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水面に映るは  作者: 風花てい(koharu)
水面に映るは・・・ 
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70.役に立たない念書の御利益


「……え、えーと、そういうわけだから。紫乃さんを、しばらくの間こちらで預からせていただけるように、六条さんには僕から電話でお願いしますよ」

 首にしがみついている紫乃を優しく引き剥がしながら、弘晃が言った。


「あんな人、放っておけば、いいんです」

 自分は家出してきたのだから父には心配させておけばいい。紫乃はそう言い張ったのだが、弘晃は承知しなかった。

「いけません。貴女との結婚のお許しをいただく前に、六条さんに、へそを曲げられては困りますから」

 弘晃にそんなふうに言われてしまえば、紫乃も、それ以上反対する気にはなれない。「そんな、結婚のお許しだなんて」と、頬も自然に緩んでくるというものである。

「あ、そうだ。 外に和臣がいますの。電話するよりも、あの子に伝言を頼みましょう」

 弟の存在をようやく思い出した紫乃が提案した。



 紫乃が和臣を呼びにいくと、和臣は、「弘晃さんに夢中で、僕のことなんか、すっかり忘れられているかと思った」と、疲れた顔で嫌味を言った。

「入ってくればよかったのに」

「嫌ですよ。お邪魔虫にはなりたくないからね。それより、今まで2人で何やってたの?」

 和臣が、不思議そうな顔をしながら、紫乃の額より少し上のほうを見ながら、彼女の髪や肩のあたりを手で払った。紫乃の髪についていた念書の欠片が数枚、ヒラヒラと床に落ちていった。


「なにこれ?」

 和臣が、腰を曲げて落ちた紙片を拾うと、なんだろうというように顔を寄せた。

「あ……それは」

「これ? 念書の欠片? 破いちゃったんですか?!」

「あ、あの、ごめんなさいね」

 驚いた顔をする弟に、紫乃は慌てて謝った。

「悪用されないうちに、処分したほうがいいって言われたから、その……」

 先が続かなくなった紫乃は、助けを求めるように弘晃のほうに顔を向けた。

「なるほど。弘晃さんが、念書を破棄するように姉さんに勧めたんですね?」

 紫乃の視線の先と、起き上がった弘晃の手元に置かれた洗面器の中の紙くずを見て、和臣が納得したように呟いた。和臣と弘晃は、初対面である。外面のよさでは紫乃に引けをとらない和臣だが、この時ばかりは、彼は『はじめまして』の挨拶もないまま、弘晃に刺すような眼差しを向けた。


「あのね。和臣……」

「姉さんも、こっちに来てください」

 なんとか場を取り繕おうとする紫乃の腕を強く引っ張ると、和臣は弘晃に近づいた。


「弘晃さん」

 厳しい表情のまま弘晃の目の前に立った和臣が呼びかけた。和臣は弘晃を責めるつもりなのか、それとも、酷い嫌味でも言うつもりなのか。どちらにせよ、2人の仲が険悪になる前に和臣を宥めなければ……と、紫乃は思ったが、次に和臣が取った行動は、彼女の予測を良い意味で裏切るものだった。

「大変ふつつかな姉で、これからも、ご迷惑のかけっぱなしになるかと思いますが、どうぞ、よろしくお願いします」

 和臣は、自分が頭を下げたばかりではなく、「ほら、姉さんも頭を下げる!」 と、紫乃の頭も鷲づかみにしながら強引に頭を下げさせた。

「あ、いえいえ、こちらこそ」

 弘晃が、恐縮しながら、ベッドの上で正座しようとした。


「な、なに? 怒ってないの?」

 乱れた髪を手櫛で直し、弘晃を横にならせながら、紫乃が和臣にたずねた。

「怒れるわけがないじゃないか」

 和臣が紫乃に呆れ果てたような視線を投げ、それから、弘晃にたずねた。

「さきほど、お見舞いにいらした方ですけど。ひとりは中村エンジニアリングの初代会長ですよね? もうひとりは、何代目か前の東栄銀行の頭取の……」

「はい。奥さんです」

 弘晃が微笑みながら肯定した。


「え? 東栄銀行って、中村グループ系列の銀行でしたっけ?」

「……。こら」

「銀行の名前に『中村』が付いてないことからもわかるように、あの銀行の成り立ちは、いささか複雑なので……」

 和臣は、紫乃の無知をあからさまに馬鹿にし、弘晃は、さり気なく彼女を庇ってくれた。

「病院に入ってすぐに、中村四家を代表するような大御所ふたりの登場でしょう? 正直、ヒヤヒヤしましたよ。それなのに、姉さんは、大声出しながら念書を振り回すし、その上、あの2人から、ちょっと嫌味を言われたぐらいで、ブチ切れるしで、僕は生きた心地がしませんでした。ああ、怖かった」

 頭と心臓が痛いのか、和臣は、拳でこめかみをグリグリと押しながら、もう一方の手で胸を押さえた。


「え? 紫乃さん、あのふたりと喧嘩したんですか?」

「喧嘩ってほどのことではないんですよ。ただ、ちょっと……」

 真っ青になった弘晃へ言い訳をする紫乃の声が先細りになる。弘晃の見舞いに来た者たちと争ってはいけないことぐらい紫乃にもわかっていたが、彼らの嫌味には聞き捨てならないものがあったのだ。


「まあ、いいですよ」

 和臣が、話を切り上げた。

「姉さんの鼻っ柱の強さを、あのふたりは気に入ってくれたみたいですから、終わり良ければ全て良しということにしましょう。それに、念書も、破棄してもらえましたしね」

「あなた、念書を破ってほしかったの?」

「あたりまえじゃないか。こんな物騒な念書を姉さんに持たせるのは、狂人に刃物を持たせることと同じだからね」

「じゃあ、なんで持たせりしたのよ?」

「弘晃さんが、その念書をどうするのか、興味があったから」

 ムッとする紫乃に、さらりと和臣が答えた。紫乃に同行した一番の目的もそのためだったと紫乃に告白すると、和臣は弘晃に向き直った。


「念書を持ってきた姉の口車に乗せられて、あなたが小躍りするようなら、僕は、父が何と言おうと姉を連れて帰るつもりでした」

「じゃあ、僕は、とりあえず合格ってことなのかな?」

 弘晃がたずねると、「予想以上です」と、和臣が歳相応の少年らしい笑みを見せた。

「僕としては、あなたが念書を破棄せずとも、使う気がないという意志さえ示していだだければ、それでよかったんです。まさか、破いてくださるなんて思いもよらなかった。この姉を、よくも納得させることができましたね? 怒って暴れたりしませんでしたか?」

「彼女は、僕の話に、すんなり納得してくれましたよ」

「そうよ。和臣やお母さまたちには申し訳ないと思ったけど、弘晃さんの言うとおり、とても危険な書類だとわかったから、私が破くことに決めたのよ。それに、暴れてもいないわ」

 紫乃が、弘晃の言葉に同調するようにして反論すると、弟は、「こんな短時間のうちに、頭に血が上っている姉さんを納得させたことこそが神業なんですよ」と、減らず口を叩いた。



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「僕は、心配だったんです」

 和臣は弘晃に言った。


「姉は、そこそこ器量が良くて、それなりに頭が回るし、人との付き合いにしてもそつがない。弟の僕が言うのもなんですが、一見、とてもできた女性です。でも、この人は、時々後先考えずに、とんでもないことしようとするでしょう? だから、僕や父に代わる存在として、姉の良さを認めながら上手にフォローしてくれるような人が旦那さんになってくれるといいな……と、僕は望んでいたんです」

 まるで、今までは自分が姉の暴走を止めていたかのような偉そうな口ぶりで、和臣が言った。


「そういう人じゃないど、姉は不幸になると思うんです。姉よりも馬鹿で器量の小さい男では、姉が満足できないでしょうし、夫となった人にしても、初めは才色兼備の妻をもらったことを得意に思ってくれるかもしれませんが、そのうちに頑固に正論ばかり吐く姉を疎ましく思うようになるかもしれない。そうかといって、姉のやることなら何でも認めて、姉の暴走まで許してしまうような夫では、もっと困る。それならば、姉よりも優れた男ならいいかを言えば、それだけでは足りない。『黙って俺について来い』みたいな俺様タイプの夫の言うことを、姉が素直に聞くとは思えない。夫婦の間には争いが絶えなくなるでしょう。この姉は、うちの姉妹の中で一番適応力があるように見えて、実は、一番面倒くさい女なんです」

「『面倒くさい女』って…… 随分と、ひどいことを言ってくれるわね」

「誰と結婚しても、姉さんは旦那さんの文句ばっかり言うことになるだろうって言っているだけだよ」

 文句を言う紫乃に、和臣が言い返した。

「妹たちなら相手を愛せるかどうかが一番重要かもしれないけど、姉さんが幸せになるためには、『相手を尊敬できる』だけじゃなくて、『自分のことを尊重してくれる』、そして『暴走した姉さんを止められる。あるいは後始末がつけられる』という条件も不可欠なんです。なかなか見つかるものじゃありませんよ。こんな人」

 和臣が、弘晃に尊敬の眼差しを向けた。 


「あなたになら、安心して姉を任せられそうです。ところで、その紙ですけど、僕がいただいて帰ってもいいですか?」

 和臣が、洗面器の中に溜まった念書の残骸を示して、弘晃にたずねた。

「そうだね。破いたとはいえ、ここのゴミ箱に捨てるよりも、和臣くんに処理してもらったほうが安全だろう」

「家に帰って、ちゃんと捨てるなり燃やすなりするんでしょうね? あなた、まさか、それを張り合わせて悪用するつもりじゃ……」

 紫乃が弟に疑惑の眼差しを向けると、彼はムッとした顔をした。


「そんな面倒なことはしませんよ。持って帰って父に見せようと思うんです」

 父に見せたあとの念書は、暖炉にくべるつもりだと和臣が言った。

「お父さまに見せる?」

「ええ。弘晃さんが元気になるまで、姉さんは、父さんに、おとなしくしていてもらいたいんでしょう?」

 和臣が、彼が何かを企んでいる時に見せる含みのある笑みを浮かべた。なまじ綺麗な顔をしているだけに、彼がそんな顔をすると、姉の目から見ても、妙な凄みが出て怖い。


「何をする気なの?」

「今日、ここであったことを、父さんに話すだけだよ。だって、この念書を破ってもらえて一番ホッとする人間が誰かといえば、父さんだろう? あの人はかなり単純だから、弘晃さんが念書を破棄してくれたって知ったら、大感激して、これ以上中村物産に迷惑をかけるような真似もしないだけでなく、弘晃さんのためなら、なんでもしてくれるんじゃないかな。それにね。これ見て」

 和臣は、紫乃の髪にくっついていた小さな紙切れを摘み上げると、人差し指の上に乗せて紫乃に見せた。およそ2ミリ四方の紙には、カタカナの『ヒ』の字が読み取れた。


「これ、紫乃の『紫』の一部だよね? 他の紙切れよりも、ずっと細かく破ってある」

「それは……弘晃さんが……」

 弘晃が、嫌になるほど念入りに破っていたところだ。

「やっぱり」

 和臣が嬉しそうに弘晃を見た。

「ありがとうございます。姉のこと、本当に大切に想ってくださっているんですね」

 その言葉に、弘晃が照れたように微笑んだ。


「え……?」

「『なんで?』って聞いたら、今度こそ怒るからね」

 紫乃に忠告する和臣の顔は、既に怒っていた。どうせ、説明してやらないと紫乃には分かるまいと頭から馬鹿にもしているのだろう。「つまりね」と、和臣が続けた。

「つまり、もしも、この念書が破棄されないまま姉さんの手を離れて、誰かに使われることになったとするよね? その時、真っ先に利用される可能性が高いのは、誰だと思う?」

「えーと、私?」

「正解。念書の中で、お母さんたちの株の全部を好きにできると名指しされているのが、姉さんだからね。だから、もしも、こんな念書を野放しにしておいたら、姉さんは、悪い人に簡単に騙されて利用されまくったかもしれなかったって訳。つまり、この念書が使われたときに、最終的に一番損するのは父さんだけど、一番傷つくのは姉さんってことになる。だから……」


「そっか。だから……」

 紫乃は、目の前で小言を言い続ける弟を無視して横を向くと、弘晃に感謝の眼差しを向けた。

(そうか、だから、弘晃さんは、私の名前の書かれているところばかりを探して、細かく破いてくれていたのね)


 この念書のために、紫乃が誰かに利用されたり傷つけられたりするようなことが絶対にないようにと、念には念を入れて……


(そうだったのね)


「やっぱり、わかってなかったんだね?」

 弘晃のほうに顔を向けて、しまりのない笑みを浮かべ始めた紫乃を見て、和臣が、咎めるような視線を彼女に向けた。

「紫乃さんは、まっすぐな気性の方だから、こういった策謀めいた考え事に慣れていないんですよ。ね、紫乃さん?」

 和臣に馬鹿にされ続ける紫乃を見かねた弘晃が、庇ってくれた。それでも、和臣は紫乃に対して容赦がなかった。

「それにしたって、アホすぎますよ。弘晃さん。こんな馬鹿を嫁にもらっても、後悔するだけかもしれませんよ。ご迷惑でしたら、念書と一緒に、この馬鹿も引き取って帰りますけど?」

 紙くずと化した念書の切れ端を、『中村物産』のロゴ入りの水色でマチのあるヒモ付きの封筒の中に回収しながら、和臣が弘晃にたずねた。


「いいえ。どうか、このまま、ここに置いていってやってください」

 姉のことを宛先不明の小包か何かのように言う和臣に憤慨している紫乃の顔を見てクスクスと笑いながら、弘晃が言った。

「僕には、どうしても必要な人です。僕にとって、彼女は、かけがえのない人ですから」

「弘晃さんも、もの好きですね」

 未来の義兄にまで憎まれ口を叩きながらも、和臣は嬉しそうだった。 


「では、姉共々、今後とも、六条との末永いお付き合いをお願い申し上げます」

 和臣は、破棄された念書を集めた封筒を小脇に抱えながら優雅に一礼すると、病室を出て行った。







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