72.ありきたりで新鮮な日常
「もう~~っ! ふた言目には、『本当に僕でいいんですか』って言うんですもの。困ってしまう」
週末。
いつものように、弘晃の母の静江と正弘の婚約者の華江との3人でお茶を楽しみながら、紫乃は愚痴っていた。
「いやだ。 弘晃おにいさまったら、まだ、そんなことを言ってらっしゃるの?」
紅茶の入った茶碗を紫乃に差し出しながら、華江が笑う。一応客人であるにも関わらず、茶を淹れるのは、常に華江の役割だった。紅茶だけではなく緑茶やコーヒーにしても、彼女が淹れたものは、なぜか一味違うのだ。
「弘晃おにいさまがいいからこそ、紫乃ちゃんは、家出までしてきたっていうのにね。 ここの兄弟は、いまひとつ女心がわかっていないわよね」
「え? 正弘さんも、わかってないんですか?」
紫乃が驚くと、「そうは見えないかもしれないけど、そうなのよ」と、華江が苦笑いを浮かる。
ホント、困っちゃうわよね~……と、将来の義理の姉妹が声を合わせて溜息をつくと、紅茶から上がる湯気が、ふわりと揺らめいた。
「ごめんなさいね。ふたりとも、あなたたちに甘えているのよ」
クッキーの端を上品にかじりながら、兄弟の母が娘たちに微笑みかけた。
「正弘は、何の説明もしなくても、華江ちゃんが自分のことを何でもわかってくれているって思い込んでいるし、弘晃は、その逆。紫乃さんが自分のお嫁さんになってくれることが未だに信じられなくて、紫乃ちゃんの迷惑を顧みず、一日に何度も確認して、自分の不安を解消しているというわけ」
「まあ、『これが私じゃなかったら、とっくにあなたと別れているわっ!!』って思うことは、多々ありますけどね」
「そっか、弘晃さん、不安なんだ」
静江の言葉を受けて、娘たちは、茶を啜りながら満更でもないというような笑みを浮かべた。
「でも、紫乃さん。私は、弘晃の心配も、もっともだと思わないでもないわよ。本当に、本当に、あの子で良いの?」
「おかあさままで、わたくしに、それを訊くんですか?」
不安げに顔を曇らせながら、しつこく念を押す静江に、紫乃は、眉根をきつく寄せて不快感を示した。
「心配してくださるのはありがたいけれど、 大丈夫ですよ」
紫乃は、静かに茶碗を置くと、静江に微笑んだ。
「今は、まだ慣れていなくて、時間のやりくりがつかずにバタバタしているところもありますけど、わたくしは、嫌なことを我慢しているつもりはありませんし、その逆に、したいことを我慢していることもありません。それに、弘晃さんのおかげで、わたくし、ここのところ、毎日が楽しくてしかたがないです」
「楽しい?」
「ええ。でも、家に病気の人がいるのに、楽しいって言うのは不謹慎かもしれませんけどね」
紫乃が、照れ笑いを浮かべながら説明を始めた。
体が弱い弘晃は、ほとんどの時間を、この家の中で過ごしている。外出は、たまに運転手つきの車で会社に行く程度。学校にも通ったことがない。たとえ祖父が弘晃の外出を禁止していなかったとしても、彼の生活は、ほとんど変ることがなかっただろうと思われる。
そのため、弘晃は、書物から得た知識は人一倍あるにも関わらず、書物に載せるまでもないような、誰でも当たり前に知っているようなことを知らなかったりすることがある。また、彼は、紫乃たちが日々何気なくこなしているようなことや、当たり前すぎて普段は見過ごしているようなことを、ひどく面白がったりもする。
「そういうことを探すのが、とても楽しいんです。おかげで、最近は、何を見ても、『これ、弘晃さんは見たことがあるかしら?』って思うようになってしまいました」
大学の講堂にある、引っ張るだけで上下が簡単に入れ替わる大きな黒板。
気に入りの文房具店で、新しい商品を探し出す楽しみ。
次の流行を先取りする、ショーウィンドウのマネキンたち。
工事現場に立つ交通整理のおじさん。
きれいな模様が刻印されたマンホールの蓋。
変った形の屋根。
歩くたびに少しずつ見え方が変化していく、いつもの通学路。
『弘晃』というフィルターを通して見るだけで、見慣れた景色が、実に新鮮なものに思えてくる。弘晃がまた、紫乃が見つけてきた些細でくだらない話や物を、いちいち喜んでくれるのだ。それが、彼女には、とても嬉しい。
「弘晃さんが喜んでくれそうなものを見つけると、嬉しくなってしまって、早く帰りたくなるんです。先日の白い萩なんか、痛まないうちに、なるべく急いで持って帰ろうって思ったら、気が急いちゃって…… でも、最近は、自分でも、まずいとは思うんですよ」
紫乃は顔を曇らせた。
「植物だけではなくて、同じように犬や猫とかも、片っ端から持って帰って弘晃さんに見せたくなってしまうわけですよ。ほら、犬や猫って、種類が違うと見た目も違うじゃないですか?」
このままいくと、自分は怪しい犬攫いになってしまいそうだと、机に突っ伏しながら紫乃が深刻な表情で告白した。
「ああ。 それは、わりと普通……よね?」
「そうですね。 特に珍しくもない現象ですね」
華江と静江が顔を見合わせて、可笑しそうに笑った。
「は?」
「犬や猫は、正弘さんが子供の頃に沢山連れて帰ってきたことがあるみたいだから、紫乃ちゃんは、植物の担当でいいと思うわ」
「紫乃さんに限らず、結構いるのよ。『ひとつ弘晃に面白いものを見せてやろう』みたいな人が」
クスクスと笑いながら、華江たちが紫乃に言った。
「そういえば、華江ちゃんのおじいさまが、馬鹿みたいに大きなコンピューターを持ってきたことがあったわね」
「ありましたねえ。 家庭用の電源では使えないのに、『弘晃に見せるんだ』って、きかなくて。他にも、銀行から10億円とか……」
「そうそう、『中村本家の当主たるものが、それぐらいの金を見たことがなくてどうする』とか言って、銀行からジュラルミンケースで10箱分。それと、金塊? あれって、重たいのよねえ」
「あとは、万博で話題になった月の石とか」
「ラクダとか?」
「いいえ、ラクダは、結局、来なかったのよ。その代わりといってはなんだけど、都内の馬術クラブに搬入予定だった引退したサラブレットがきたわね」
ふたりの話は、法螺話めいているのものの、事実であるらしかった。他にもいろいろと、普通では簡単に見られないようなものが、予告なしに、中村家に持ち込まれることがあるという。
「だから、弘晃も、迂闊に『見たことがない』とは言えないのよね。とんでもないものがやってくることがあるから」
「イグアナとかね」
思い出したように、華江が苦笑した。
「あらあ。あの子たちは可愛かったわよ。吼えないし、ほとんど動かないし、食べ物はサボテンだっていうじゃない?」
「……。おかあさま、イグアナが本当にお好きだったんですか?」
紫乃が呆れたように口を挟む。
「そういえば、紫乃ちゃんもイグアナが好きなのよね? あなたにも、見せてあげられれば良かったのにねえ」
「は……あ」
いまさら、『口からでまかせでした』なんて、とても言えない。さかんに残念がる静江に、紫乃は曖昧な笑みを返すことしかできなかった。
「イグアナは残念だったけれど、10月の末にパンダが来るのよね? 見たいわあ、パンダ」
静江が嬉しそうに手を打ち合わせた。
「可愛いですものねえ。パンダ」
「パンダかあ。動物園のほうは、当分の間は混雑しそうですものねえ」
女同士でパンダパンダとはしゃいでいると、「残念ながら、パンダは無理です」という苦笑交じりの声と共に、弘晃が廊下の奥からこちらに歩いてきた。
最近の弘晃は、ベッドとその周辺を歩く程度。それ以外は車椅子のお世話になっていたため、彼の歩き方は、ふらついきはしないものの、見ていて危なっかしいものがあった。紫乃は慌てて立ち上がりかけたものの、弘晃の背後から、往診に来ていた彼の主治の医岡崎が付き従っていることに気が付いて腰を下ろした。
「あのイグアナは、生息地での交渉でごたついたときに、うちの会社が手伝ったお礼にって、動物園の方が、ご好意で搬入車両をちょっと寄り道させてくれだけですから」
「パンダは、ごたつかなかったの?」
「さあ、どうでしょう。いずれにせよ、うちは関わってませんね」
「パンダの来日は友好親善のために国の偉い人同士で決めたことだから、ごたついたりしたら、大問題ですよ」
岡崎が、息子に非難がましい視線を向ける静江をなだめるように笑いかけた。
「それはさておき。弘晃も、だいぶ調子がいいようだから、少しずつ体力をつけさせようと思うんだ。短めの散歩でも、それこそラジオ体操でもいい。無理のない範囲でできるように、気をつけてやってくれるかな?」
「はい。わかりました」
主治医の指示に紫乃が大真面目にうなずくと、『もう、すでに、弘晃おにいさまの奥さまみたいよね』と華江が笑った。
「それなのに、おにいさまは、まだ、紫乃ちゃんとの結婚に躊躇しているとか?」
華江が、咎めるような視線と共に、彼に向かって紅茶の入った茶碗を押し出した。
「なんだ? まだ迷ってんのか? 往生際の悪い奴だな」
岡崎も、医者が先月死にかけた病人に対して使うには非常に不適切な言葉で、弘晃を責めた。
「そ、そういうわけでは……」
旗色の悪さを感じたのか、弘晃が逃げ場を探すように、視線を中に浮かせた。
「お前が悩もうがどうしようが、いまさら結婚は白紙には戻せないさ。分家の爺さん婆さんは、この結婚に大乗り気だ」
「なんで、壮太が、そんなことを知っているんだよ?」
「それはね、弘晃くん。うちの病院の待合室は特に、暇を持て余している隠居の溜まり場でもあるからなんだよ。噂話には事欠かない」
恨めしげな視線を向ける弘晃に、幼馴染の主治医が丁寧に説明した。
「紫乃さんの評判は、日々うなぎ上り。原因は、東栄銀行の隠居の葉月婆さまが紫乃さんを誉めそやしているからであるらしい。気難しい彼女は、紫乃さんの何をそんなにお気に召したのやら」
「紫乃ちゃんはね。うちのおじいさまと、葉月おばあさまを叱りつけたの」
紫乃が止める間もなく、華江が嬉しそうに暴露し始めた。
「『生きているだけで精一杯、死にぞこないで役立たずの弘晃に嫁ぎたいなど、下心なしにはありえない。いったい何が目的か? 成り上がりの六条は、そんなにしてまで中村の名が欲しいのか?』って言われて、『弘晃さんを死にぞこないの役立たずとは、なんですかっ!』って、ね? 紫乃ちゃん?」
「はあ、すみません」
紫乃は、小さくうなずくと、そのまま、うなだれた。
女たらしで成り上がりの六条源一郎の娘として生きて19年。彼の娘であるがゆえに苛められたこともある、酷い嫌味を言われた経験など、数え切れない。紫乃は、彼らが彼女を卑しめ傷つけるために、そんなことを言ったのだということぐらい、わかっていた。弘晃のことを 『役立たずの死にぞこない』と言ったのも、彼らの本心からの言葉ではなく、単に『成り上がりで野心家の六条』 を強調するための、いわば飾りのようなものでしかないだろうとも、想像はついた。
だが、自分を悪く言われることになら、いくらでも笑って我慢はできても、弘晃に対して使われた『死にぞこない』という言葉だけは、紫乃は、どうしても聞き捨てにできなかったのだ。
「だから、つい」
「本当のことなんだから、そんなことで怒らなくたってよかったのに」
小さくなっている紫乃を労わるように、弘晃が微笑みかけた。
「でも、結果的には、紫乃さんが、怒ったのが良かったのよ。 おじいさまも葉月おばあさまも、大喜びだもの」
華江が、微笑んだ。
「おじいさまたちは、もともと、弘晃おにいさまに政略結婚をさせる気はなかったの。旧中村財閥と中村物産を背負っていくことは、大変な重荷だというのに、加えて、おにいさまは、体がとても弱い。この上、結婚生活が不幸だったら、おにいさまは潰れてしまう」
だから、せめて、結婚相手は弘晃を幸せにしてくれる人を……というのが、一族の長老たちの考えだったそうだ。
「だから、中村財閥の御曹司だからという理由でお嫁に来て、おにいさまをないがしろにするような人は、どれほど素晴らしい家柄の人でも論外。だけど、おにいさまのことを大切にしてくれる人なら、家柄財力関係なしに、一族を挙げて歓迎するつもりでいたそうよ。その点、紫乃ちゃんなら申し分ないわ。いまさら仕込み直さなくても、紫乃ちゃん本人が、当主の妻としてどこに出して恥ずかしくないだけのものを身につけているもの」
「オマケに器量良しだものね」
ニコニコしながら、静江が続ける。
「そして、なにより弘晃に惚れている」
岡崎が弘晃に目を向けると、彼は、「ありがたいことです」と、おおいに照れながら頭を下げた。
紫乃は……と、いえば、皆から冷やかされているにも関わらず、ぼんやりと別のことを考えていた。
(弘晃さんが、背負っている重荷か……)
弘晃の間近で紫乃が生活するようになって約1ヶ月。
かつての日本有数の大財閥であった中村一族の長として、そして、中村物産を率いていく者として、確かに、この人は、いろいろと重たいものを背負っているようだと、紫乃は、理解しつつあった。




