだろう。
この最後の比売神を娶るために。
だからきっと、この比売が死ぬことはないのだ。
だが、それ故に、この比売神はそれを受け入れることはするまい。
姉比売を殺した遠呂知の妻になるなど。
――定めを覆すためには、遠呂知を滅すればいい。
――守り神である遠呂知を滅するなど、出来るのですか……?
――策がある。末比売を遠呂知に嫁がせたくなければ、
あるものを用意してもらいたい。その後は我に任せよ。
――貴方様は、一体どなたなのですか……
――我は、創世の神から成りませる三柱の貴神である。
――では、天津神で在らせられるのですか!?
なんと、かような高貴な方が、我らを救いに顕れるとは――
末比売が、驚きを隠さずに、視つめてくる。
――私は、死ななくとも良いのですか……
――死の定めから、解き放ってやる。だからもう、泣くな。
遠呂知に飲ませる強い酒を用意するのに、
思ったより時間がかかった。
その間に、末比売を隠すための部屋を新たに造った。
遠呂知の妄執から比売を隠すために、名も変えた。
遠呂知は、すでに比売と誓約を交わしていた。
贄を喰らい、現身を得る事に通っていたに違いない。
それでも、比売は何も知らないのだろう。
知っていれば、きっと自ら命を絶っているはずだ。
安心させるために、仮の祝言もあげてやった。
できることなら、何も知ることなく、全てが終わればいい。
――櫛名田。俺が戻って呼ぶまで、決して扉を開けるな。
外を覗いてもならん。
――わかりました。建速様のお帰りを、此処でお待ちします。
ですから、どうぞ早くお戻りに。
嬉しそうに咲う比売神を最後に視て、
荒ぶる神は扉を閉め、結界を張った。
これで、誰もこの中に入ることはできない。
それでも、何処か不吉な予感がした。
何が、不安だというのだろう。
「美咲!!」
荒ぶる神の言霊に、美咲は我に返る。
膝から力が抜け、倒れ込むところを、傍らの慎也が抱き寄せる。
「美咲さん!!」
横抱きにされて、近くのソファに横たえられる。
「どうした? 何を視た?」
「わからない……何かが、夢が……流れ込んできて……」
「夢? 誰の夢だ?」
「死が……近づいてくる……比売神は、それを恐れてる……」
「比売神? 咲耶比売か? それとも姉比売の方か?」
「違う……別の……もっと幼い八番目の、比売神……」
「八番目――」
呟く建速の言霊が遠くなる。
意識はあるのに、目を開けているはずなのに、視界が暗くなる。
夢に、抗えない。
可哀想な比売神のように――
館内が、俄に慌ただしくなる。
母神が倒れた。
天之宇受売は、慌てて図書館を出て、
学校の敷地に敷かれた結界を確かめる。
変化はない。
しかし、何処か妙だった。
空を仰いで、その異変に気づく。
暗闇で、覆われている。
今宵は朔だった。
だから、月が出ないのはわかる。
だが、雲一つないその空に、
出ているはずの無数の星は、一つもなかった。
完全な暗闇のみ。
「どういうことだ――?」
――宇受売……
遠く、喚ぶ声がする。
「私を喚ぶのは誰だ」
この言霊は、憑坐に宿る神の声ではない。
これは、肉体を持たぬ、死神の声だ。
遠く領界を隔てた幽世からの響きであった。
――宇受売……闇の領界が、現世と重なった……
「神田比古か!?」
――幽世の神威が、現世を越えた。
黄泉神が往くぞ、そなたの比礼を奪いに。
「私の比礼を……?
――まさか、これが、十種の神宝か!?」
――それを奪われれば、天には返れぬ。気を付けろ……
宇受売は神威を使って荒ぶる神のもとへ跳んだ。
「建速様!!」
母神の近くにいる荒ぶる神が容を上げた。
宇受売に近づいてくる。
「宇受売か、どうした?」
問いに答える前に、八塚が葺根とともに館内に跳んできた。
「建速様!!」
「今度は八塚と葺根か、どうした」
「神宝が、奪われました!」
荒ぶる神の表情が厳しくなる。
「何だと!? どれをだ?」
「全てです!! 現存し、我々が神域に封じていたもの、全てが奪われました」
青ざめた八塚の報告を聞き、荒ぶる神は大きく息をつく。
「そうか――記憶を覗かれたな。
八塚、死神の狙いは国津神を捕らえることではない。
神宝の在処を突き止めることだったのだ」
荒ぶる神の言霊に、八塚は動揺を隠せなかった。
「今になって何故……」
「それとも、今だからこそか――」
神宝が奪われるとは思ってもいなかった。
自分達が幾重にも張り巡らせた結界にいとも容易く入り込み、
しかも全くそれを気づかせぬ。
八塚が気づいたのは、剣と繋がっていたからだろう。
あれは、八塚の直系が代々受け継ぐものだから。
「神宝が奪われたならば、目的はただ一つ」
気に懸かっていた、あの違和感は、これか。
「神を、黄泉返らせるつもりだ」
だが、誰が、誰を――?
これで、遠呂知のもとへ嫁がなくてすむ。
この夜が明ければ、もう自由なのだ。
心が逸って、とても座ってなどいられない。
末比売は落ち着かないまま、
しばらく部屋の中を往ったり来たりしていた。
そうして、どれほどの時が経ったのだろう。
不意に。
風もないのに、灯りが消えた。
辺りが暗闇に包まれる。
――何故、灯りが……
暗闇で、何も視えない。
今日は朔だった。
窓もないこの部屋では、
扉から漏れる月明かりも今宵は探せない。
扉の方へ近づいても、暗闇のまま。
――……比売。
その時、外から自分を呼ぶ声がした。
――建速様?
急いで、扉を開ける。
だが、扉の向こうも暗闇だけだった。
――建速様……何処にお出でなの……?
その時、暗闇に光をとらえた。
それは、美しい、紅い光。
一対の美しい紅い瞳だった。
――奇稲田比売。
真名を呼ばれて、動けない。
ただ、紅い瞳に魅入られて、何も考えられない。
――愛しい比売よ。とうとうそなたを娶る支度が整った。
ふわりと抱き上げられ、部屋の中へと運ばれた。
褥に横たえられる。
帯に手が触れた。
生暖かい風を、感じた。
暗闇の中、自分に触れる手は、優しく、愛しさに溢れていた。
心地よささえ感じる。
まるで、ずっと前からこの手を知っているように。
だが、同時に恐怖が沸き上がってくる。
心の何処かが、これは違うと告げている。
それなのに、抗えない。
こんなの嘘。
私は、あの方の妻となるのに。
絶望に、気が狂いそうになる。
これは夢。
悪い夢なの。
朝目を覚ませば忘れてしまう、夢に過ぎない。
私に触れているのは、あの方なの。
無事に遠呂知を滅して、戻ってきてくださった。
だから、この手はあの方のもの。
このくちづけも、あの方のもの。
私は、あの方の妻になったのだから。
触れられる心地よさと同じくらいの恐怖に、
末比売は意識を失った。
「!!」
比売神の意識が途絶えると同時に、美咲は目覚めた。
「美咲さん!!」
慎也が自分を覗き込んでいるのがわかる。
その後ろには、天井の灯りが。
両手を支えに、何とか身を起こす。
「美咲、大丈夫か?」
「母上様!!」
いつの間にか、慎也と建速以外の国津神々達が傍にいた。
八塚さえも、その後ろで控えていた。
「――」
声を出そうとした。
だが、夢は終わっていなかった。
別の夢が流れ込んでくる。
母上、何故、私を厭うのですか。
私の何が、気に入らぬのですか。
どうか私を視てください。
真心のこもった優しい言霊を、かけてください。
他の弟、妹達のように、温かい眼差しを向けてください。
母上が望むなら、どんなことでもいたしましょう。
今までずっとそうであったように、これからも。
それなのに。
何が足りぬのですか。
何故、私は、愛してもらえぬのですか――
また辺りは暗闇に閉ざされた。
その中に、一人佇む黒い影が視えた。
その姿に、美咲は切ない想いが溢れ、
涙が零れそうになる。
なんて愛おしく、憐れな姿――
これは、誰の心?
美咲は、その影を、闇に包まれたその死神を、
見たことがあった。
そう――夢の中で。
愛しい妻を待ち続けた夫。
美しい比売神の片割れ、姉比売の背の君。
根の堅州国を捨てた須勢理比売の代わりに、留まった兄神。
優しげな、美しい男神の姿形は何ら変わらない。
だが、今、その瞳は暗闇の中で美しい宝石のように見えた。
紅い、血のような美しい瞳。
あれは――遠呂知の瞳――
「!!」
突然の胸の痛みに上半身の重心を失った美咲は、
慎也にしがみついた。
「美咲さん!!」
「美咲!!」
「母上様!!」
慎也の腕の中で、訳のわからない痛みに喘ぎながらも、
美咲は必死で言葉を繋ぐ。
「あれは、瞳だわ――」
「瞳?」
「遠呂知の瞳よ、あれは。あの、紅い瞳。
あれは、八俣遠呂知――」
白昼夢を視ているようだ。
起きているのに、視界に重なる闇の中の死神の姿が視える。
その瞳は、血の涙を流しているかのように、
ただただ哀しく、切なかった。
貴方は、誰なのですか。
遠呂知の瞳をしているのは、何故なのですか。
心の中で、美咲は必死で問いかけた。
紅い瞳の死神が咲う。
だが、それは泣いているようにも視えた。
死神が呟く。
私が何者か。
何故、愛されぬのか。
その問いの答えは、死して後、知り得た。
この抗えぬ性が、満たされぬ渇望が、誰から受け継がれたのかも。
名の意味を、考えれば全て腑に落ちる。
初めから、愛される資格などなかったのだ。
望まれていなかったのだから。
それでも、彼女がいた。
美しく咲き誇る花のような女神が、自分を愛してくれた。
愛した者が、自分を愛してくれる。
それは、何という幸福なのだろう。
自分の想いを受け止めてくれる唯独りの女神。
ありのままの自分を、受け止めてくれた愛しい妻。
彼女がいてくれれば、穢れたこの身も清らかなものとなるはずだ。
彼女が自分を、鎮めてくれる。
彼女だけが、この狂気から救ってくれる。
だから。
欲しいものは、ただ一つ。
愛しい妻――それだけ。
もう、それだけでいい。
取り戻すためなら、世界の全てを壊してもいい。
そして。
取り戻したら、二度と放しはしない。




