55.祖父の正体
弘晃には、商才も、そして、人の上に立つ才能もあったのかもしれない。
だが、彼が独りで父親の手伝いをしろと爺やたちに突き放されたのは、わずか15歳のときであった。
いくら天性の才能があっても、スイミングスクールに通い始めて数年の小学生がオリンピックに出ることがないように、中村物産に入社してくるどの社員よりも年下の弘晃が、名目上は幸三郎に次ぐ地位にあった父親を独りで支えることなど、そもそも無茶な話であった。
祖父幸三郎の失策に比べれば失敗の程度も質も可愛らしいものだったために、それほど目立つことはなかったものの、最初の1年の間、弘晃は失敗ばかりしていた。
弘晃としては、爺やたちが父に対してしていたように父にしているつもりだった。それなのに、爺やたちが手を出さなくなったとたんに、 弘晃が期待するような結果が、すんなりと出なくなった。
何をするにしても、どこかで、なんらかのトラブルが発生し、そのトラブルを解決しようとジタバタすればするほど、新しいトラブルが増えるといった具合である。 トラブルが大きくなりすぎて幸三郎の知るところとなると何かと面倒なので、姑息な手段を使って取り繕おうとすれば、ますます収集がつかなくなる。結果、弘晃の力ではどうにもならなくなり、最悪の形で問題が祖父に露見するということが何度もあった。
「でも、頭ごなしに祖父から叱られるのは、僕じゃなくて父なんです」
不満げに弘晃が言うと、「そもそも私がしなればいけない仕事を弘晃に肩代わりさせたわけだし、弘晃は、もともと関わっていないことになっているんだから叱られようがないんだよ。それに、私は、父に叱られることなら昔から得意だしね」と弘幸が、こともなげに笑った。
「でも、弘晃は、私が叱られなくてもすむようにと、それはそれは頑張ってくれたんだよ」
「頑張らないわけにはいかなかったんですよ」
弘晃がムッツリと言う。
爺やたちは、幸三郎から叱責されることになった弘幸の様子を、いちいち詳細に弘晃に報告した。
そのうえ、何も手を貸してくれなかったくせに、弘晃が失敗した後になってから、彼の判断のどこがいけなかったのかを、ネチネチと繰り返しては嫌味を言った。爺やたちから聞かされた叱られる弘幸の様子がとても惨めだったのと、悔しさのあまり、弘晃は発奮した。当面の間は、爺やたちを見返すことを目標に、 弘晃は、会社のことや仕事のことを毎日必死で勉強した。
弘晃の頑張りによって、2年目からは、弘幸の(正確には弘晃の) ミスはめっきり減った。弘晃が頑張りすぎたのか、3年目からは、あろうことか、『実は有能』とか『見かけによらず切れ者』との噂が弘幸に対して立ち始めた。
だが、それまでの10年以上を『無能』の烙印を押され、会社で肩身の狭い思いをしてきた弘幸の変化を、彼の周囲の社員たちはいぶかしんだ。 ……というよりも、何かを決める必要があるたびに家に帰りたがる弘幸の後ろで、誰かが糸を引いていることは明白だった。
しかしながら、弘幸が表向きだけでも有能で『使える』のであれば、社員たちとしては、誰が裏で糸を引いていようと構わないと思ったようだった。最高決定者幸三郎に言いつけるにしても、その頃の彼は、名前を聞いたこともないような妖しげな神さまに祈ることに忙しかった。忙しい幸三郎には事後報告で済ませるだけにして、順調に進んでいる限り弘幸に代行させられる仕事はいくらでもある。社員たちは、幸三郎を迂回する手段としての弘幸をおおいに当てにしはじめた。
その頃から、弘晃たちは、大叔父をはじめとした中村物産で働いている数人の親戚や、『彼なら信用できる』と見込んだ社員を、こっそりと家に連れ込んでは、積極的に秘密を打ち明け始めた。
それまでの弘幸は、与えられた仕事を、いったん家に持ち帰って弘晃に相談し、弘晃から受けた指示を翌日会社に持ち帰るということをしていた。だが、様々な部署から多くの社員が弘幸を頼りにするようになったために、仕事が弘幸に集中し、何事においてもコソコソしていてたのでは、業務にいちじるしく支障をきたすようになってきたのだ。業務を円滑に進めるために、弘晃たちは、幸三郎とその一派には気取られぬことを絶対条件として、社内の人間の協力を得て、指揮系統に若干の変更を加えないわけにはいかなくなったのである。
弘幸の黒幕が家で寝てばかりいる病弱少年とわかると、多くの者は驚く以上に失望した。(但し、掃除夫にさせられた大叔父だけは、大いに面白がった)。 だが、弘晃に仕えている爺や……自分たちの先輩である元社員の手前もある。彼らは、疑い深い表情を浮かべながらも、弘晃の話を聞くだけ聞いてみようという態度だけは示してくれた。そして、若い弘晃が自分たちと同じくらい……否、知識量だけを比べるならば、自分たち以上に自分たちの会社のことに精通しているばかりか、彼らが置かれている状況にもに同情してくれ、彼らの忠誠よりも彼らの知恵を求めていることを知ると、ほとんどの者は、弘晃たちへの協力を承知してくれた。
最初の変化は、微々たるものだった。だが、少しであっても変えることができた。弘晃に協力した社員たちは、少しずつ風通しが良くなっていく会社の空気を肌で感じ、自分たちの手でもっと良い方向に変えていくことができるという確信を持ち始めた。
今のところは、弘幸も弘晃も見るからに頼りない。自分たち社員も、情けなくなるほど幸三郎とその一派に逆らうことができない。
でも、いつか。
このまま密かに社内改革を進め、いつか、そう遠くない未来に、その時がきたら……
そんな思いを心に抱きながら、彼らは自主的に、自分が『この人』と思う人間たちを次々に自分たちの味方……弘晃の陣営に引き入れていった。幸三郎が経営の回復を願って神頼みに勤しんでいる間に、弘晃は、少しずつ会社の変革を進め、多くの社員の信用を勝ち得ていった。
その結果。中村物産の経営は、見かけ上では幸三郎が最高責任者であるものの、実際のトップは弘晃という二重構造化が進んでいった。
幸三郎を端に避けておくことで、会社は本来あるべき健全さを取り戻し始め、それに伴って、順調に利益も上がり始めた。幸三郎は、それを自分が熱心に祈ったせいだと勘違いしたが、彼の勘違いを正そうとするものは誰もいなかった。信心深い幸三郎が祈祷所に籠もっていてくれたほうが、よけいな邪魔が入らずに、仕事がはかどる。そのうえ、幸三郎が祈祷所に籠もっていてくれれば、彼に用事があるフリをして、直接弘晃に会いに行くこともできる。
そうして、会社は、どんどん活気を取り戻し、幸三郎は、どんどん信心にのめりこんでいった。
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「そうして……」
弘幸が言いかけたとき、入り口でノックの音がして、看護婦の一人が弘幸を迎えにきた。病院の応接室には、すでに、六条源一郎の秘書である葛笠と、正弘たち中村物産の社員数名が集まっているという。
「それじゃあ、行ってくるね。何か、ある?」
「え~と、そうですねえ……」
確認しておいてほしいことや言ってほしいことなど、話し合いに参加できない自分の代わりにしてほしいことを、弘晃が父親に伝えた。
「わかった。終わったら、いったん、こちらに戻ってくるから」
復唱もせずメモも取らずに軽い足取りで出て行く弘幸を、弘晃と共に見送っていた紫乃は、つい不安を覚えて、「大丈夫なのでしょうか?」という暴言を漏らした。
「大丈夫。父は、僕が頼んだことについては、いつでも確実にやってきてくれます」
弘晃が微笑んだ。彼の表情にも言葉にも、父親への揺ぎない信頼が見て取れた。
「弘晃さん、おとうさまのことが大好きなんですね」
未来の舅が部屋から出て行ったことで気楽さを感じながら、紫乃が弘晃に微笑みかけた。「だから、爺やさんたちの無茶な要求にもめげずに、おとうさまのために頑張れたんですね」
紫乃の言葉に、弘晃が驚いたように目を瞠る。
彼は目を伏せると、「違いますよ」と、首を振った。
「父は好きです。だけど、僕は、そんなに品行方正で人間のできた子供じゃありませんでした。父を手伝い始めた頃の僕は、新しいゲームを手に入れた子供と同じでした。会社も仕事も、家の中に籠もっているばかりの僕には異世界の出来事と同じで、現実味が全くなかったんです。僕は、ただ、勝つことしか考えてなかった。そう、オババさまを対戦相手のように考えて……」
「オババさま?」
「ええ、祖父は、会社を立て直すためにオババさまを頼った。そして、父は僕を頼ることになった。オババさまの祈りなんかよりも僕のほうが優れているのだと……役に立つのだと、証明したかったんです」
今にして思えば、かなりガキっぽい発想です、と、弘晃が照れたように笑った。
「さっきも、ちょっと言いましたよね? 熱が出せば呪いのせい。熱が下がればオババさまの手柄。いつも、そうだったんです。僕だって、なるべく迷惑をかけないように体を鍛えようとしてみたり、風邪を引かないように気をつけたりと、自分なりに頑張ってはいたんですよ。でも、なにをどう頑張っても、僕の努力は何一つ認められないまま、結局、オババさまの手柄として祖父に報告されてしまう。そればかりか、僕が熱を出したことさえ、自分のせいではなく、つかみどころのない『呪い』とやらのせいにされてしまう。それが悔しくてね。だから、祖父もオババさまも知らないところで、僕の力で会社を立ち直らせることができたら、さぞや愉快に違いないだろう……と、まあ、なんとも、阿呆なことを考えまして……」
あはははは……と、その場を繕うように、虚ろな笑い声を上げる弘晃と一緒に笑うことは、紫乃にはできなかった。
「弘晃さんが、頑張ったんですよ」
紫乃は、弘晃の顔を見つめたまま彼の手をとると、その手を撫でながら、優しく言った。『病気と闘っているのは弘晃よ! あなたじゃない!』。そう言いながら、モップで老婆を追い回していた弘晃の母親の気持ちが、今更ながら、よくわかった。
「でも、現実は、僕が考えているほど甘くなかった」
気を取り直したように弘晃が言った。
「会社も社員も、自分の思惑どおりに動かせるゲームの駒とは違う。爺やたちは、僕にそのことを思い知らせるために、あえて手を離したのだと思うのです。早いうちに僕に思い知らせておかないと、祖父と同じような人間になってしまうかもしれないと焦ったのでしょうね」
「そんなことありません! 弘晃さんがおじいさまみたいになるわけないじゃないですか!」
「そうですね。そこまでは考えるのは、捻くれすぎですね」
怒り出した紫乃を宥めるように、弘晃が同意する。
「爺やたちは、後に、あの当時の中村物産の酷い状態を、実際に仕事を体験することを通して僕に知ってほしかったのだと話してくれました」
彼らとしては、いくら利発で商売に興味があったとしても、まだまだ子供の弘晃に会社を救ってもらうことなど初めから期待していなかったそうだ。
誰にも助けを借りることができなければ、弘晃は、なにもかも、独りで考えて行動するしかない。誰かの知識も経験もあてにできないから、知らないことは、自分で情報元を探して、自分の耳や目を通して直接手に入れることしかできない。
「彼らは、実際の仕事を体験させてみることで、将来的に中村の経営の一端を担うであろう僕に考えてもらいたかったそうです。祖父のやり方は正しいのか? 祖父が間違っているのであれば、何が、どう、間違っているのか?」
そんな思惑もあったので、爺やたちは、いきなり弘晃に正解は教えてくれないものの、彼が求める情報ならば、現役時代の伝手を頼って必ず手に入れてくれた。社内用の資料や報告書、議事録はもちろん、社内の極秘資料も、弘晃は爺やたちを介して読むことができた。そして、弘晃が必要だと感じれば、社内の人間や、幸三郎がクビにした社員と内緒で面談する手はずも整えてくれた。
幸三郎の前では口を閉ざすばかりだった者たちも、子供ではあるものの真剣に耳を傾ける弘晃の前では、これが自分の日頃の不満を爆発させる最初で最後の機会だといわんばかりに雄弁になった。
幸三郎の顔色をうかがい、与えられた業務を与えられた分だけ遂行するだけの息苦しい毎日。
帳尻合わせしか考えていない、人員と経費の強引な削減。
達成不可能なノルマ。
幸三郎に可愛がられれている者ばかりが優遇される人事。
『今、それを建てている場合か?』と、誰もが突っ込みを入れずにはいられない、大手町の見上げるような新社屋。
彼らの話を通して、弘晃は、積もりに積もった彼らの不満を知った。彼らが話したことの中には、父親の仕事を手伝うようになってから、弘晃自身が、おかしいと感じていたことも多く含まれていた。
「『今の会社は、おかしい』、『もっと良いやりようがある』。彼らの心は不満と怒りに満ちていました。彼らの言い分はもっともでした。もちろん、彼らの話を鵜呑みにしたわけじゃありません。ちゃんと、裏も取りました。そして、知れば知るほど、僕は、祖父は間違っていることを思い知るんです。僕は、腹が立ってしかたがなかった。なぜなら、僕は、中村家の『呪い』とやらを防ぐために……『呪い』から、会社や皆を守るためだからと言われて、小さい頃から理不尽な目に合わされてきたわけじゃないですか? 父を手伝う前、僕は、『それでもいいか』と、納得していたところもあるんですよ。僕は、祖父のことを偉い人だと思っていたから。家では我侭三昧でも、外の世界では、多くの社員に慕われ、中村物産とその系列会社の舵取りをするすごい人なんだと思っていたから。僕は、どうせ、表に自由に出られるほど丈夫ではない。僕を閉じ込めることで、祖父が安心して仕事をすることができるなら、少しは、誰かの役に立つことになっているのだろうと…… そう、思おうとしていたんです。それを……」
弘晃の声が、わずかに震えた。
「それを……、それなのに、現実の祖父は、会社を私物化し、好き勝手なことばかりして会社を崩壊させようとしていた。社員たちのことは道具かゴミのようにしか考えていない。これでは、まるで、祖父その人が、『呪い』 そのものではないですか? では、その祖父に災いが振りかからないために、生まれた時から我慢を強いられてきた『僕』 という存在は、いったい何なのです?」
答えることなど期待されてはいないだろうが、紫乃は、弘晃に何も言ってやることができなかった。彼女は、両手に包んでいた弘晃の手を持ち上げると、頬を寄せた。
弘晃が紫乃に目を向けた。
「泣くことないのに……」
紫乃の頬を指でなぞりながら、弘晃が、悲しそうに笑った。「僕に同情なんかしなくていいんですよ。あの頃の僕には、貴女に同情してもらえる資格などないのだから」
「……え?」
「父のためなんかじゃなかったんです」
弘晃が目を伏せた。
「僕は祖父が許せなかった。だから、祖父が恐れているという『呪い』を、自らの手で成就させるために、必死になって父の手伝いを続けたんです」




