have-not(03)
経済特別区域監督署。冬ヶ岬のほぼ中心、企業区域の一角にそれはある。通常は監督署と呼ばれ、冬ヶ岬の経済や治安などの動向を観測し、区域別の経済成長率や消費性向、住民の満足度や交通機関の各種数値などといった形で算出した多種に渡る数値を、政府もしくは行政機関に通知する役割を担っている国家機関だ。それを受け、各行政機関は冬ヶ岬のあらゆる状況を改善させるための政策を行う。それが、表向きの活動内容だ。本来の目的は、冬ヶ岬のあらゆる微細な変化を監視し、七十二支構想への危険因子を排除することにある。また、監督署には外事対策局や第一、二、三種政策立案局、国使防衛局などの暗躍機関が所属し、各任務を遂行している。
その監督署の一室、最上階より一階下の十二階に位置する外事対策局第二現場指揮官室には、万年筆が紙面に文字を連ねる軽やかな音が響いていた。辺りには嫌味のない柑橘類の芳香が漂い、各所に配置された什器もあまり豪奢という印象はない。それでも、高価なことに違いはないだろうが。
ふと、筆音が止んだ。
「出世というのも考えものだね。使い切れないほどに給料が上がる反面、その給料を使う暇がないほどに激務が嵩んでいく。何がしたいんだろうね、彼らは」
書類との格闘を中断し、不意に柳里が言った。
彼ら、というのは上層部の人間のことだろう。
「知らん。使おうと思えば幾らでも使えるだろうが。それ以前に、もう少しスマートに切り出せないのか? 枕詞としては最低だな」
ソファに寝転がったままぼんやりと天井を眺めていた俺は、天井からぶら下がる照明を経由し、棚に飾られた無数の表彰を見た。遮光眼鏡をしているので、照明に網膜を焼かれることもない。
「これは手厳しい。それでも、話術は君より長けていると思うんだが?」
柳里がそう言い、彼が椅子から立ち上がる音、そして絨毯を踏む音が続く。
「君もそう思うだろう? えっと、縷々(るる)と言ったかな?」
俺の腹部に顎を乗せていた縷々は、顔を上げ、しかし直ぐに元の体勢に戻った。器用なことに、右耳だけが柳里の方を向いている。
「おやおや、ペットは飼い主に似るというが、似たと言うよりもむしろこれは、君の無愛想が感染したんじゃないのか?」
柳里は笑いを噛み殺すようにして喉の奥で笑いながら、俺が寝そべるソファの背凭れに座った。
「可能なら、お前にうつしてその口を閉じてやりたいよ。それでも、お前の喋々(ちょうちょう)は治らないかもしれないがな」
俺は彼を見ないようにわざと首を傾け、テーブルの上の日本刀を見た。
我が愛刀、獅子姫だ。蓋が開いた木箱の中に丁重に置かれている。どうやら例の一件の際に外事対策局が回収し、そのまま監督署で保管していたらしい。
「どうしてそう悪態ばかり吐くかな、君は。一日に何度も聞きたくないな」
柳里が身を乗り出したのか、ソファの皮が擦れる音がした。
「部屋に呼んだのは貴様だろう、阿呆が」
「君が来たそうな顔をしていたからね」
「なるほど、お前の目のことは薄々気付いていたが、どうやら脳まで腐っているようだな。いや、悪い、そう言えば見てくれも腐乱していたな」
俺は柳里を見る気になれず、目を閉じた。すると、脳が勝手にとある現場指揮官の外見を思い出させる。
いつも喪服のような背広を着た二十代前半に見える男。肩にかかる黒髪はハリネズミの針のように硬そうで、片方の側頭部の髪だけを後ろに流すように編み込んでいる。肌は蒼白、唇は薄紫、血色が悪い顔は、けれど却って神秘的な印象を与え、弓張り月のような目や鋭利な顎の輪郭を際立たせる。憎たらしくも、整った容姿だ。宮森が曰く、監督所内で女性職員からの人気が高いそうだ。
「今日はいつになく不機嫌だね。どうせ、周防や篠と和睦できなかったんだろう?」
「下らない詮索は止めろ。それに、あんな連中とは最初から馴れ合った覚えはない」
そこでようやく俺は柳里を睨むように見た。
奴の顔には聖人のような微笑が張り付いている。
まったく、忌々しい。
「ふうん。まあ、いいけど」
柳里は腰を浮かすとソファを迂回し、向かいのソファに座った。それから長い足を組み、薄っすらと笑みを浮かべながら縷々を眺める。
「賢そうだね、その子。今朝拾ったんだろう?」
「拾ったと言うか……まあ、そうなんだが、逃げてくれても構わなかったんだが、懐かれたらしい」
「何とも歯切れが悪いね」
「餌をやって体を洗ってやったら懐かれた、ということだ」
俺は縷々の頭を撫でた。
子犬は深緑色の瞳を俺に向ける。
掌には子犬の体温がじんわりと伝わり、滑らかで高価毛布のような毛並みの手触りが心地いい。ずっと撫でていたい感触だが、手を止める。
「下りてくれ」
俺がそう言うと、縷々は顎を上げ、軽やかにソファから飛び降りた。
「ほう、本当に賢いな」
柳里が感嘆の声を上げた。顎に手を当て、興味深そうに縷々を観察している。
「そうだな、どこかの現場指揮官補佐のお嬢さんよりは怜悧だな」
「宮森君のことかい?」
柳里が笑う。
「さあて、ね」
俺はソファから起き上がり、柳里から離れるように、窓際のデスクに寄り掛かった。遮光眼鏡を外し、ポケットに仕舞う。
そこからは街の景色が眺望できる。窓の外では、暗闇の中に無数の明かりが点描のように輝いている。その抽象画めいた夜景が広がり、やがて遥か遠くで収束する。うず高く積まれた高層ビルも、茫然と立ち並ぶ街灯も、碁盤のように縦断に走る道路も、そのどれもが威勢を失くした晩夏の油蝉のように哀愁を纏っている。それでも、この半日にも満たない夜が開ければ、薄汚い街に変貌するだろう。
足元では縷々が、まるでちっぽけな俺に寄り添うように、その小さな体を俺の足に擦り付けていた。
俺は口元を微かに緩めた。
すると、柳里が小さく笑った。
「馬鹿だな、君は」
それは優しい笑みではなく、かと言って貶すような嘲笑でもなく、丁度その中間の、どちらにでも転びそうな微笑だった。
「全身に棘を生やして、周りから距離を置く。それは嫌われるのが怖いからだ。だから、嫌われる前に相手を嫌う。相手に嫌われたのは自分が相手を嫌っていたから、そんな自己満足の正当性が欲しいんだろう? そういう生き方、辛くないかい?」
「検討外れも甚だしい」
「素直じゃないところも、難儀だね」
「……お前に、何が分かる」
俺は目を細め、柳里を睨んだ。
その時、柳里の笑みは嘲笑へと豹変する。表面上の笑みは変わらないが、雰囲気がそう思わせるのだ。
「自惚れるなよ、伽由。自分の事を誰かに理解してもらうという事は、誰かを理解しようとすることよりも遥かに難しい。他人の事を理解しようともしない癖に、理解を求めるなんて虫がいい話だと思わないか?」
「……」
俺は無言で柳里を睨み続けた。本当の事を言うと、彼の言っていることが正しいのか否か分からなかった。彼の言い分は理解できるが、それ以前に自分の事を理解できていないのだ。時々自分の事が、まるで別の生き物のように思えるほどだ。
そんな思考を知ってか知らずか、柳里の笑みはまた中間的なものに戻る。
「しかし、人間の価値観は幼児期に形成される。その時期に洗脳されたのでは仕方がない。言わば、君は七十二支構想の犠牲でもあるという訳だ」
「偉そうに同情か? 憐れむなよ、阿呆が」
「ほら、また突き放す」
柳里は一変して優しい笑みを浮かべ、
「分かってるさ、それが君の最大限の配慮なのは、ね」
俺は何も言わず、柳里から目を逸らし、夜景を眺めた。
しかし、彼は気にせずに話を続ける。
「今の不安定な精神状態では、君は彼らに刃を向けかねない。彼らは君の事をほとんど知らないからね。無知というものは本当に怖い。人間の学問が純粋な知的好奇心によって発展したように、人は他人の事情にも無遠慮に踏み込んでくる。知ってどうなる訳でもないというのに、時に不躾なまでに知ろうとする。自分自身に最も不信感を抱く君は、身体が理性から離れてしまう事を危惧している。幼少期に刷り込まれた君の本能が暴走し、彼らを傷付けてしまう最悪の事態をね」
「妄言はそこまでだ。お前は俺の母親か?」
「君の母親は試験管だろう」
「……」
俺は言葉に詰まり、コートのポケットの中で両手を硬く握り締めていた。何の脈絡もない奴の言葉にさえ言い返せないなんて、自分がそれほどに冷静さを欠いていることにも驚いていた。
足元では、状況を把握しているのか、縷々が呻り声を上げていた。牙を剥き出し、柳里を睨んでいる。
それに何となく心を救われた気分になるのは、俺がどうかしているという証拠だ。
「あ、いや、今のは失言だった。悪かった」
直ぐに柳里が苦い顔をし、言った。
「謝る必要はない、本当のことだ。お前も、はしたないぞ」
俺はしゃがみ、縷々を抱き上げた。
彼女は抗議の念を含んだ目を俺に向ける。まさか、本当に人間の言葉を理解しているのだろうか。
「だから、悪かったよ」
「だから、くどい」
俺は振り返り、眉を上げた。笑うつもりだったのだが、上手くいかなかった。
柳里とはもう随分と長い付き合いになる。周防や陀多、そして篠よりも、ずっと昔からの付き合いだ。それで、こうして互いに無遠慮なまでに好き勝手な事を言い合える。それは罵倒や誹謗ではなく、柳里が言う事は俺に対して、そして俺が言う事は柳里に対して、的を射ている。互いがそれを理解し合い、自分を見失わないように確認し合っている。俺や柳里のような人種は、もはや何かを虐げることでしか自分を正当化できない人間になってしまっている。つまり、優越感を渇望しているのだ。だから、理性という最後の防衛線が崩壊してしまわないようにしている。それが崩壊した時、自分がどうなってしまうのか、想像もつかないから。
俺は縷々を腕に抱いたまま、デスクに寄りかかり、子犬の小さい頭に軽く顎を乗せた。
柳里はもう何も言わなかった。きっと微笑んでいるだろう。
静寂が渡る。
この部屋の時計は電子時計のため、秒針が振れる音は聞こえなかった。
しばらくすると、無駄に慌しい足音が聞こえた。
縷々の耳も微かに反応する。
俺は扉を振り返り、柳里を見やる。
彼は苦笑し、
「宮森君だね」
そう肩を竦めると、足を組み直し、扉を見た。
やがて足音が止まり、身なりを整えているのか布や髪の擦れる音が聞こえ、大きな深呼吸が二度、次に小さな咳払いが一つ、そして漸く扉がノックされた。
「どうぞ」
笑いを堪えながら、柳里が返事をする。
「し、失礼しま……あれ、伽由さん、いらしてたんですか?」
姿を現したのは、予想通り宮森だった。恭しく腰を曲げ、しかし中途半端に頭を下げたまま固まっている。
俺は無視し、宮森が抱えた資料を見た。
すると彼女は思い出したように、
「あ、すみません、失礼します」
恥ずかしそうに頬を紅潮させ、柳里に資料を差し出した。
「立案局からの報告です。どうやら進展があったようです」
「へえ」
柳里は資料を受け取ると、ぱらぱらとページを捲った。そして最後まで目を通すと、黙ってそれを俺に差し出した。
俺は縷々を床に下ろし、資料に手を伸ばした。
その際、手持ち無沙汰になったのかそわそわしている宮森と目が合う。
「そ、その犬、食べなかったんですか?」
宮森が縷々を見やり、苦笑混じりに言った。冗談のつもりらしい。
俺は無表情のまま彼女を凝視した。
「え、えっと……」
宮森が今にも泣きそうに顔を歪ませたので、俺はソファに座った。
縷々もソファに飛び乗ると、大して興味もなさそうに宮森を一瞥し、俺の隣で丸まった。この手の動物は、自分の中で優劣関係を構築する。要するに、宮森を自分よりも弱い立場に位置づけ、そんなものに牙を向ける価値もないと判断したのだろう。もっとも、人間の言葉を理解していたらの話だが。
俺は構わず、資料を捲った。すると興味深い内容が目に飛び込んできた。
「か、伽由さん、機嫌悪いですね」
宮森が、恐らく柳里にだろう、そう言った。
「うん、まあ、君が逢瀬の邪魔をしたからね」
「えっ!」
驚愕の声を上げる宮森。
「お、お二人は、そ、そういう関係だったんですかっ?」
俺は柳里を一瞥し、それからテーブルの上の獅子姫を見た。
「柳里、この部屋に獅子姫がある事を忘れるなよ」
「そんなに怒らないでくれ。私なりのユーモアだよ」
楽しそうに笑う柳里。
「俺には部下をからかっているようにしか見えないんだがな」
俺は盛大な溜め息と共に、適当に目を通した資料を柳里へと放り投げた。
紙は空中で乱れ、不恰好に床に落ちた。
「物は大切にしないと駄目じゃないか、伽由」
腰を屈め、資料を拾う柳里。
起き上がるその頭を本気で蹴り飛ばしてやりたかった。
「で、でも、お二人とも素敵ですし、ああ、でも、これを知ったら膳田さんたちが悲しむと言うか、い、いや、これはむしろ……」
宮森は両手で頬を押さえ、何やら呟いている。
横で鬱陶しい。
「お前も黙れ、こいつの冗談に決まっているだろうが」
「そ、そうなんですか?」
いつの間にか顔を赤らめていた宮森は、何故か残念そうに言った。
「……この不潔どもが」
俺は額に手を当て、天井を仰いだ。遮光眼鏡を外してしまったので照明が眩しく、思わず目を細めた。
「それで、感想は?」
柳里が聞く。
俺は天井を見上げたまま、
「随分と面白そうな事をやっているな」
「私もこんなに早く尻尾をつかめるとは思っていなかったけどね。ところで、君がここにいるという事は、私の用事に付き合ってくれるんだよね?」
「この嘘吐きめ。こういう事態を予測できていたから俺を呼んだんだろうが」
俺は苦々しく吐き捨てた。柳里にいいように利用されている気分だったからだ。
「そう拗ねないでくれ。君が望む楽しい仕事じゃないか」
「そうだな。寝坊助の我が殺意も、目を覚まし始めたらしい」
俺は視線を下ろし、目頭を軽く揉んだ。
「おいおい、殺さないでくれよ。彼には色々と聞きたいことと、まあ、こっちが本命なんだが、いい実験台になる」
わざとらしい苦笑を見せる柳里。
俺はポケットから遮光眼鏡を取り出し、レンズをコートの裾で拭きながら、柳里と宮森を見る。
「気分次第だな。お前と、それからお前が、現在進行形で俺の気分を損ねていることは言うまでもないが」
「えっ、私、何かしましたかっ?」
心外だ、と言わんばかりに身を乗り出す宮森。
俺は遮光眼鏡をかけ、
「それ以前の問題だ」
「そ、それ以前……?」
存在自体が癇に障る、と言おうとして止めた。
俺はテーブル上で眠る刀を手に取り、立ち上がった。デスクワーク派二名から距離を取り、刀身を鞘から抜き出す。それを蛍光灯にかざした。
光を乱反射する銀色の刃。どうやら手入れもしてくれたようで、血液や油は残っていなかった。滑らかに歪曲した側面が、中毒性を伴うように俺の目を引きつける。
俺は唇を歪め、
「迷魂が歌い歌い、丑寅時が踊り踊り、鯨鐘が笑い笑い。濃霧を飲み込んだ黍離は怏々しく雄叫びを吐き出し、やがて世界が目を覚ます。そして私は終焉の美しさを知るだろう。散り散る花弁よりも、乾き乾く蜂蜜よりも、霞んで霞む光耀よりも、遥かに甘美で妖艶なそなたを」
「闇色の髪を靡かせ、硝子の肌に毒を纏い、蕪穢の唇で歌声を奏でる、そう、死というそなたを」
途中から、俺の言葉を柳里が引き継いだ。
俺と柳里の視線が拮抗する。けれど、先ほどのような緊迫感はなく、どこか穏やかな雰囲気さえ帯びている。
俺たちは同時に小さく笑った。
「なんだ、お前も人の事を言えないじゃないか」
「私の母親は試験管じゃないけれど」
「お前の祖母は試験管だろうが」
「私はそもそも否定も肯定もした覚えはないが?」
胡散臭い骨董屋のような目を閉じ、両手を上げる柳里。
それが可笑しくて、俺は片手で両目を覆って笑った。
「し、試験管? と言うか、さっきの詩は何ですか?」
一人で当惑する宮森が言った。
「アップルシード構想序章『夢喰いの吟嘯』」
柳里が何も言わないので、仕方なく俺はそれだけ言った。
しかし、それでも宮森は首を捻っている。
勉強不足だな、こいつ。
「宮森君は入ったばかりだからね、知らないのも無理はない」
柳里が助け舟を出す。
「アップルシード構想とは七十二支構想の草案だよ。資料湖にまだ残っているから、暇な時にでも見てみるといい」
「もう昔の話だ」
そう言ってから、俺は柳里とどれくらいの付き合いなのか記憶を辿ってみた。
「はい、今度調べてみます。それより、お二人は昔からの知り合いなんですか?」
「まあね。もう半世紀とちょっとになるかな」
宮森の問い掛けに柳里が答える。
「えっ? お二人は一体お幾つなんですか?」
またも当惑する宮森。
柳里は笑って誤魔化し、俺は無視した。
「ちょっと伽由さん、また無視ですかっ?」
「縷々、少しあいつを黙らせてくれ」
俺は刀を鞘に収め、ソファを見やる。
丸まっていた縷々が俺を見上げる。
「か、伽由さん……?」
宮森の顔が引きつる。
直後、縷々はソファから飛び降りると、宮森の所まで走って行った。そしてしなやかに撓む後ろ足で飛び跳ねると、現場指揮官補佐殿のスーツの裾に噛み付いた。
「ぎゃあっ! か、伽由さん、止めてください、この犬っ!」
慌てふためく宮森。先ほどとは違った意味で泣きそうな顔をしている。
「じゃあ、そろそろ行こうか」
柳里が笑いながら資料を小脇に挟み、立ち上がった。それから背広の皺を伸ばし、襟元を正す。
「や、柳里指揮官っ?」
宮森は助けを求めるような視線を柳里、俺、柳里の順に投げた。縷々を振り払おうとするが、あえなく失敗する。
「そうだな、急ぐに越したことはない。ほら、行くぞ、縷々」
俺が名前を呼ぶと、縷々は宮森に襲い掛かるのを止め、俺の足元に戻った。あれだけ飛び跳ねたというのに、呼吸一つ乱れていない。俺を見上げる目は、褒美を求める子供のような色をしていた。
俺は微笑み、足で軽く縷々の体に触れた。
彼女も、じゃれるように体を押し付ける。
「あ、あの、私は……」
縷々の強襲が止んで安心したのもつかの間、一人で取り残されたように困惑する宮森は、苦笑して首を傾げる。
「君はお留守番」
満面に笑む柳里。背後に嗜虐的な雰囲気が漂っている。
「じゃあ、残った書類整理、宜しく」
「え、ちょ、ちょっと……?」
混乱する宮森に一度だけ手を振り、さっさと部屋を出て行く柳里。
俺と縷々もその後に続いた。
扉が閉まる直前、がっくりとうな垂れる宮森が目に入った。
蛍光灯が虚しく灯る廊下。
反響する乾いた足音。
刀を握る手が仄かに熱を帯びているように思える。
どうやら俺の精神は、幾ばくかの不安を抱えつつも、安定しつつあるようだ。




