53.裸の王様の孤独
戦後の中村物産の経営状態は、悪化の一途をたどった。
経営状態は、他の分家の事業と比べて、ダントツの最下位。
その屈辱的な事実は、幸三郎のプライドをいたく傷つけた。
今まである仕事を、今まで通りにこなしたところで、急に業績が上がるわけでもない。そう考えた幸三郎は、より多くの利益を求めて、流行りではあるけれど畑違いの業種にまで、事業の手を広げたり、当たった時の利益還元率は大きいものの外れたときのリスクも高い事業に積極的に投資したりした。だが、思いつきのレベルで実行に移そうとするうえ、すぐに結果を求めたがるのだから、なにひとつ上手くいかなかった。
それでも幸三郎は懲りなかった。損した分を倍にして取り返すまで、引き下がることができない。博打打ちの心理状態と同じである。そうやって、目新しくて大きな利益を産みそうな事業に次々に手を染めては失敗することを繰り返しているうちに、中村物産は更なる負債を背負い込んでいくことになった。
もちろん、幸三郎を諌めようとした人間は大勢いた。だが、彼は自分に意見するものを認めず、そういった者たちを、ことごとく解雇や左遷、あるいは降格処分にした。幸三郎に忠告しても痛い目を見るだけだと悟った社員たちは、彼に逆らうのを諦め、彼の要求に答えるために死に物狂いで努力した。成功しなければ、やはり処分が待っているからだ。
処分されたのは、社員だけではなかった。
幸三郎は、彼のやり方に憤慨して正面切って彼に意見した彼の弟……弘晃にとっては大叔父に当たる男を、中村の子会社の経営からはずした。大叔父は、それでも幸三郎への抗議をやめなかったため、しまいには本社の掃除係にされてしまった。彼は、その後も懲りることなく幸三郎へ意見し続けたそうだが、彼のような怖いもの知らずは、めったにいるものではない。
『触らぬ神に祟りなし』とばかりに、分家は、幸三郎からの接触がないことをいいことに、中村本家に関わることを一切やめてしまった。中村物産の取り締まり役などについている一部の親族も、自分に火の粉が降りかからないよう、息を潜めるようにしながら日々の自分の業務をこなすようになった。
そんな状態が、10年と少し続いた。
その間に、磐石であったはずの中村物産は、少しずつ少しずつ傾いていき、気がつけば、いつ倒産してもおかしくないような状態にまでなっていた。
「それは、おじいさまが主体で行った事業や投資で出した損害のせいですか?」
紫乃が口を挟んだ。
「金銭的な面では、それもありますね」
仕事に詳しい弘晃が、するりと弘幸と話者を交代した。
「でも、祖父が熱心に取り組んでいたことは、本来の業務に関わりのない、いわば祖父の道楽のようなものですから……」
「おいおい弘晃、あれだけの大借金を『道楽』って……」
こともなげに言う息子に弘幸が呆れたが、彼は、「道楽ですよ。あんなの」と、冷たく言い放った。
「確かに道楽にしては規模が大きすぎましたけどね。事業に失敗はつきもの。『失敗』のリスクは、ある程度までは、予め折込んであるものです。祖父が出した損害事体は、会社さえきちんと機能していれば、想定の範囲内に収めようと思えば収められる。たとえ失敗して損を出したとしても、本業のほうで充分取り戻せたはずなんです。問題なのは、その本業を祖父が疎かにしたこと。それと、祖父その人の性格……具体的に言えば、彼がやった人事のほうで……」
「クビとか? 左遷とか? ああ、それで、優秀な人が片っ端から処分されて、すっかりいなくなってしまったんですね?」
「いなくなってしまったわけではありません。うちの場合、たとえ100人左遷されたとしても、全社員の1パーセント未満に過ぎません。優秀な社員は他に幾らでもいます」
紫乃の早とちりを、弘晃が笑った。
「だけど、祖父のような処分の仕方をしていたら、どうなります?」
「どうなる……って?」
「当たり前のことをやっているはずなのに些細なことで処分されてしまうとなれば、処分されてしまう人は少数でも、処分を恐れて皆が萎縮してしまう。ただただ、祖父の言うことを忠実に実行するだけの操り人形になってしまう」
これでは、周りにどんなに優秀な人間がいたとしても、『中村幸三郎』という一種類の人間しかいないことと同じだと、弘晃は言った。
「会社が危なくなってきて、祖父が、本当に誰かに助けてもらいたくなったときには既に遅すぎました。彼の周りには、命令を聞かせることができる人間は大勢いたけれども、頼りにできる人間はひとりもいなくなっていた。彼は、今度こそ、一人で会社を立て直さなければいけなくなりました。思い余った祖父は……」
「オババさまを頼りにするようになったんですね?」
紫乃の質問に弘晃がうなずいた。
なるほど、巷で流れている噂の一部は本当だったようである。
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「でも、どうして、よりによってオババさまなのでしょうね?」
紫乃は、ため息混じりにたずねた。
「財閥解体は、おじいさまにとっては受け入れがたいことだったとは思います。でも、それが時代の流れだったと言ってしまえば、それきりのことではないですか?」
財閥を解体されたのは中村家だけではない。それなのに、なぜ、幸三郎は、これほどまでに老婆と老婆がいうところの呪いや怨霊の存在を信じ、恐れ続けるのだろうか?
「自分の失策を認める勇気が祖父になかったということもあったかもしれませんが…… それは、おそらく僕のせいです」
弘晃が答えた。
「弘晃さんのせい?」
「呪いを引き受けているという僕が死なずに生き延びている。祖父にしてみれば、僕が死なないことこそが、オババさまの力の証明にもなるわけです。僕が、いつまでたっても生きているから、祖父もオババさまを疑いきれない」
自分の置かれていたかつての状況を哀れむでも、皮肉るでもない。弘晃の声も表情も、常と変わらぬ穏やかさを保っている。だからこそ、紫乃は、そんな弘晃が悲しかった。きっと、今言っているのと同じ事を、彼は、何度も何度も、感情が磨り減るまで考えたに違いない。そう思った途端に、紫乃は弘晃を叱りつけていた。
「そんなに悲しいことを、平然とした顔で言わないでくださいっ! そもそも呪いなんて嘘なんだから!」
だが、弘晃も負けてはいなかった。
「嘘かどうかなんて関係ありません。僕が病気になれば呪いのせい、治ればオババさまのおかげ。祖父は、いつだって、そうだった。いっそ、僕が、さっさと死んでいればよかったんです。僕の死後に何もおきなければオババさまは偽者。呪いが雨あられと降ってきて、ついに中村本家が滅びたら、オババさまは本物。白黒ハッキリついて、すっきりしただろうし、皆も会社も辛い目に合わずにすんだはずだ」
「でも、そんなの違うものっ! 弘晃さん、考えていることが不健全だわっ!」
「どうせ僕は健全じゃありません。いつだって……」
「やめなさい。ふたりとも!」
弘幸が、2人の言い争いに割って入るために、珍しく大声を上げた。
頭に血が上っていたせいで弘幸の存在を忘れかけていた紫乃は、驚いて口を閉じ、親の前で『死ねばよかった』 なんてことは口が裂けても言ってはいけないということをようやく思い出した弘晃は、酷くばつの悪そうな顔をしながら、横になったままでできる精一杯の範囲で父親から顔を背けた。
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「まさか、君が、そんなこと考えていただなんてね」
弘幸が、額に手を当てながら両目をきつく閉じる。
「違うよ、弘晃。君のお祖父さんが、オババさまを信じたのは、彼女が君の病気を治してくれると父に思わせていたからではないんだ。父はね、おそらく知っていたんだよ」
「なにを、ですか?」
「それは……」
言っていいものかどうかというように、弘幸が、落ち着きなくからだを揺らした。
「それは、その…… つまり。オババさまの力が、本物だということをだよ」




