13.どんな男?
それから、2ヶ月ほどたった、ある日曜日の朝。
休みの日に父源一郎と一緒に少し遅めの朝食をとるのは、紫乃を始めとした子供たちの習慣となっている。朝の光が差し込む食堂の真ん中に据えられた長テーブルは大きすぎるので、朝に使われるのは上座側の半分だけ。朝食に限っていえば席次は自由だ。源一郎はたいてい後からやってきて、子供たちの間に適当に割り込んでくる。
その日の源一郎は、橘乃と月子の間に自分の席を用意させた。
「朝一番で橘乃の笑顔を見ると、その日1日が、とても良い日になるような気がするから不思議だね。君は僕の幸運の女神さまに違いない」
「月子の今日の洋服はいいね。君の理知的な美しさを実によく引き立たせている。身内以外の……特に男の目に触れさすのはもったいないから、今日は図書室に閉じ込めてしまおうかな?」
女性にはとことんマメな源一郎は、両隣に座る自分の娘たちを大げさな賛辞で笑わせたあと、真向かいに座る紫乃を惚れ惚れと見つめた。
「最近の紫乃は、とても綺麗だねえ。もともととても綺麗だから、これ以上綺麗になるなんて思いもよらなかった。まるで奇跡をみているようだよ。やはり、女は恋をすると変わるものなのだね。私は、弘晃くんに感謝すべきなのか、それとも嫉妬に狂って手袋を投げつけてやるべきなのか、実に複雑な気分だよ」
「恋なんてしていません」
妹たちがいる前でのみ父親に従順な紫乃ではあるが、このときばかりは邪険に言い返した。
「でも、弘晃くんとは仲良くやっているのだよね。彼も、君に会うために、ちょくちょく、この家に来ているそうじゃないか?」
父親が、他の子供たちに、たずねるような視線を向けた。
「弘晃さんはね。いつも突然いらっしゃるんですよ」
「だから、姉さまは気が抜けないの」
「いない間に弘晃さんが来たら困るから、出かけようともしないのよ」
「でもね。もう1ヶ月近く、いらっしゃらないの」
「だから、そろそろ……」
「いつ来てもいいように、おしゃれして待ち構えているのよ」
妹たちが、楽しげに父親に言いつける。
「好きで待ち構えているわけじゃないわ。あなたたちが、わたくしのことで、あることないこと、あの人に言いつけるから、安心して外に出かけられないだけじゃないの」
「『あることないこと』ではなく、『あることあること』でしょう」
顔を赤らめながら喚く紫乃に、パンにバターを塗っていた弟の和臣が冷ややかな視線を向けた。
「それに、弘晃さんが嫌いなのだったら、そんなにおしゃれする必要もないはずだしね」
月子が紫乃をからかった。
「別に、あの男のために着飾っているわけではないわよ。これは、ひとつの身だしなみとして……」
ムキになって言い訳する紫乃を、父が興味深げに眺めている。
「なるほどねえ。この紫乃さんに、これだけの揺さぶりをかけるとは……。弘晃くんは、なかなかの策士と見た」
君も見習うようにと、源一郎が和臣に言った。
「和臣におかしなことを吹き込まないでください、お父さま!」
「おかしなことではないよ」
父は、しれっとした顔で紫乃に言い返すと、「女を口説くのも、取引先相手の心を掴むのも、基本は同じだからな」と、大真面目な顔で、この家の跡取り息子に言い聞かせる。
一方の和臣も、真剣な表情で父親の話に応じた。
「動揺を誘い、その隙に相手の懐深くへ入り込むということですか?」
「そうそう。そして、相手との距離が近づいたな……と思ったところで、ちょっとばかりじらしてみる。だが、この引いたり寄ったりするタイミングを見極めるのが、なかなか難しい」
「そうですよねえ。せっかくこちらに興味を持ちかけた相手を怒らせてしまっては元も子もありませんよね。姉さん?」
和臣が紫乃にたずねた。
「知りません」
紫乃は不貞腐れたように顔を背けた。
「そんなにヤキモキしなくても、弘晃くんは、今日あたり、紫乃を訪ねてくるよ」
拗ねる紫乃をなだめるように、父親が自信たっぷりに請合った。
「どうだか」
「間違いないさ」
強がる紫乃に、源一郎が娘に対するには少しばかり甘ったるい口調で話しかける。
「私が弘晃くんならば、絶対にそうするよ。付き合い始めは特に、好きな女性と離れていると禁断症状が出てくるものだ。仕事をしていても、君の顔がまぶたの裏でチラチラしているようで気が散ってしかたがない。風に乗って君の声が聞こえたような気がして、つい振り返らずにはいられない。彼の我慢も、そろそろ限界に違いない」
「そういう幻覚や幻聴に振り回されて、後先考えずに好きになった女性を片っ端から口説き落とすような女好きは、この日本では父さんぐらいなものだと思いますが……」
和臣が、ボソリと突っ込みを入れると、食卓の空気が一気に冷えた。
気まずい雰囲気のなか、無口になった一同がひたすら食事に精を出していると、住み込みの女中のひとりがスリッパの音をパタパタ鳴らして食堂へ駆け込んできた。けたたましい音を立てたことを咎める執事に詫びるのもそこそこに、彼女は紫乃に向かって、「中村さまからお電話が入っております」と嬉しそうに告げた。
「ほ~ら、私の言った通りになっただろう?」
源一郎が、紫乃に笑いかけた。
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弘晃からの電話は、やはりデートのお誘いだった。
「あの男ときたら、いつもは突然やってくるくせに、どうして今日に限って電話してくるのよ?」
ブツブツと文句を言いながら紫乃が食堂に戻ってくると、妹たちが目を輝かせて紫乃を待ち構えていた。
「弘晃さんは、なんて?」
「やっぱり、デートのお誘いだった?」
「ええ、まあ」
紫乃は、努めて気のないフリをした。「『映画でも見ませんか?』ですって」
「お姉さま。もちろん、行くんですよね?」
明子が念を押すように紫乃にたずねる。
「ええ、行くわよ。ちょうど観たいと思っていた映画だったから」
これは本当だ。彼女は、今さらながら源一郎にたずねた。「お父さま。行ってきてもいいですよね?」
「もちろん。楽しんでおいで」
源一郎は上機嫌で紫乃の外出を許した。
「ところで、何処まで行くんだい?」
「有楽町です」
紫乃が源一郎に答えた。そこに、おしゃべりな橘乃が割り込んでくる。
「ねえ、姉さま。今までに、弘晃さんとおふたりで、どんな所にいらしたの?」
「私も、聞きた~い。姉さま、聞いても怒るばっかりで、全然話してくださらないんですもの」
紫乃よりも強い父親がいるのをいいことに、娘たちは、ここぞとばかりに、この話題に乗った。
「順を追って報告しなさい。紫乃」
話を渋る紫乃に、源一郎が父親の威光を振りかざして命令した。
「最初が動物園で、次の時が浅草雷門と花やしきと隅田川の水上バス。その次が東京タワーで……あ、そうそう、皇居にも行きました」
紫乃は事実だけを報告した。
「それで、今度の行き先が有楽町、というか銀座?」
「なにそれ? はとバスの東京見学コースみたい」
「随分と、ほのぼのしたデートですね」
「上野にはパンダが来てから行けばよかったのに」
皆の感想は様々だった。だが、質問は、それだけでは終わらない。
「ねえ、もう、キスとか……した?」
橘乃の無邪気な質問に、全員の視線が紫乃に集中する。
「してないわよ!」
紫乃は真っ赤になって否定した。
「へえ、まだしてないんだ。なんとも健全だねえ」
紫乃の父親であるにもかかわらず、そんな男は不健全だと言わんばかりに源一郎が目を丸くする。
「まあ、それだけ、紫乃を大切に思っているのだということにしておこう。ときに、弘晃くんって、君から見て、どんな男なんだい?」
「どんな……って……」
紫乃は考え込むように空中を見つめた。
虫が好かない。
いちいち腹が立つ。
大嫌い。
それらの悪感情を抜かして、彼がどんな男なのかといえば……
「世間知らず、ですね」
「お見合いの席で話したけど、世間知らずには思えなかったけどなあ。若者にありがちな浮ついたところや気負ったところもないし、頭が良くて素直だけど抜け目ない。どちらかといえば世慣れているという印象を受けたが……」
「ええ、非常に良識のある人に見えましたが?」
源一郎と和臣が不思議そうに首を捻ると、紫乃は笑って否定した。
「違うの。非常識な性格とか世知にたけていないという意味ではないの」
中村弘晃は、文字どおりの意味で、世間……世の中を知らない、ようなのである。




