6 儚夢
――瓊瓊杵様……瓊瓊杵様、何故ですか……
貴方様を、貴方様だけをお待ちしておりましたのに……
呻くように呟いて、木之花咲耶比売は跪いた。
痛みの間隔が、徐々に速くなっている。
すでに破水した。
戸を閉ざし、土で塗り込めた産屋の中で、咲耶比売は独り祈る。
――降りしませ、炎の御子。
咲耶比売は國産みの女神が最後に産んだ火神を召還する。
きんと、大気を震わせ、空に火柱があがる。
真紅に輝く炎の中にゆらりと顕れたのは、
なよやかで艶めかしい女神だった。
その美しさに、咲耶比売は一瞬痛みを忘れた。
――何を望むか、国津神の比売神
現身を持たぬ女神の不思議な響きの言霊が届く。
――誓約を。
我の産む御子は、
天津神である天孫の日嗣、
瓊瓊杵様の末であると、
証立てを。
――ならばそなたは、炎の洗礼を受けねばならぬ。
我が母の神気を、命を焼き尽くすほどのこの炎を、
国津神であるそなたが耐えられるとは思えぬ
――いいえ!
私の子が天津神の子でなければ、無事に産まれることは御座いますまい。
天津神の子であるなら、天孫の日嗣の末であるなら、
炎は我が子を傷つけませぬ。
どうか、誓約を!!
痛みが強くなる中、咲耶比売は必死に言霊を継ぐ。
憐れむように、炎の神は比売神を視つめた。
――よかろう。
ならば、
我が炎の禊を受けるがよい
咲耶比売が褥に倒れ込む。
炎が、産屋を包み込んだ。
――耐えよ、比売神
そうして、
浄化の炎が咲耶比売の身体を包み込んだ。
凄まじい絶叫が、響き渡った。
産屋から突如あがった炎に、姉比売と国津神々が駆けつける。
――何が起こったの!? 咲耶、咲耶!!
生きたまま身を裂かれるような苦しみに満ちた絶叫が耳を打つ。
だが、内側から溢れるように吹き出す業火に姉比売も国津神も為す術がない。
産屋の屋根があっという間に崩れ落ちる。
――咲耶ぁ――――っ!!
姉比売の悲痛な叫びが大気を震わせる。
――姉比売様、あれを!!
国津神の指し示す方角を、姉比売は視る。
そして、そこに燃え上がる炎の中に美しくなよやかな神の姿を視る。
流された血の如く赤く輝く女神――火之迦具土命。
現身を持たぬ美しい女神が腕に抱いているのは、
三柱の御子であった。
それが、咲耶比売の産んだ御子であることは明らかだった。
炎の禊を受け、加護を得た三柱の赤子。
音もなく進み出た火神が姉比売とその背後に控える国津神に告げる。
――誓約は果たされた。
天津神にも国津神にも何ら恥じることなどない。
三柱の御子は確かに、天津神である天孫の日嗣の末――
火の神に抱かれし御子は、
山津見の国津神の手に渡されても、三柱ともに健やかに眠っている。
その背後にいた咲耶比売が足取りも覚束ぬようにゆらりと進み出る。
――虚りを焼き尽くす炎の加護を受けし御子の名は、
火照、
火須勢理、
火遠理と致します。
紛れもなく、天孫の日嗣、瓊瓊杵様の末なり。
天津神も国津神もご照覧あれ!!
咲耶比売の叫びとともに、炎が全てを焼き尽くした。
残ったのは咲耶比売と、三柱の御子と、真実のみ――
命を懸けた誓約が果たされ、咲耶比売は微咲んだ。
そして、倒れた。
同時に、炎も熱も火神も消えた。
――咲耶!? ああ――咲耶、何があったというの、なぜこのようなことを!?
駆け寄った姉比売が倒れた妹比売を抱きしめる。
だが、咲耶比売の意識はなかった。
姉比売の腕の中で、咲耶比売は目を覚ます。
すでに炎はなく、視慣れた部屋の中にいる。
震える指先で姉比売の手に触れる。
自分を視下ろす蒼白な顔。
こぼれる涙で、愛しい姉の容がよく視えない。
凝らした目に映る己とよく似た絶望に満ちた表情は、
これが別れだと、気づいてしまったから――?
それでも、必死で言霊を紡ぐ。
伝えねばならぬことがある。
そうでなければ、死にきれぬ。
――お姉様……あの方に伝えて……御子は、確かに貴方様の御子であったと。
決して国津神の子では御座いませんと……
――そのように言われたのか? そなたの子が国津神の子であると?
――誤解を解いて……お姉様……私は、確かに証立てしました。
伝えて、瓊瓊杵様に……お慕いするのは、全てを捧げたのは、
後にも、先にも、日嗣の御子様のみと……
瓊瓊杵様……貴方様だけです、瓊瓊杵様……
それが、最期の言霊だった。
ぱたりと、咲耶比売の手が落ちた。
姉比売の美しい容が、苦痛に歪む。
――あぁ……嘘……こんな……逝かないで、咲耶!!
こんなの嘘!! 目を開けて、私を置いて、逝かないで――っ!!
姉比売の絶叫が、周囲を絶望へと染めていく。
国津神が比売神の死を嘆く。
大気が、空が、川が、海が、森が、山が、哀しみで荒れ狂う。
それは、
かつて神々が母なる女神を喪った時と全く同じだった。
比売神が神去った。
この比売は、自分と同じだった。
産褥で神去り、
その最期は炎を伴い、
死してなお夫を愛しすぎていた。
そして彼女は黄泉路を降る。
この黄泉国にやって来る。
この女神ならば、自分の願いを叶えることができる。
仄暗い歓喜が満ちる。
永かった。
自分の願いを叶える女神が、やっと顕れた――
「っ!!」
身体が墜ちるような激しい痙攣で、美咲は目を覚ました。
見慣れた天井。
外はうっすらと明るくなっている。
横には慎也がこちらを向いて眠っている。
夢だ。夢を見たのだ。
「――」
まるで炎の禊を受けたのは自分でもあるかのように
熱く、喉が渇いていた。
薄闇の中でも、周りは見える。
そっとベッドから出て、冷蔵庫から水を出す。
グラスに並々と注いで一息に飲み干す。
だが、身体にこもる熱は取れず、
もう一杯飲み干して、ようやく渇きが癒された。
ペットボトルを冷蔵庫にしまうと、
またあたりは薄闇に包まれる。
しゃがみ込んだまま、美咲はしばらく動けなかった。
あれが、木之花咲耶比売だ。
伊邪那美が待ち望んだ、女神。
死んで、黄泉路を降るのを待っていた女神。
幸せになれるはずだったのに、なれなかった哀れな女神。
自分から離れて別の憑坐に宿ったと聞いたのに、
なぜ、未だに彼女の夢を見るのか。
この夢に、何の意味があるのか。
考えてもわからない。
そして、考えたくなかった。
夏休みの最後の週は過ぎて、もう新学期が始まる。
美咲も慎也もまた、いつも通りの日常へと戻るのだ。
夏休み最後の日々を慎也と国津神達と楽しく過ごし、
あんなに幸せだったのに。
神代の記憶を、夢に見るのは辛かった。
そのほとんどが、幸せな夢ではないからだ。
嘆く女神の夢など見たくない。
今、幸せであればいいのに。
「……美咲さん?」
部屋から聞こえる慎也の声。
しゃがんだまま顔を向けると、慎也が身体を起こしていた。
美咲は慌てて立ち上がり、ベッドへと戻る。
「何してたの?」
「水を飲んでたの。目が覚めたら、喉が渇いて」
ベッドに座ると、薄闇の中慎也の顔が見える。
「こんなに指先が冷えてるのに」
慎也が美咲の手をとって、あいている手で頬に触れた。
その温かさに、美咲は慎也にしがみついた。
抱きしめ返す力強い腕に、心から安堵する。
「何でもない。嫌な夢を見たの。それだけ」
「どんな夢?」
「……覚えてない、ただ、嫌だっただけ」
言ったら、自分の醜さをさらけ出すことになる。
伊邪那岐に置き去りにされてもなお豊葦原に返りたがり、
自分を黄泉返らせることのできる女神が神去るのを
ずっと捜して、見張り、待っていたなんて。
こんな醜い自分を、知られたくない。
「ごめんね。まだ早いから寝ましょう」
動こうとした美咲は、
思いの外強く美咲を抱きしめる慎也に、それ以上動けない。
「美咲さん、俺が前世の記憶を持ってなくて嫌じゃない?」
その問いに、美咲が驚く。
「どうして、そんなこと聞くの……?」
「思い出したくないから。
俺、今、美咲さんと一緒にいられれば、それでいいんだ」
慎也の腕から力が抜け、美咲は身体を離して、慎也と向かい合う。
夜明け間近の室内は、カーテン越しでもすでに明るくなっていた。
いつもは飄々とした表情が、今は感情を消していた。
「伊邪那岐って、伊邪那美を置いて逃げたんだろ?
そんな記憶なくていい。
記憶なんかなくても、美咲さんを好きな気持ちは変わらない。
俺なら置いていかない、絶対に一人で逃げたりしない。
伊邪那岐じゃない俺じゃ、ダメかな」
強く見据えられた。
執着じみた想いに、愛しさと同時に切なさが募る。
そうだ。
慎也なら、自分を置いていったりはしない。
出逢ってから、
いつだって大切にしてくれ、
美咲の気持ちを優先してくれる。
自分より美咲を護ろうとしてくれる。
それでもどこか、二人とも不安を拭えない。
自分達は幸せな結末を迎えた恋人同士なんかじゃなかった。
だからなのか。
何度想いを伝えて抱き合っても、
どれほど傍にいても、
もの足りぬように未だ互いを求めてしまうのは。
好きだというだけでは、幸福に浸れない。
常に哀しい結末の余韻を滲ませる。
こんなにも、好きなのに。
どうして簡単に揺らいでしまうのか。
そんな自分が嫌だった。
「記憶なんか、なくていい」
美咲は慎也の首に腕を絡めてもう一度しがみつく。
「美咲さん」
「何も憶えてなくていいわ。思い出さなくていい。
ずっと傍にいて、好きでいてくれるだけでいいの」
思い出してしまったら、
もうこのままではいられないような気がした。
だから、必死で互いを繋ぎ止めるように抱きしめた。
こんなにも愛しいのに、
なぜ、いつも、儚く消えてしまうかのように、不安なのだろう。




