2 闇誓
豊葦原の中つ国に二柱の神が天降り、
その末である国津神はとても喜んだ。
美しい世界の創り手で在られる男神と女神を、
彼らはこの国と同じくらい愛していたから。
晴れ渡る空の青はどこまでも続き、
くっきりとした白雲が形を変えながら流れていく。
豊かな葦が風に靡き、
山々や木々と爽やかに謳う。
負けじと海が、川が、応える。
そこに降り立った二柱の神は、
互いに寄り添い、自分達の創りだした世界を言祝いでいる。
そんな二柱の神を地上で迎えられるその幸福感に、
国津神は酔った。
どんな言霊でも言い表せぬほどの幸わいであった。
ずっと傍にいたい。
その神気を、神威を、
いつまでも感じていたい。
このまま時が止まればよいと、
どの国津神も思っていた。
「父上様、母上様、御機嫌よう」
飄々とした言霊とともに、
するりと風の神が姿を現した。
男神と女神は驚いたが、
すぐに風の神が姿を視せたことを喜んだ。
「志那都、お前はいつも忙しない。
一所に落ち着いていられないの?」
女神のその言霊に、風の神は咲った。
「私はこの豊葦原を巡る風ですよ。
留まっていられるはずもない」
交合いから産まれた神々のほとんどは、
豊葦原の中つ国に降り、留まり、国津神となったが、
この神だけは地上に留まることなく、
絶えず世界を巡っている。
雲を動かし、海を動かし、木々を動かし、草を動かす。
この大地さえ動かす風の神は、決して何にも縛られない。
「母上様。
私達を産み出してくださってありがとうございます。
母上と父上の創られたこの世界は、
本当に美しく、愛おしい――」
「愛しいと思うなら、留まって愛でるがいい」
山の神が、妻である野の神を抱き寄せて言う。
妻を迎え、子を産み育てることで、
豊葦原には様々な神が産まれていく。
そのように生きろと、言うのだ。
だが、風の神は肩をすくめ、受け流す。
他の神達は、それでいいのだろう。
留まり、産み出し、命を繋いでいく。
そうであるように定められている。
しかし、彼は違う。
「私は留まらない――留まれない。
全てを動かす、風なのだから」
すでに身体は透けて、風となる。
後には、言霊のみが残される。
巡る風は、決して留まらない。
それが、定められた神威だった。
「――」
美咲は、目を開けている自分に気づいた。
青い空が、流れていく雲が視える。
風に揺れる木々の、草の音が聞こえる。
清らかな水の匂いがする。
背中には、優しい大地の感触が。
美咲は、そっと身体を起こした。
真青と真白が輝く太陽によって、
どこまでも続く草原に影を落としては過ぎていく。
そこには、
人の手で造ったと思われる人工物が何もなかった。
ただ、あるがままの世界。
先ほどの夢のような、
ただひたすら美しいだけの世界だった。
まといつく大気でさえ、喜びに満ちている。
その気配を、とても懐かしく、愛しく思う。
だが、その懐かしさは、愛しさは、
どこか足りないような気がした。
これは、本物ではない――心の何かが確かに感じている。
これは、自分の記憶の片隅にある思い出の再生。
ひどく遠い、思い出だった。
覚えてもいない記憶の断片が、
今ここに在る。
神々の世界。
そんな言葉が、湧き上がる。
美しい神話の世界には、
あらゆるものの中に、神がいます。
そんな世界に迷い込んだようだった。
「どうして、こんなところに……?」
思わず、口からついて出る。
こんなところに迷い込んだ前後の記憶がない。
確か、図書館で帰り支度をしていたはずだ。
「――」
そこから先が、美咲にはどうしても思い出せない。
辺りを見回しても、そこには美咲しかいない。
なんだか、ひどく身体がだるい。
目が回るような感覚に、
美咲はもう一度その場に倒れ込む。
柔らかな草が、大地が優しく背中を受け止める。
頬に触れる風が心地よい。
これは、どんな夢なのだろう。
美咲の意識は幸せなまま途絶えた。
満ちた月が、ひっそりと群青の夜空に浮かんでいる。
星々は夜の空を控えめに彩りながら瞬いている。
昼の空とは違う、穏やかな夜の空を、
女神はうっとりと眺めていた。
最初の二度の國産みで産まれた太陽と月は、
神霊が宿らず不完全ながらも、
この世界に馴染んでいる。
愛しいその姿に、女神は満足した。
「何をしている――?」
愛しい半神が、背後から優しく自分を抱き寄せる。
その腕に包まれるだけで、女神の身体は喜びに震える。
「空を視ていたのです。あの美しい月をご覧になって」
「ああ――美しい。
神霊が宿らぬと聞いて、どうしたものかと思ったが、
今や太陽も月もこの世界にはなくてはならぬものだ。
我々の國産みは、間違いではなかった」
「ええ、全てが愛おしく、大切な御子です。
私達が創りだした世界は、とても美しい――」
「だが、そなたのほうがもっと美しい」
腰に回っていた男神の手が、女神の顎を背後へと傾ける。
そして、ゆっくりと唇を塞いだ。
深くなるくちづけに、女神は酔った。
何度も離れては重なる唇に、気持ちが高ぶる。
どちらともなく、膝をついた。
くちづけの合間に女神は
夜空に煌めく星を視界の端にとらえる。
安心して、女神は男神に身を任せた。
神を産むたびに、女神の神気と神威は弱っていった。
新しい命が、女神の命を奪っていくかのように。
國産みは、未だ終わっていない。
この豊葦原をたくさんの神で埋め尽くさねばならないのだ。
その為に、この身は在る。
女神は、この世界を愛していた。
自分の命が産み出した、
あらゆるものを愛していた。
そして何より、
そんな喜びを与えてくれる男神を、愛していた。
だからこそ、弱っていく自分の神威を隠し、
男神とともに國産みを続けている。
――もしかしたら、もうお傍にはいられないかもしれない。
そんな不安がよぎる。
だが、男神を拒むことはしない。
愛しい背の君に抱かれる喜びは、何にも代え難いことだから――
二つの神気が混じり合い、揺らめく。
強く、強く、しがみついた。
一つになって、いっそ溶け合ってしまいたい。
虚ろな命を満たされ、
女神が喜びに何度も震える。
密やかな吐息が、大気にもれる。
あらゆる神々が、神霊が、それを優しく視守っていた。
誰かが自分を呼んでいるような気がして、
美咲は目を開けた。
そこは、暗闇だった。
一瞬、先ほどまでの夜の中かと思ったが、
そこに月はない。
瞬く星々もない。
そして、気づく。
自分の身体さえなかった。
大気に溶けるように、意識だけがそこにある。
眼下には、男神がいた。
その姿を捉え、愛しさに美咲の胸は震えた。
だが、その先にいる神を視界に捉え、
その禍々しさに、震え上がった。
「そなたは誰だ」
気づいた男神が問う。
暗闇の中に、美しい白い顔が視える。
瞳は琥珀に煌めき、憂いを帯びた眼差しが
男神を視据えている。
「我は黄泉を司る黄泉神。闇を統べる主なり――」
柔らかく微咲む闇の主に、男神は興味を引かれた。
「黄泉? それは何処に?」
「神々の領界、高天原が生まれて程なく、
沸き出でる泉の滴るが如く密やかに闇の領界、黄泉国は生まれた。
中つ国はその泉の溢れ、吹き上がった上澄みの中から、
そなた達二柱の神によって創り固められたのだ」
「なんと、そのようなことが」
男神は驚いた。
自分達が創り出した豊葦原の奥底に、そのような国があったとは。
「暗く、寂しいところなのか、黄泉国は」
「確かに、寂しいと言われればそうやもしれぬ。黄泉神々は未だ少ない。
我は独り神であるゆえ、國産みは思うようにいかぬのだ。そこで――」
美しい琥珀の瞳が真っ直ぐに男神を視据える。
「もしも、女神が神去れば、
その時は我が妻に貰い受けたい」
闇の主の申し出に、男神はさらに驚いた。
「女神が神去る? そのようなことは有り得ぬ」
男神は否定する。
愛しい女神が神去ることなど有り得ない。
自分達は永久に、この世界を産み出し、
ともに生きていくのだ。
「確かに。女神はそなたの半神。
それは何が起ころうとも変わらぬ。
神去るはずもない」
男神の言霊を、闇の主は受け入れる。
だが、女神は死に近いところにいる。
黄泉国は死の国。
黄泉を司るこの身には、よくわかる。
死の穢れが、女神にまとわりついているのが。
「有り得ぬのであれば、構わぬであろう。
一言口にすればよいだけだ。
有り得ぬ事を口にしたとて、それは戯れのようなものだ」
美しい咲みに、男神は戸惑う。
やめて。
頷かないで。
美咲は声にならぬ声で必死に叫んだ。
だが、男神は気づかない。
黄泉神の言霊に訝しいものを感じながらも、
躊躇いつつ言霊を口にする。
是と。
黄泉神の美しい唇が、仄暗い咲みを浮かべた。
言霊が確かに交わされた。
「誓約は成された。
女神が神去れば、
黄泉国でお迎えしよう。
黄泉を治める死の女神と成り、
我が妻として黄泉の國産みが始まるのだ――」




