転生令息は婚約者の悪役令嬢が好きすぎる
鏡に映るやけに端正な自分の姿。見覚えのある名前の幼馴染みたち。
間違いない…前世で妹がハマっていた乙女ゲームの攻略対象、宵闇の公爵子息 アレンに転生している…。
これはとんでもないチャンスだ。
俺はこの世界でこれから何が起こるかを知っている。
上手く立ち回ればヒロインとのハッピーエンドだろうと、田舎でハーレムスローライフエンドだって簡単にたどり着くはずだ。
それに異世界転生……となれば、チート能力を持っていることは鉄板。
宵闇の公爵子息って言うくらいだ…闇の魔力が強いとか、こう…闇をシューってしてシューってして、シャーって飛ばすような攻撃魔法が使えるとか。
第三の目が開いて人の心や未来をパーンっと見通せるってのもアリだな なんせゲームの世界だし。
って、中二病かよ。
とりあえず、この乙女ゲームのことを思い出そう。
アレン・フロリアは公爵家の跡取りで…気弱で日和見主義……俺とは真逆な性格だな。
公爵領は繊維業が盛んで、特に衣服の評価が高かったはずだ。
それで原材料の安定供給を狙って11歳のアレンは、紡績が盛んなウォールデン伯爵家と、政略結婚のため婚約………。
ウォールデン伯爵令嬢……リリス・ウォールデンって悪役令嬢じゃなかったっけ?
妹がボロクソに語っていた気がする
婚約者がいるのに第三王子に惚れ込んでつきまとい、公爵家の怒りを買い婚約破棄されるものの反省せず、ヒロインをいじめにいじめぬいて、最後は暗殺未遂だか暴漢をさしむけるだとか、犯罪かまして国外追放になる悪魔のような女だと。
見た目も、金髪縦ロールにつり目という 美人ではあるけどいかにもドギツイ悪役令嬢って女だった。
えー…アレと婚約しちゃうんですか俺…。
婚約破棄されるまで何年も「黒髪なんて陰気!」とか罵られちゃうんですか俺…。
悪役令嬢のご機嫌取りなんてお断りだ。
イベントを待つまでもなく、婚約破棄にもちこんでやろう。
そう思って、初対面から酷い言葉をかけてやった。
まだ縦ロールでも、キツイ表情のつり目でもない、ただただ無茶苦茶かわいいお人形のような少女に向かって「悪魔のよう」と言うのには罪悪感があった。
だから「世界の異端児」とかわけわからないこと言っちゃったし…。
でもさ、いくらかわいくても あのリリス・ウォールデンなんだ。
格上の公爵家相手でも自分への侮辱を許せず、大発狂してあわよくば婚約解消までいけるかな?って思ってたんだけど…
リリスは呆然として、泣きも喚きもしなかった。
無垢な少女を傷つけてしまったみたいで…なんだか心が傷んだ。
当然、両親にもこっぴどく叱られた。
お詫びの品を選んで送れって言われたけど…悪役令嬢が喜ぶものなんて知らない。
お抱えの宝石商に「流行ってるものをいくつか」って言って適当に選んでもらった。
相変わらずリリスとは早く婚約破棄したかった。
名産品の原材料確保ったって、別にウォールデン伯爵領だけが紡績をしているわけじゃないし。
それこそ、ゲームの中では婚約破棄後 ヒロインのモルディオス男爵領地の糸を買っていた。
ヒロインとのハッピーエンドを狙うなら むしろ早めの婚約破棄が吉となるはずだ。
とはいえ、まだ悪役令嬢の片鱗すら見せないリリスをまた罵倒しようとは思えず…
出会いの件も利用して、おかしな奴を演じて嫌われようと決めた。
名付けて「パパ、リリスの婚約者 頭おかしいの。リリス、あんなのと結婚したくない(涙)」作戦だ。
リリスと顔を合わせる度に、悪役令嬢としてのリリスの話や、痛い子に必須の中二病創作ストーリー、そして前世の話を聞かせてやった。
もちろん、俺の奇行が外に広まらないように「他言するなよ」と念を押してから。
悪役令嬢リリスの話をする時は、さすがに辛そうな顔を見せるものの、前世の話…ここでは荒唐無稽な空想話にしかきこえない話を聞かせたときのリリスは…とても楽しそうだった。
「他の国に行くのに空を飛ぶ乗り物があるんですか!?空をとぶって…どんな心地なんでしょう…。雲はやっぱりフワフワの綿みたいに柔らかいのでしょうか?」
目を輝かせて俺の話を聞くリリスは……やっぱりただただかわいい。
「もっとお話を聞きたかったのに」「まだ帰りたくないです」「今度はいつ会えますか?」
そんなこと言うな…俺は、リリスに嫌われようとして話をしていた…はずなのに。
いつしか「他言するなよ」という言葉は、『俺の奇行を外に漏らすな』から『2人だけの秘密だよ』に意味が変わっていき…
俺はリリスを手放したくなくなった。
リリスを悪役令嬢にはしない。
俺は気弱で日和見主義なアレンではないし、リリスも高飛車で激情型なんかじゃない。
俺の黒髪を陰気と嫌うこともなければ、悪役令嬢仕様の縦ロールも、つり目風メイクもしていない。
これならゲームのシナリオから外れることができるんじゃないか。
あと恐ろしいのは、所謂 ゲームの強制力だろう。
俺やリリスにその気がなくとも、シナリオに沿った行動をしてしまうことがあるかもしれない。
リリスを守る力が欲しい…。
密かにずっと心の端で望んでいた、チートな転生ボーナス能力が目覚めることはなさそうだ。
それなら答えは簡単だ。
俺自身で強くなればいい。
まずは剣術。物理的にリリスを守れるように。
領地経営の手伝いや歴史の勉強。他の貴族と政治的に渡り合えるように。
…おかしいな…今世は楽してハッピーエンドに行くはずだったのに、気がつけば前世よりずっと努力しているぞ…。
リリスには、学園に入っても 第三王子とモルディオス男爵令嬢には近づくな と、しつこく言っておいた。
接点がなければ、なんのトラブルも起きないだろう。
現にリリスが入学して数ヶ月、リリスの周りは平穏そのものだった。
それとは裏腹に、第三王子の様子がおかしくなってきた。
レイリー第三王子は、もともと真面目で正義感が強く、その中性的な容貌からは想像出来ないほど剣の腕も強かった。
学校の成績も優秀だし、平民の福祉の必要性を訴えるなど民の上に立つ素質が備わった男で、リリスが心を惹かれても仕方ないと思ってしまうほどには魅力的な男だった。
そう。全て過去形だ。
彼はモルディオス男爵令嬢と出会って変わってしまった。
入学以来、誰にも譲らなかった主席の座からあっさりと転げ落ちた。
剣術にうちこむことをやめ、筋肉が落ちたのか急激に細くなった体はひどく不健康に見えた。
市井に目を向けず、モルディオス男爵領にばかり視察しにいくようになった。
幼なじみとして、あるいは生徒会メンバーとして、彼に何度か苦言を呈したが、省みる様子はない。
本当に…どうしちまったんだよ…。
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「あ……っ…ごめんなさい。あまりに綺麗な黒髪だから、つい…見とれてしまってぇ」
へぇ……見とれて…ね。
俺が振り返ったのは、ねっとりとした不愉快な視線を感じたからなんだけどなぁ。
この台詞は、アレンとモルディオス男爵令嬢の出会いイベントだ。
普段リリスに「陰気」と罵られる黒髪を、モルディオス男爵令嬢に綺麗と褒められ、以来彼女が気になっていく…というシナリオだ。
まぁ俺のリリスは黒髪を貶したりしないし、ここで褒められたところで「そりゃ毎日トリートメントしてますし?」くらいしか思わないんだけど。
「えっとぉ、フロリア様ですよね。レイリー様の幼なじみの。実はずーっとお話してみたかったんです」
桃色の瞳をうるませて、恥ずかしそうに頬を染めるモルディオス男爵令嬢…このゲームのヒロイン。
…はっきり言って全然かわいくない。
それに、どことなく知性低そうな喋り方が癪に障る。
「今度、カノンの実家で秘密のお茶会があって~…レイリー様も来るんですよ!だから良かったらフロリア様も…」
秘密のお茶会って何だよ!?
レイリー殿下もなんでそんな怪しいところに行ってるんだよ!?
シナリオじゃこんな展開はなかったはずなのに…。
不審に思って視線を逸らすと、校舎の2階からリリスがこちらを見つめ…いや、睨んでいる?
ゲームの強制力という言葉が頭をよぎる。
「お誘いありがとうございます。しかし、私はレイリー殿下とは違い 婚約者のある身ですから、ご令嬢の私的な茶会は控えさせていただきます」
極力失礼のないように断る。
「そうですか…婚約者……ね」
急に無表情になって呟く様子に、なんとも言えない気持ち悪さを覚える。
この人、なんかおかしい。
半ば本能のようなものが警鐘を鳴らす。
再び校舎の2階に目を向けると、既にそこには誰もいなかった。
そうだ…リリスは何故睨んでいた?
俺とモルディオス男爵令嬢が話していることに嫉妬した、というのなら…正直ちょっと嬉しい。
けれどゲームの強制力から来るものなら……やはりレイリー殿下に惹かれてモルディオス男爵令嬢を疎ましく思っているのか…?
いや……仮に殿下に惹かれているとしても、俺はリリスを悪役令嬢にしないって決めたんだ。
ゲームの強制力でイベントが起きてしまうなら、次のイベントは明日だ。
1年生の合唱会の合同練習、その合間に悪役令嬢リリスがモルディオス男爵令嬢の持ち物を壊すというイベント。
悪役令嬢リリスが過激な行動を起こし始める、最初のイベントだ。
なんとかイベントを回避させたい…できれば、リリスに学園を休んで欲しい…けれど、どうしたら不自然なくイベントから遠ざけられるか…
帰宅してもなお悩んでいるところに、陽気な声が聞こえてきた。
「ふっふふーん」
「奥様…飲みすぎですよ!」
母が食事会から帰宅したらしい。普段は公爵夫人らしくキリッとしているのに、酒が入った途端この調子になるのは、まぁいつものことだが。
「そんなことないわよっ!ほらっ華麗なステップをご覧なさ~いっっ!きゃっ」
べタン!
…また転んだな。
「奥様~!!」
「いったーい!もう重傷よ!!アレン!母親が倒れてるんだから手を貸しなさいよ!!」
倒れたって大袈裟な………そうだ!
次の日、朝一番でウォールデン家に書類を届けに向かったメイドに、チップを握らせてこう言ってもらった。
「奥様が倒れられて大変なんです」
予想通り、リリスはすぐに公爵家に駆けつけてくれたし、母はリリスを引き止めてくれた。
リリスはイベントを起こせない。
次のイベント回避まで、平穏な日常が続く…はずだった。
「そういえば、君の婚約者が生徒会室に呼び出されていたようだけど…あ、コラ!廊下は走っちゃいけません!」
リリスの担任は世間話程度のつもりで話してくれたんだろうが、助かった。
レイリー殿下…いや 馬鹿王子に、やけに大量に雑用を押し付けられておかしいと思ってたんだ!
俺を生徒会室から遠ざけてリリスに何をしようとしてるんだ…!
息が切れるほど走って、生徒会室に入ると弱々しく俺の名を呼ぶリリスの目には涙が…
クッソ!こいつら…何をしやがった!
「殿下、これは一体どういうことでしょうか?」
できる限り 冷静に言ったつもりだが、馬鹿王子が怯む。
そうだろうな。鍛錬をサボって腑抜けたお前と俺の差は、お前が一番よくわかるだろうな。
なおもリリスを糾弾する馬鹿王子だが、リリスのアリバイは完璧だ。
あの日、本当にリリスを休ませておいて良かった。
リリスが犯人でないなら、このイベントを起こして得をするのは誰か。
真相を明らかにしてやるのもまた一興。
事件として調査すべきと提案すると、馬鹿王子は賛成したものの、モルディオス男爵令嬢が露骨に話題を逸らす。
本来なら押し切って調査にこぎ着けてやりたいところだが……リリスを帰してやることのほうが優先だ。
最後に、話題を蒸し返してから退出してやった。
送っていこうと馬車に乗せると、リリスはひどく震え 俺に抱きついてきた。
うっわ…細いのになんか柔らかいし…すっげぇいい匂いが……じゃなくて!
守ると決めたのに、こんなに婚約者を怯えさせて。
情けない。
リリスに謝ると、今度は俺がリリスを庇ったせいで不敬になるのでは?と心配された。
あの馬鹿王子になんて、やられるかよ。
至って真面目に答えたつもりだけど、リリスがジッと俺を見つめてくるから…かわいい…食べちゃいたいけど…
「…どうした?何か俺、変なこと言ったか?」
普段おかしな話ばかりしているせいで、真面目なことを言うのが変に見られてたら嫌だな…。
「あ、…いえ……やっぱりアレン様は最高に格好いいと思って…」
真っ赤な顔して告げるリリスの言葉が嬉しすぎて、つい凡庸な返し方をしてしまった。
俺だって、リリスが最高にかわいいと思ってるのに!
素直に言葉にできなくてもどかしい。
リリスを喜ばせてやりたい。
けれど、転生チート能力も、腑抜ける前のレイリー殿下のような天賦の才も持たない俺なんて…
弱気になってしまうのもゲーム補正なんだろうか。だめだ、弱気なアレンじゃリリスを守れない。
気持ちを引き締めて、鞄に手を伸ばす。
ずっと渡せずにいた…リリスへのプレゼントを取り出す。
後悔していたんだ。
お詫びを兼ねた婚約祝いとはいえ、リリスに初めて贈る品を適当にすませてしまったことを。
ちゃんと俺の気持ちを込めたものを贈りたい
そう思って前世で得意だったガラスのアクセサリーを作り始めた。
気泡をとじこめた涼し気なもの、花をあしらったカラフルなもの。
それに、満天の星を模したもの。
これをリリスに身につけて欲しい。
そう思えど宵闇の公爵子息を、俺を想起させるような しかも手作りのアクセサリーを身につけさせたいなんて、独占欲の強い 重すぎる男みたいじゃないか。
それに、この世界では珍しいとはいえ所詮はガラス玉。
貴族令嬢に贈るにはあまりにも安っぽすぎる…
宝石店で改めてプレゼントを選びなおそうと提案し、鞄に戻そうとしたが、リリスがまるで奪うかのように手に取っていった。
「アレン様は本当に闇の魔力を持っていたんですね!素敵!!星明かりをペンダントに閉じ込めてしまうなんて…!」
闇の魔力って…中二病かよ!
リリスは興奮気味に喜び、ただのガラス玉だと告げたにもかかわらず、なんとデビュタントに身につけて行きたいとまで言ってくれた。
さすがにデビュタントにガラス玉をつけていかせるわけにはいかないと思ったが、「アレン様の婚約者だとしらしめたい」とまで言われてしまう。
…ヤバイ。嬉しい。
ペンダントに合わせてイヤリングも作ろうか。
いっそ俺色に染めてやるのも悪くない。
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「殿下、交流会の招待名簿にウォールデン伯爵家の名前が見当たらなかったのですが?」
「…あぁ、ゲホッ、カノンがね…ゲホゲホッ、嫌がるんだよ…招待しないで欲しいと…」
…それでリリスをハブるって言うのか。全くもって王族のすることじゃないだろ…。
レイリー殿下は最近ますます痩せた。
咳き込んだり、ふらついたり…何か悪い病気でもあるかのようだ。
「レイリー様ぁ、大丈夫ですか?今、カノンが薬湯を淹れますね」
なんでこいつが…モルディオス男爵令嬢が生徒会室にいるんだ。
「元気になぁれ~元気になぁれ~」と言いながらハーブティーを淹れ始める…おまじないだかなんだか知らないが、飲んだら馬鹿になりそう。
あぁ、だからレイリー殿下は馬鹿王子になったのか、納得。
そういえば今日は大事な来客があるんだった。
ハーブティーの臭いで俺まで馬鹿になる前に退散しよう。
「ははっ、噂には聞いていたが、モルディオス男爵令嬢はずいぶんと個性の強い女性みたいだね…いや怖い怖い」
「他人事じゃないですよ。隙あらばレイリー殿下にくっついてくる女ですからね。リカルド殿下もお会いすることになるでしょう」
お忍びで公爵家を訪れたのはリカルド第二王子。
レイリー殿下の実の兄であり、俺の幼馴染みの一人だ。
「…レイリーか…。レイリーは一体どうしてああなってしまったんだい?僕が留学していたたった1年の間に…」
「…正しくは、たったの5ヵ月で…です」
リカルド殿下は、ただ幼なじみと昔語りをしようと訪問したわけではなさそうだ。
「…医者に見せようとしても、『カノンが介抱してくれるほうがいい』と拒絶されるんだ。正直、僕も父上も、モルディオス男爵家を怪しいと思っている。アレン…君から見て、何か気づいたことはないか?些細なことでもかまわない」
モルディオス男爵令嬢に関しては、存在全てがおかしいと思うがな…そういえば
「レイリー殿下は男爵家の秘密のお茶会なるものにご出席されていたとか」
「おそらく、男爵領での新たな名産品の試作発表会だろう。なんでも、紡績の原料の繊維植物を余すことなく有効活用しようとしているとか」
茎から繊維をとるだけでなく、葉や花もロスなく使いたい ということか。
まぁ同じ紡績でも伯爵家で元々経済的余裕のあるウォールデン家とは違い、モルディオス男爵家は金策に苦労していたらしいし、企業努力としては真っ当なところか…。
「男爵領は2年前にも大規模な山火事を起こして、紡績工場の倉庫も半焼していたからね。そのショックからか、煙を吸い込んだ領民も気を病んでしまうものが多かったとか」
「へぇ…そんなことが。煙を吸い込んで気を病むなんてまるで……」
ヤバイ薬を炙った人みたいだ。
「……リカルド殿下、モルディオス男爵領で使われる繊維植物って…?」
「一般的に紡績に使われるものだよ。ウォールデン伯爵家も同じ種類を使っていると思うけど…」
交流会では特別なお香を焚き、特別なお茶が振舞われる予定だと聞いた。
もし、それが特定条件下で幻覚作用を示すものだったら?
前世で言うドラッグのようなものなら…
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「ンキーーーッ!ンキーーーッ!!」
異様な興奮を示し、密閉された狭い部屋を全力で駆け巡る猿。
止まれず、壁にぶつかっても白目を向いてまた走り出す。
ウォールデン伯爵に頼んで分けてもらった繊維植物には、思った通り幻覚作用があったようだ。
エサに細かく砕いた乾燥植物を混ぜ、さらに乾燥植物を炙った煙を吸わせた猿の興奮は止まらない。
「なんだこれは…」
「とても…娘には見せられません…」
リカルド殿下も、ウォールデン伯爵も気分を悪くしてしまったらしく顔を青くしている。
やがて猿は壁に何度も自らの頭を打ち付けて絶命した。
「毎日少量の植物片をエサに混ぜていた猿の方はどうなった?」
「はっ。急激に体調を落とし、風邪のような症状を示し始めました。誠に恐れながら…レイリー殿下の経過によく似ているかと…」
リカルド殿下の問いに、騎士が答える。
「そうか……。モルディオス男爵家に国家反逆罪の疑いあり!早急に捕縛せよ!」
国家反逆罪というのは大袈裟なんじゃないかと思ったが…
その後、交流会で陛下に幻覚剤を盛り、酩酊状態にしたところでレイリー殿下を王太子にすると宣誓させようとしていた計画が明らかとなった。
レイリー殿下は廃嫡、無期投獄。
まぁ実際は投獄じゃなくて、田舎で療養なんだけど…
ようやく受けた医師の診察によれば、レイリー殿下の内臓はかなり弱っているらしい。
免疫力も落ちて…いつ何が致命傷になるか分からない彼を、牢に送らないのは陛下の最後の温情だろう。
モルディオス男爵令嬢は、家族と共に投獄され裁判を待っていたが…舌を噛みきって自ら命を絶った。
彼女が絶命する直前、意味のわからない言葉をぶつぶつと呟いていたらしいが…その詳細に俺はゾッとした。
「……今回はガチャに失敗したのよ…。これはガチャ。転生ガチャなの。次こそはSSRの逆ハーヒロイン…チート無双…ふふっ…さぁリセマラしなくっちゃ…」
彼女もまた転生者だったのだろう。
とはいえ、人生をガチャだのリセマラだの言う気持ちは全く理解できないが…。
リリスは予告通り俺の贈ったアクセサリーを身につけ、華々しくデビュタントを飾った。
ガラス玉なんて身につけて馬鹿にされないかと最後まで懸念していたが、貴婦人方から大いに好評を得て今や『月の伯爵令嬢』なんて呼ばれている。
ガラス製アクセサリーの問い合わせ対応に、公爵家も大忙しだ。繊維植物の取扱いが免許制になったこともあわせて、暫くのんびり出来る日はなさそうだ…。
そういえば先の事件の詳細をリリスに聞かれたらどこまで話すべきかと悩んでいたが、リリスはさして興味がないのか、ろくに問われず安心した。
リリスは、知らなくていい。
ガラス玉を宝石に変えた悪役令嬢の栄光に隠れて、欲に溺れ自らの命をコインより軽く捨てたヒロインがいたことなんて。
誤字脱字報告ありがとうございます。