44.呪われた家
「戦争が終わった年の夏の終わりに、弘晃が生まれたの」
どこから話したらいいかしら……
そう言ってしばらく口を閉ざした後、静江が静かに話しはじめた。
彼女がいうところの戦争とは、もちろん第2次世界大戦のことである。空襲で焼け出された弘幸夫婦は、弘晃が生まれた当時、中村本家に身を寄せていた。
弘晃にとってなによりの幸運だったのは、彼が中村財閥の中村本家という大資産家の血縁として生まれ落ちたことであっただろう。いわゆる旧財閥解体以前の当時の中村本家は、現在の規模に比べて3倍以上の大きさがあった。否、戦争で一儲けしたばかりの当時の中村家であれば、更にその3倍の財力があったに違いない。巷では、多くの子供たちが親や住む家を失い、その日の食べ物にもこと欠いていたにも関わらず、この家には何もかもが潤沢に揃っていた。壮太の父を筆頭とした優秀な中村家専任の医師たちの手厚いサポートがあったからこそ、弘晃のような泣く力もないようなひ弱な赤ん坊でも、なんとか生き残ることができた。そのことは、間違いようのない真実である
ところで、中村本家の当主は、幸三郎といった。彼は、弘晃の父弘幸の父親である。幸三郎にとっての弘晃は、彼の3番めの息子の子。つまり、孫にあたる。
体がとても弱い。
3年生きていられるかどうかについては保証はできない。
生まれたばかりの自分の孫について、医師たちから深刻な話を聞かされても、幸三郎は悲しんだりはしなかった。
それどころか、彼は嘲笑った。
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「わらった?」
紫乃が眉をひそめた。
「ええ、嘲笑ったの。 こ~んな顔して」
静江が、胸を反らし顎を突き出して、その時の祖父の顔を再現してくれた。自分の父親でさえ、そんな顔を他者に向けはしないだろうと紫乃が呆れるほど、あからさまに人を見下した尊大な表情だった。岡崎医師が、「幸三郎爺さんに、そっくりだ」と手を叩きながら笑った。
「そのうえ、お義父さまは、こう言ったのよ。『出来損ないの息子が、出来損ないの息子を持ったか』ってね。 お義父さまにとっての『出来損ないの息子』は、もちろん、私の旦那さん。弘晃のお父さんの弘幸さんだわね」
「でもね。うちのお父さんだって、捨てたものではないのよ」と静江が夫を擁護する。
弘幸は、商売の才能こそなかったが、先祖代々彼の家に伝わっている優れた書画を見て育ったためか、美術品を見る目がとても肥えていた。やがて、彼は次第に美術品の保存や修復に興味を持つようになり、大学も親の反対を押し切ってそちらの方向に進んだ。卒業後も大学に残って研究を続けた。
戦争中は、兵役こそ逃れられなかったが戦地に赴くこともなく、都内某所(弘幸が言うには、『おそらく当時の日本中の何処よりも安全な所』)で、いわゆる『やんごとない人々』の『お宝』の警護や疎開作業にあたらされていたそうである。
「まあ。お父さま、すごい」
「ね、ちょっとは見直したでしょう?」
素直に感心する紫乃を見て、静江は嬉しそうに微笑んだ。
「でもね。お義父さまのような商売人からしてみれば、美術品なんて、どんなに勉強したところで、道楽の延長でしかない。その道楽の腕を買われて……しかも、皆が戦っていた時に宝物と一緒に安全なところに隠れていたなんて、恥ずかしいことでしかないわけよ」
幸三郎にとって、三男の弘幸は、親の顔に泥を塗る厄介者でしかなかった。弘幸が知り合いの大学教授紹介で教授の姪の静江と結婚したことも、幸三郎は気に入らなかった。
上の二人の息子の取り成しがあればこそ惰性で親子関係を維持しているものの、幸三郎は、心中では、とっくの昔に弘幸と親子の縁を切っていた。だから、遺伝子的には孫に当たる弘晃がどのような問題を抱えていようと、幸三郎には、もはやどうでもよいことだった。
弘幸など当てにしなくても、幸三郎には、他にふたりの息子たちがいた。弘幸と違って、ふたりとも大変優秀で、幸三郎が厳選した良家の娘を嫁にもらい、子供にも恵まれている。その子供たちは、弘晃とは違い、病ひとつしたこともなく利発にすくすくと育っていた。彼らがいるかぎり中村財閥は安泰だと、当時の幸三郎は信じきっていた。
「だけど、戦争が終わっても、お義兄たち一家は、どちらも戻ってこられなかったの」
静江が言った。
「お亡くなりになったんですか? 戦争で?」
「兵隊さんではなかったけれども、どちらも引き上げの最中でね」
大陸に渡って中村の事業を展開していた息子たちとその家族の死の知らせが届いたのは、弘晃が生まれてから1ヶ月もたたないうちだった。自慢の息子ふたりと、生きていればやがてふたりの後を継いだであろう孫たちまで一度に失った幸三郎の落胆ぶりは尋常ではなかった。
若い頃から、幸三郎は、己の才に驕っていた。中村本家の跡取りとして自分以上に相応しいものはいないと自惚れていた彼は、策を弄して兄を追い落とし、中村財閥の当主の座についた。
それだけ苦労して手に入れた当主の座なのだから、自分の後を継ぐ者は自分の血を濃く引くものであるべきだと、当然のように彼は考えていた。それにもかかわらず、期待を掛けていた息子たちは次々に亡くなり、唯一残ったのが、無能なばかりのボンクラ息子の弘幸だけ。しかも、このボンクラ息子には、今にも死にそうなほど弱々しい息子しかいない。こんなどうしようもない奴らに、自分の後を託さねばならないとは……
「お前らが死ねばよかったんだ! お前とっ! お前の息子がっ!」
悲しみに我を忘れた幸三郎は、昼間から酒を浴びるほど飲み、弘幸と、まだ乳飲み子でしかない弘晃に連日のように当り散らした。
だが、幸三郎にとっての悲劇は、ここで終わらなかった。
追い討ちを掛けるように、連合国側は『軍国主義を制度的に支援した』という理由から、日本政府に財閥解体を命じた。さしたる抵抗もできぬまま、政府は中村本社に解散を命じた。
幸三郎が守ってきた中村財閥という城は、他国人の言いつけで否応なしにバラバラにされた。解体後、彼の自由にできる事業は、彼が家を継いだ時の3分の1程度まで減ってしまった。それすら、表向きには幸三郎が直接事業に関わることは許されず、代理を立てなければならない。幸三郎から取り上げられた他の事業は、忌々しいことに、彼が見下し粗略にしてきた分家や、有能であるというだけで中村の血を一滴も引いてないような、どこの馬の骨とも知らない者たちに引き継がれることになった。
「なんということだ。 これは何かの呪いなのか? わが中村家は、何かに祟られてでもいるのか?」
現実を受け入れきれずに、幸三郎が絶望に打ちひしがれていたその頃。
「あの人がやってきたの」
静江が言った。
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「『あの人』というのは、先ほどのお婆さんのことですか?」
紫乃がたずねると、静江はうなずいた。
「私、あの人の名前は知らないの。彼女は、自分のことを『お告げ様』とか『オババさま』と呼ぶように私たちに言っていたけれど、でも、いまさら『さま』付けでなんか呼びたくないわ」
老婆は、結局、最後まで自分の本名は名乗らなかったそうだ。
老婆は、複数の男たちを引き連れていた。始めに来たときには4人、年齢はまちまちだが、老婆と同じように、白い装束に玉の大きな長い数珠を首から掛けていたそうだ。
「あのお婆さんの信者さんのような人ですか?」
「表向きは。でも、本当のところは、婆さんは傀儡で、後ろの男たちが婆さんを操っていたのだと思う」
岡崎が言った。
彼らはある日、老婆を先頭にして、中村家の門前にやって来た。そして、いまや紫乃にまで御馴染み深いものとなった例の賑々しい祈祷を始めた。
中村家の使用人たちは、すぐさま、この怪しい集団を追い払おうとした。
「離さんか!! この家は祟られておる! わしは、その呪いの正体を確かめようと……!!」
力ずくで退去させられそうになった老婆が喚いた。その声をたまたま(『もちろん、たまたまじゃないよ。奴らは爺さんが庭にいるところを狙ってやったんだ』、と、岡崎が付け足した) 幸三郎が聞きつけ老婆に声をかけた。
「呪いだと? 馬鹿馬鹿しい」
少し酒が入っていたものの、初めは、幸三郎も、本気で老婆たちの相手をするつもりはなかったようだ。
「身に覚えはないというか? もう、兆しが見えているようじゃが?」
老婆は、幸三郎の前に立つと、彼の息子たちの特徴や、彼らと彼らの家族が死んだときの様子を、まるでその場に居合わせたように事細かに言い当てた。
「それが、祟りだと?」
「ああ、そうじゃ。この家の周囲には、この家を呪う亡者たちが黒雲のように群れ集まっておる。富士の御山からも、よう見えたのでな。気になったので、こうして参ったというわけじゃが……」
老婆は、中村家の屋根の上の辺りと幸三郎の顔を何度か往復したあと、納得したようにうなずいた。
「なるほど、ようやくわかった。元凶は、そなたじゃな」
「わし?」
「そうじゃ。そなたの目には見えぬだろうが、この家をすっぽりと覆う黒い雲がある。あれは、この家に恨みを持つものの無念の塊に相違ない。古くから栄えていた家には、どこの家にも多少はあるものじゃが、このように黒く禍々しいものを、わしは今まで見たことがない。どうやら、ごく最近の短い間に、急激に大きくなったようじゃ。では、大きくなった原因は何か? おそらく戦争じゃろう」
「わしは、誰一人殺しておらん。恨みなど……」
「そなたが実際に手を汚したかどうかは関係ない。そなたは、そなたの懐を豊かにするため…… 戦の道具を売りさばき、他国の地の底に眠る宝を得るために、軍部や国の偉い衆をそそのかした。より長い期間、たくさん儲けるために、他国と通じて戦を大きくしたばかりか、長引かせもした。敵国の民はもちろん同胞の血がどれほど流れようが、そなたは、そ知らぬ顔で笑っておった。金持ち同士の宴で夜毎浮かれておった」
「身に覚えがあるだろう?」と、老婆に問われた幸三郎は押し黙った。
「だがな、幸三郎。生きている時には虫けら同然の命でも、死ねば命は命。貧富の差もなくば、身分の差もない。そなたの欲によって奪われた命は、己の無念を晴らす場所を求めておるうちに、卑しき目的をもって戦を利用したそなたにたどりついた。血で奪われた命は、血で購われねばならぬ。亡者たちは、そなたとそなたの血に繋がるものを根絶やしにせんと狙っておる。それゆえ、そなたの息子たちは死んだのよ」
「わしと、わしの血に繋がるもの……」
呆然と幸三郎がつぶやいた。初めは老婆を小馬鹿にしていた幸三郎だが、この時点では、食い入るような目をしてで老婆の話を聞いていた。
「では、わしも殺されるのか? この家はわしの代で終わるのか?」
「さて、そこよ。そこがわからぬ」
老婆が顔をしかめた。
「わからない?」
「ああ、この家が呪いの中心じゃ。だから、そなたが真っ先に血祭りにあげられても何の不思議もないのだが、そなたは生きてピンピンしておる。これはいったいどうしたことだろう?」
「この家の者は、誰も死んでないぞ。わしには、あと一人の息子と孫がいる。孫はともかく、息子は体だけは息災じゃ」
「『孫はともかく』?」
老婆が聞きとがめる。
「ああ、生まれつき体が弱くてな。空襲で家を焼け出されたので、いまは一家でこの家に身を寄せているが……」
幸三郎が当時は純然たる日本家屋であった屋敷を振り返ると、老婆も同じように顔をそちらに向け目を細めた。
「怨念が黒い霧のように覆っているので、よくは見えぬが、中に光が見えるな。なるほど、この光が、亡者の侵入をかろうじて食い止めているというわけか? 先祖の加護か? いや、それもあるが、これは……」
老婆はブツブツと呟きながら、彼女が見えているという光に引き込まれるようにズカズカと家の中に入っていった。幸三郎が咎めるのも忘れて老婆の後ろから付いていくと、彼女は誰の案内も受けずに、磨きこまれた板張りの廊下をいくつも渡って赤ん坊が寝かされている部屋に最短コースで辿り着いた。
「この子じゃな。おお、なんと生命力の強い赤ん坊であろう。この婆の目には眩しくてしかたがないわ」
老婆は赤ん坊を抱き上げると、目を細めて笑った。
「命びろいしたな。 幸三郎」
老婆は、幸三郎を振り向いて言った。
「この子じゃ。この子が、先祖の加護を受け、この家に降りかかる災難を一身にその身に引き受け、そなた達を守ってくれておったのじゃ」




