have-not(05)
夜明け前。
結局、俺は一週間ぶりに自宅マンションに足を踏み入れた。玄関で靴を脱ぎ、フローリングに右足を乗せる。画鋲でも踏んだように足の裏からアキレス腱を通り、膝の裏に違和感が走る。けれど、続いて左足を上げると動作が中断されることはなかった。ひとまず、縷々(るる)を抱えたまま風呂場に連れて行き、彼女の足を洗った。そしてリビングの扉を押し開ける。平静を装うも、当然ながら内心は穏やかではなかった。どこからか湧き出た罪悪感が心の縁に齧り付く。ずきり、と痛む胸が、余計に俺を責めている気がした。縷々を床に下ろし、あれから一度も口を開かない篠を振り向いた。
俯いていた彼女は顔を上げ、何かを言いかけるが、また俯いてしまう。
俺も視線を床に落とし、
「犬、上げて大丈夫だったかな?」
「あ、はい、私は全然」
構いません、と語尾が挫ける篠。
俺は目を細め、リビングに入った。手探りで電気を点け、コートを脱いで椅子にかける。それからソファの背凭れに腰掛け、遮光眼鏡を外し、シャツの裾でレンズを拭いた。
縷々は落ち着きのない様子で辺りを見回していたが、やがて俺の足元に座った。深緑色の瞳で俺を見上げる。
部屋は以前と変わらず、整然と片付いていた。床も綺麗に掃除されている。けれど、いつも漂っているはずの、篠が好きなハーブの香りがしなかった。
それと、気になる点がもう一つ。
「あれ、これ……」
俺はソファの背凭れに座ったまま、振り返った。
何故かソファの上に俺のシャツが何枚も散らかっていたのだ。皺だらけで、まるでシャツを毛布の代わりにしたようだ。
そんな俺の視線に気付いたのか、篠は慌ててシャツを掻き集め、背後に隠した。
「こ、これはですね……」
紅潮する彼女の頬。じり、じり、と俺から離れていくが、垂れたシャツの裾や袖が丸見えだ。
「うん?」
俺は首を傾げた。
「えっと……」
口篭る篠。その頬はますます朱色を帯びていく。
俺は言葉を待った。
やがて篠が恥ずかしそうに、ゆっくりと口を開く。
「さ、寂しくて、つい……」
「ぁ……」
その瞬間、俺の中で何かが崩れた。
馬鹿馬鹿しい。今まで何をしていたのだろう。俺が暴走し、この手で篠を傷つけることだろうか、それとも俺がいることで篠が危険に晒してしまうことだろうか。そんな事を延々と考えて、下らない。どちらにせよ、そんなものに意味はなかった。結局、俺が物理的に篠を傷つける筈はなく、俺が彼女の側にいなければ彼女にとってそれが危険と同義である。本当に、この一週間が無意味に思えてきた。いや、実際に無意味だったのだろう。
柳里もそれを知っていて、俺と篠を会わせたのだ。俺たちはいつも、他人のことは分かる癖に、自分のこととなるとてんで駄目になる。根本的で当たり前のことでさえも、呆気なく見失ってしまうのだ。そしてまた見付け、離さないように大切に両手で抱き締める。きっとまた見失ってしまうと分かっているから、きつく、きつく、壊れてしまいそうな程に抱き締めるのだ。
「……ごめん」
そんな言葉が口からこぼれた。
遮光眼鏡が手から落ち、床を叩く。
縷々が驚いたように飛び上がる。
それにも構わず、俺はソファを迂回し、篠を抱き締めた。きつく、きつく、壊れてしまいそうなほどに。
「か、伽由さん……?」
そう言う篠の顔は見えない。
「……ごめん」
搾り出すように、俺は言った。
途端、彼女の肩が震えた。そして俺の胸に顔を押し付け、声もなく泣き出した。
淡色の明かりが灯った室内がやけに狭い。閉め切ったドレープカーテンが、この部屋そのものを世界から隔てているようだ。まるで、そう、冷たく寂しい夜から逃れるように。
俺は泣きじゃくる彼女の頭を撫でた。目を閉じ、音のない鳴き声を聞きながら。
そんな騒がしい静寂は、五分ほど続いた。
しばらくすると、鼻をすすりながら篠が顔を上げた。瞳は潤み、鼻の頭が赤くなっている。そして、くしゃくしゃな泣き顔で弱々しく笑った。
俺は、彼女の瞼に溜まる涙を指で拭い、片手を背中に、もう片手を頬に添えた。そして額と額をぴたりとくっつける。
互いの視線は逃げ道をなくし、至近距離で絡み合う。
「すまなかった。許して欲しいんだが、どうすればいいだろう。それとも、もう手遅れか?」
篠は静かに首を振った。瞼からはまた大粒の涙が溢れてくる。
「わ、私は、か、伽由さんに、側にい、て、欲しいだけ、なんです……」
嗚咽交じりに篠が言った。すると、堰を切ったように彼女は号泣した。
人間は強がりという行為が好きだ。けれど、強がれば強がるほど後の苦しみが肥大する。それを知っていながらも強がってしまう俺たちは、きっといつまでも変わることはないだろう。それを疑問に思いつつも、否定をせず、ましてやはっきりと肯定することも出来ず、ただ曖昧な精神に留まるのだ。
俺は彼女を優しく、けれど強く抱き締めた。頭を引き寄せ、髪に鼻を埋め、呼吸を重ねる。仄かに鼻腔を擽る甘い香り。一週間ほどしか離れていなかったのに随分と久しぶりに思えてしまうのは、きっと何かの証だろう。
「あの、苦しいです……」
篠が顔を上げた。赤く充血した大きな瞳が、上目使いに俺を見上げる。
「す、すまない」
俺は慌てて両腕の力を解いた。
そのまま少し距離を取ろうとして、体勢を崩した。
どさっ、と背中からソファに倒れる。
理由は簡単。
篠にソファへと押し倒されたのだ。
「さ、篠?」
俺は起き上がろうとするが、篠にのし掛かられ、呆気なく失敗。
「私がどれだけ寂しかったか、教えてあげます」
そう言って、篠は俺の上に跨った。
俺は恐る恐る、
「お、怒ってるのか?」
「いいえ」
ふるふる、と首を振る篠。言葉通り、表情も怒ってはいない。
俺は現状が飲み込めず、
「じゃあ、これはなんっ……」
俺の言葉を遮るように、彼女の桜色の口唇に俺のそれを塞がれた。
「んっ、さ、篠、ちょっ……」
篠は歯茎がぶつかるほどに唇を押し付け、俺の抵抗を許さない。
次の瞬間、小さな侵略が始まった。
彼女の小さい舌が俺の唇を掻き分け、歯茎を丁寧になぞり、舌で舌を弄ばれ、更に奥へと侵入してくる。そして俺の口をこじ開け、唾液を吸ったかと思うと、彼女の唾液と混ざって流れ込んできた。
そのまま篠は俺の胸板を両手で撫で回し、俺の腹部に腰を押し付ける。
やがて手探りで俺の手を掴むと、ソファに押し付けて俺の両腕の自由を奪った。
そして俺の手を掴んだまま、その片方を自らの胸に押し当てる。
右の掌に柔らかい感触が広がる。
小さく、けれど暖かい、掌中に丁度納まる温もり。
まだ侵略は終わらない。
俺が抗う暇もなく、彼女は俺の下唇を甘噛みする。
薄っすらと残った歯形を舌の先でなぞり、熱い息が吐き出される。
篠の腰の動きも激しさを増し、単調な前後の動きから、更なる刺激を求めるように円を描くような動きに変わる。
俺も息が苦しく、二つの淫靡な息遣いが木霊する。
直後、また舌が俺の口内を蹂躙する。
そして必要以上に唇を貪った後、彼女はそっと唇を離した。
粘性の唾液の糸が伸び、切れ、俺の顎に垂れる。
篠は呼吸を荒げたまま俺の口の周りや顎、鼻先についた唾液を綺麗に舐め取り、舌なめずりをしながら妖艶な微笑で俺を見下ろす。髪は乱れ、頬は上気し、目は虚ろ。駄目だ、暴走している。
「こんなものじゃないですよ。もっと、もっと寂しかったんですから」
彼女は肩で息をしながら、俺のシャツのボタンに手をかけた。
そこで両手の束縛から解放された俺は彼女の手を掴んだ。
篠が反抗の瞳を俺に向ける。
俺は苦笑し、
「雰囲気を壊して申し訳ないんだが、もう何日も風呂に入ってないんだ。話の後にしないか? それに、やはり話はきちんとしておくべきだと思う。情事の後ではきっと有耶無耶になってしまうだろうから」
「そ、そうですね」
やっと理性を取り戻したらしい篠は、俺と同じく苦笑した。
正直のところ、俺も精一杯だった。彼女の愛撫で俺の脳は蕩けたように熱を帯びていた。神経が嫌に敏感になり、息がいつもよりも熱く思える。確実に興奮している。危うく俺まで理性を失うところだった。長い息を吐きながら、上半身を起こす。それから篠の肩に両手を伸ばし、そっと抱き寄せた。
彼女も俺に体を預け、甘えるように俺の胸に頬擦りする。
俺は自分自身を落ち着かせるように、彼女の背中と髪を存分に撫でた。そして、些か余裕が出来てくると笑みの質を変えた。
「まあ、もったいない気もするが」
「え?」
篠がきょとんとした顔をする。
俺は唇の端を上げ、
「普段は大人しい子が淫らと化す様は、それはそれで興味深い」
篠は一瞬だけ表情に疑問の意を浮かべ、直後に顔を真っ赤に染めた。ぱくぱくと口を開閉し、そして両手で顔を覆うと、飛び跳ねるように俺の上から退いた。そのままソファの背凭れに顔を埋める。
「す、すみませんっ、私、なんてこと……」
「いや、構わないけど」
俺は微笑し、シャツの襟と裾を正した。
篠はというと、
「ああ、どうして私、あんなこと……違うのに、違うのにぃ……」
恥ずかしそうに耳を真っ赤に染め、そんなことを呟いていた。
そこで俺は大事な事を思い出す。
室内を見渡すと、いた。
キッチンの手前で、縷々が牙を剥き出して呻り声を上げていた。俺ではなく、篠に向かって。
「いかん、忘れていたな」
「そ、そうですね」
篠がぎこちない動作で反対側のソファへ移動する。まだ顔が紅潮しており、視線は床や天井や俺の周囲を忙しく泳いでいる。平静を取り繕って衣服の乱れを正しているが、かなり動揺している。自分から襲ってきた癖に。まったく、可愛い子だ。
すると、隙を突いたように縷々は俺の元に駆け寄り、膝の上へ飛び乗った。そのまま器用に四本足で俺の太股の上に立つと、ふらつきながらも腰を落とした。
俺は訳が分からず、縷々の眉間を人差し指で突いた。
「縷々、どうした?」
当の本人はじゃれるように俺の手を舐める。
「言いたいことがあるならはっきり言いなさい」
俺は縷々の顔を両手で掴み、揉み解すように撫でた。
彼女も気持ちいいようで、顎を上げ、目を細める。
一連のやり取りを見ていた篠は、眉を顰めた。
「る、縷々ちゃん、だよね。よ、宜しくね」
しかし縷々はそっぽを向き、俺の胸に擦り寄った。
俺はその頭に、左手を乗せた。右手にはまだ篠の乳房の温もりが残っている。その所作で、当然のことだが、篠と縷々に優劣をつけていることに気付いた。自身の内に潜む猥褻な気持ちには嫌気が差すが、大切にしたい感情であることには違いない。
そんなことを悠長に考えている間も、篠は表情を険しくしていく。
「どうした?」
「な、何でもないです……」
篠は不満そうにそう言うと、そっぽを向いた。
縷々と篠が何やら視線のやり取りをしている。威嚇するような牽制するような、冷戦のような雰囲気だ。まさか、篠が犬相手に嫉妬している訳ではないだろう。
「まあ、とにかく話をしよう」
俺は左手で縷々を撫でながら、ソファの背凭れに右肘を乗せた。
「……はい」
篠は畏まったように、両手を膝に乗せた。
彼女の緊張を和らげるためにも、俺は柔らかい表情を作りドレープカーテンを眺めた。
「もう、どれくらいになるかな……」
俺は篠と初めて会った日を思い返した。
「私は、伽由さんに助けてもらいました」
篠は記憶を大切に噛み締めるように、柔らく、そして儚く微笑んだ。
もう、すっかり遠い日になった過去。七十二支構想の実験台にされ、身も心もボロボロになった少女の姿が俺の頭を過ぎる。そして、その後も更に痛めつけられるであろう彼女を、半ば強引に引き取った哀れな一人の男も。
彼は最低で最悪の痛みと苦しみを知っていた。だから、彼女を守った。身勝手で利己的な理由だが、それでも守りたかった。自分よりも酷い痛みと苦しみが、彼女に降りかからないように。
思い返せばあれが、俺が始めて他人に興味を抱いた瞬間だった。原因は分からない。何が俺の心を揺るがしたのか、想像もつかない。だが、今となってはどうでもいい。
もう、自分が分からない。
何がしたいのか。
何のために生きているのか。
思考が巡り巡り、無数の選択肢を削っても一向に減らない。一つ減ればそれ以上に選択肢が生まれ、選択肢の削除を諦めても選択肢は増え続ける。
せめて今だけは、もう何も考える気にはなれなかった。
俺は目を閉じ、
「俺は、約束を破ってしまったな」
「いえ、そんなことっ」
ありません、と篠が表情を曇らせる。
「伽由さんは私を守ると言ってくれました。そして私は、伽由さんの心を救うとお約束しました。約束を破ってしまったのは、むしろ私の方です」
篠は一拍置き、
「あの頃の貴方は、自分の命を磨り減らすことでしか、自分に価値を見出せていませんでした。そんな貴方の心を、私は救うと誓った。そして、ほんの数日前までは救えている気でいました。もう貴方の心は安らぎに満ちていると。だって、私は幸せでしたから」
その篠の言葉に、俺は目を見開いた。
「でも、私は貴方を救えてはいなかった。貴方の腕の中で安らぎに酔いしれた私は、貴方も幸せなのだと思い込んでいたんです」
「そんなこと……」
「あるんです」
俺は自分を責めるような篠を止めようとしたが、静かな声に阻まれた。
「伽由さんは、同情で私を引き取ってくれただけなのに、それを勘違いして、私……」
篠は自虐的な笑みを浮かべた。
俺は彼女の言葉を反芻した。同情という言葉が胸を鋭利に抉る。違う、と否定したいが、否定しきれない。
「でも、今は違う」
「え?」
俺は静かに口を開く。
「確かに、始めは同情だったかもしれない。君が次に移される筈だった第二研究所は、下衆の巣窟だ。連中以外の研究員も下衆ばかりだが、あそこの連中は特に腐っている。亜型成長ホルモン(あがたせいちょうほるもん)の作用を計測するために、麻酔もかけずに体中をメスで引き裂いたり、毒性の薬物を投与したり。それだけに留まらず、嗜虐という行為に性的興奮を煽られ、実験以外の悪戯にも及ぶ。男女問わず、な」
嫌な記憶が、無遠慮に蘇る。
施術台に縛り付けられた俺を囲む、醜く息を荒げた研究員共。
そいつらの晒された下腹部を、俺は奪い取ったメスで引き裂いた。拘束具を引き千切るように破壊し、足の指でメスを挟み、両腕を拘束されながらも周囲の研究員共に地獄を見せてやったのだ。その際、俺の身体能力を買われ、国使防衛局の戦闘員となった。
しかし客観的に評価しても、そんな身体能力を持つ者は少ない。俺の知る限り、白露か海菴ぐらいのものだ。篠にそんな真似が出来るとは到底思えない。
「君がそんな目に遭うことが、俺は我慢ならなかった。他の人間がどうなろうと構わなかった俺が、あの日偶然にも見かけた少女が穢されることだけは許せなかった。それが同情だとしても、俺にとっては特別な感情だ。そして今は、もっと特別な感情になっている」
視界の端で、篠が俺を見るのが分かった。
俺はゆっくりと、斜めに彼女を見る。
「もう、同情なんて言葉では片付けられないくらい、俺の中には君がいるんだ、篠」
自然に表情が和らぎ、咽喉の下から横隔膜の上にかけて、暖かいものが溢れた。
「本当、ですか?」
篠が泣きそうな顔で尋ねる。
「ああ」
俺はそっと頷いた。
「もう一度、お約束します。私は、伽由さんの心をお救いします」
篠は小さく深呼吸し、
「私は、身も心も、もう貴方に救われました。ですから、今度は私の番です」
「篠……」
「でも、もし伽由さんがご迷惑でしたら、私は……」
「迷惑じゃない」
俺は首を振った。
「むしろ、これから君に迷惑をかけるだろう。多かれ少なかれ、俺はまだ戦闘の中で生きている。血を求め、命を擦り減らして」
「必ず、必ず私がそこから貴方をお救いします」
篠が言い放った。はっきりとした口調で、力強く。
「篠は、それでいいのかい?」
きっと俺は苦い顔をしているだろう。眩しいまでの彼女の澄んだ表情に、上手く明順応できない。
しかし篠は真っ直ぐに俺を見詰め、
「私には貴方しかいません。貴方しか、考えられません」
その言葉は、何の抵抗もなく俺の中に溶け込んだ。惨めな体裁や意地さえも、全てを抱き締めるように。
「ありがとう、……ありがとう」
俺は気恥ずかしく、顔を逸らした。彼女に出会わなかったら、こんな感情を抱くこともなかっただろう。きっと、誰でも様々な種を持っているのだ。それが何かのきっかけで芽を出し、花を付け、実を結ぶ。なら、俺にも違う生き方が出来るかもしれない。血に塗れた世界から抜け出すための種があるかもしれない。いや、もう既に俺はそうなる事を望んでいる。その時点で、芽は出ている。後はその芽を枯らさなければ、いつか……。
「本当にすまなかった、篠」
「いえ。伽由さんが戻ってきてくれて、それだけで嬉しいです」
篠は胸の前で両手を握り締めた。その笑顔はとても美しかった。
「それじゃ、風呂に入るよ。髭も剃らないと」
俺は髭が伸びた顎を撫でた。
今更ながら、篠はこんなものまで舐めたのか。
その篠が蠱惑的な笑みを浮かべ、
「背中、お流しします」
俺は苦笑し、
「え、遠慮しておく。それより縷々の相手をして欲しいんだが……ん?」
俺が縷々を降ろそうとすると、彼女は身を捩った。どうやら拒否しているらしい。
「そうですか、分かりました。おいで、縷々ちゃん」
篠は残念そうに俯いたが、すぐに穏やかな笑顔を上げ、両手を差し出した。
しかし縷々は無視し、俺の膝の上で丸くなる。
「降りて、縷々ちゃん。伽由さん、お風呂だって」
篠の笑顔が若干強張る。
が、縷々は耳を微かに動かすだけで、俺の膝の上から動こうとしない。
「ね、いい子だから」
そう言う篠の目は、既に笑っていなかった。そして振り向きもしない縷々を見たまま、俺に尋ねる。
「……伽由さん、一つお聞きしたいことが」
物々しい雰囲気だ。
「な、何?」
「縷々ちゃんは女の子ですか?」
「そうだが……」
それがどうした、と問う前に篠は頷いた。
「なるほど」
ふう、と篠は息を吐き出すと、
「この……」
「うん?」
篠は震える手で、俺を指差す。いや、性格には俺の膝の上だ。
「そこは……」
「さ、篠……?」
俺の声など聞こえていないように、篠はもはや口元すら笑っていない無表情で立ち上がった。
そして嵐の前兆の微風のような息を一つ吐くと、
「そこは私の場所だって言ってるんです!」
篠はそう叫び、いきなり飛び掛ってきた。
縷々は咄嗟に飛び退くが、俺は篠の見事な突進をまともに喰らってしまった。
あくまで体重も踏み込みも女の子のものであって一撃こそ軽い。しかし問題はそんなことではない。
今日の篠はどうもおかしい。水辺で慎ましく花弁を広げる睡蓮のような彼女が、今日は自らの感情を露にしている。
俺としては、彼女の様々な面を見られて嬉しいのだが、今はとりあえず落ち着いて欲しい。
「お前たち、やめなさいって」
俺は篠を支えながら起こそうとする。
しかし彼女は俺の胴に抱きつき、近付こうとする縷々を振り払った。
それでも噛み付こうと牙を光らせる縷々。
対して、俺が教え込んだ体術で牽制する篠。
右の掌底を突き出し、それを囮に左の掌底で相手の急所を捉える。無論、子犬相手に使う技ではない。
ところが、残念ながら篠の目は本気だった。
それを躱した縷々は距離を取り、獲物を狙うように体勢を低く構える。今にも襲い掛かってきそうな勢いだ。
それを見て、篠は名残惜しそうに俺の背中に回した手を解いた。そして、凛と立ち上がった。
「いいでしょう、お相手して差し上げます。腕の一本や二本、捨てる覚悟はおありで?」
「ある訳ないだろ……」
そんな俺の言葉も、彼女にはまったく届いていない。
「伽由さんが入浴している間に、決着を付けておきます。ですから、その後に二人でゆっくりしましょう」
篠は頬を紅潮させ、可憐に微笑んだ。
程なく、彼女たちの喧嘩が始まった。
「な、何なんだ……?」
問題はとりあえず解決した筈なのだが、面倒事は耐えない。
俺は立ち上がり、ドレープカーテンを開けた。
空の彼方はもう白んでいた。
更に、街には薄っすらと霧が出ている。
さて、熱いシャワーでも浴びて、また一日を始めよう。
そうすれば、明日の足音も近付いてくる。
そして、今日の足音はどんな旋律を残すだろう。
気が付けば、頭痛は治まっていた。




