46.だいじょ~ぶ!
どこからか、祈りの声……というには、いささか精神的な安定を欠いた声が聞こえてくる。
(また、オババさまのお祈りが始まった……)
(でも、熱があるうちは、我慢するしかないな……)
うんざりしながら、弘晃は目を閉じたまま顔をしかめた。
ただでさえ具合が悪いところに、頭の中をかき回すような彼女の金切り声は煩わしいことこの上ないが、彼が老婆に文句を言おうものなら、祈りの声は音量も迫力も今の倍になることは確実である。こんな時には、じっと我慢しているのが最善の行動だと、彼は長年の経験から学習ずみであった。
あの老婆は、弘晃が病弱な理由が、この家の滅亡を目論んでいる怨霊の仕業だと本気で信じているふしがある。だからこそ、彼が熱などだそうものなら、彼女は、怨霊と戦うために、がぜん張り切ってしまうのだ。
弘晃の熱さえ下がれば、老婆の祈祷も定例の朝昼晩の3回に戻るはずである。そうなれば、弘晃も割合に普通の生活を送ることができるようになる。
とはいえ、現在の中村家には、もう老婆はいない。追い出したのは、他ならぬ弘晃本人であった。それでも、熱に浮かされ夢うつつでいるとき、弘晃は、まだあの老婆が家にいるかのように錯覚してしまうことがある。
それほど、少し昔の弘晃にとって、老婆の祈祷は身近にあるもの。思い出せる限り一番古い弘晃の記憶の中でも、老婆は祈っていた。
その記憶の中の弘晃は、2歳か3歳で、今は取り壊された離れの一番奥の部屋に寝かされていた。
彼のいる部屋の障子窓はいつも閉め切ったままになっていた。隣に続く部屋の襖は、4枚のうち中央の2枚が開け放たれた状態にはなっているものの、その開いた場所を塞ぐようにして老婆が祈るための祭壇が設けられ、祭壇ごしに彼女が弘晃のほうを向いて祈っているので、部屋から外に行くことはできない。
老婆が何事かを唱えながら木の札のようなものを投げ入れるたびに、祭壇で大きな炎が揺らめく。
小さかった弘晃は、どうやら、その炎が気になってしかたがなかったようだ。だが、炎に近づこうと弘晃が祭壇に這い寄ろうとするたびに、彼は誰かに抱えあげられて、寝床に連れ戻されていた。
両親と完全に引き離されて離れで暮らしていた間、弘晃は、ひもじい思いをした覚えもないし、酷く不快な思いをしたこともなかった。具合が悪くなっても、(老婆の話では、離れで暮らし始めてから3歳まで病気したことないということだったが、それは絶対に嘘だと弘晃は思っている)何日も苦しい思いをした覚えもないから、粗略に扱かわれていなかったことだけは確かだと思う。
でも、どうやら、本当に、それだけだったらしい。
弘晃には、彼らから世話をされること以外の……遊んでもらったとか、かまってもらったとか、叱られたとかいう記憶がない。彼らは、まるで弘晃を預かりもののペットか管理の難しい熱帯魚かなにかのようにしか扱っていなかったようなのだ。
3歳になるまで、弘晃が話せなかったのは、言葉を知らなかったから。
もちろん、まったく知らなかったのといえば、そんなこともなかったようだ。『寝てろ』とか、『おい』とか『駄目だ』といわれたときに、どうすればいいのかぐらいのことは、彼にもわかっていた。しかしながら、それ以外の会話のようなものは、常に弘晃を無視して行われていたので、あれもまた、老婆の祈祷を同じようなもの……音としてしか、彼は認識していなかった。
話すことばかりではない。
3歳になるまでの弘晃は、いろいろなことができなかったし、知らなかった。まともに歩くこともできなかったし、食事も、箸やスプーンなどを使ってひとりで食べることができなかった。幼い弘晃がそんなふうだった原因は、おそらく、寝床に収められたまま、彼が彼らの世話を受けるがままになっていたからだろうと、今の弘晃は思っている。
それでも、弘晃には、彼らを憎らしく思っていたような記憶がない。
あの当時、親と離されて可哀想だったね? 寂しかったね?
そんなふうに同情されても、その頃の自分が、そんなふうに感じていた覚えもない。
どうやら、そういった負の感情は、対極にある正の感情を体験した後でこそ感じられるものらしいのだ。
3歳になるまで、楽しかったり幸せだったりした記憶の持ち合わせがなかった弘晃は、不幸で可哀想な自分を自覚することもなかった。乳飲み子のときに親を引き離されたうえ離れに閉じ込められていたので仲の良い親子を見る機会もなかったから、親がいない寂しさもわからなかった。なにも知らないまま、『自分も含めて、どこも、こんなものなのだろう』と、当時の弘晃は思っていたようだ。
そんな、かなり不自然ではあるものの、それなりに穏やかだった弘晃の生活に、一大転機が訪れた。
彼が3歳の時。弘晃の父親である弘幸が、彼を攫いにきたのである。
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両親が子供たちをつれて中村本家を逃げ出そうと思ったのは、弘晃が3歳のときであった。
長男は親から引き離され、次男は、生まれてまもないのに、幸三郎から過剰な期待を背負わされている。両親は、老婆が言うところの怨霊よりも、幸三郎の常軌を逸した専横ぶりのほうが、ずっと恐ろしかった。
このまま中村家にい続けたら、この先、子供たちが幸三郎に何をされるかわかったのではない。
そう思った両親は、使用人の協力を得て老婆たちの食事に薬を盛った。そして、弘晃を残して彼らが寝つぶれてしまった後、弘幸が離れに弘晃を盗みにやってきた。
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「弘晃! 迎えにきたよ!」
3年間も弘晃の面倒をみてくれた男たちのことは全く思い出せないにも関わらず、そう叫びながら離れに飛び込んできた時の父の顔を、弘晃は、いまだに鮮明に覚えている。
その時の父は、弘晃にとっては全くの初対面。自分とどういう関係にある人間なのか、弘晃には見当もつかなかった。ただ、その時に父がとった、『相手を見て話しかける』という誰にとっても当たり前の行動が、幼い弘晃に新鮮な驚きをもたらしたようだ。なぜならば、それまでに、そのようなことをされた覚えが、彼にはなかったからだ。
父は、弘晃が父親の顔もわからなければ何を言われているかもわかっていないらしいことに気がついて、一瞬、驚いたような顔をした。それでも、父は、弘晃が寝かされている寝床の前に膝を折ると、申し訳なさそうな表情で彼の顔を覗き込みながら話しかけた。
「寂しかっただろう? 今まで、ずっと独りぼっちにしてごめんね」
「、、とぉ、ぃおりぼっちに、、、て、、ぉめんね」
父が何を話しているかわからないながらも、弘晃は、こちらに向いた父の口の動きを真似て自分でも同じ音を作ってみようとした。
「弘晃が謝ることはないんだよ」
父が苦笑しながら首を横に振る。「悪いのは、弘晃のおじいさまに逆らう勇気がなかったお父さんだからね」
「お、とーたん?」
「そうだよ! 『お父さん』だ! すごいな、ちゃんと言えたね」
弘晃の頭に手を乗せながら、父が嬉しそうに笑った。父の笑顔に気を良くした弘晃は、もう一度『おとうさん』を繰り返した。今度の『おとうさん』は、もっと上手に滑らかな発音で言えた。
「もう上手に言えるじゃないか! 弘晃はすごいなあ!」
父が、ますます嬉しそうに笑いながら、弘晃を力一杯抱きしめた。胸元に顔を押し付けられて痛いぐらいだったが、弘晃は不快には感じなかった。だから、声をあげて笑った。
「そーか? 嬉しいか? 弘晃?」
いっそう力を込めて、ぎゅうぎゅうと弘晃を抱きしめながら、父がたずねる。
「ひ ろ あ き ?」
父が、ここに来てから何度となく発音していた言葉に、弘晃の注意が向いた。
「うん、『弘晃』。君の名前だよ」
「な ま え ?」
「そうだ。名前だ。弘晃は、君を表わす名前……言葉だよ」
父が笑いながら、寝かされてばかりで足の萎えた弘晃を宙に投げ上げるような勢いで抱き上げる。
「モノや動作には、それぞれ、それを表わすための名前がある。そして、例えば日本語には、ものや動作……状態といったほうがいいかな……を表わす言葉以外にも、言葉と言葉の関係をしめす言葉がある。僕らは、それらの言葉を駆使することで、様々なことができるんだよ。例えば、実物が目の前になくても、遠く離れていても、同じ言葉を使う人となら、ほぼ同じ情報を共有するすることができたり……」
そもそも学者である父が、なんだか小難しいことを滔々と語り始めた。その時の弘晃には、もちろん、彼の話を理解できはしない。だが、なんとなく、父が『すごい』ことを言っているのは、弘晃にもわかった。
「……なんて、今は、そんなことを語っている場合ではないよね?」
抱っこしている弘晃に穴が開くほど見つめられていることに気がついた父が、床で寝つぶれている老婆と男たちを見回しながら、照れたように笑った。
「とにかく、ここを逃げよう」
「に げ よ ?」
「うん、お父さんと一緒に逃げよう。お父さんとお母さんと、正弘……君の弟だよ……それと君の、4人で暮らすんだ。言葉も他のことも、これからお父さんたちが沢山教えてあげる。だから、弘晃は心配しなくても大丈夫だよ」
「だいじょーぶ!」
わけもわからず(そもそも『大丈夫』の意味からわかっていない)、弘晃は笑った。
「そう、大丈夫。お父さんもお母さんもついているからね」
父は笑うと、弘晃を抱えたまま離れを飛び出した。
弘晃の頬を包む、戸外の夜の空気。
頭の上に広がる果てのない夜空。
その中で、ひときわ大きく輝く銀色の月。
離れから外に出たことのなかった弘晃には、何もかもが始めてのものだった。
「お と う さん。だい じょー ぶ」
振り落とされないように父にしがみつきながら、弘晃は、覚えたばかりの言葉を呟いた。
『だいじょうぶ』の意味は、いまひとつわかっていなかったものの、その時の弘晃の心の中は、初めて会った(……と、この時点の彼は思い込んでいた)『おとうさん』に対する好意と彼を信頼する気持ちで一杯だった。
そして、どんな言葉で表わしたらいいかわからなかったが、この時の弘晃は、明らかに『ワクワクして』いた。




