第二七話 雪月華と月の瞳
あとを追ってきた雪野は、健一の前に立つ雪野を見つけて、急にけらけらと笑い声を上げ始めた。
「あらぁ、雪野お姉様じゃなくて?」
「月姫、わたくしの真似はおやめ」
それは静かだが、強い響きの声だった。
「少しくらいいいとは思わなくて? だって、月の瞳が手に入るかも知れないのよ? ねぇ、健一、あたくしにその左目をちょうだいな。抉り出してみて」
月姫と呼ばれた雪野は、全く悪びれることなく言い遣った。
「あいつが月姫だって?」
健一の驚きの声に、雪野が答える。
「悪戯は、月姫の悪い癖ですの」
驚きに目を見開いている健一の目の前で、月姫は姿を徐々に変えていった。薄青い振り袖が薄黄色に変質し、着物の中で泳いでいた金魚が蝶に変じていく。顔つきもすっかり月姫のものになっていった。すっかり姿を現した月姫は、薄い唇に笑みを刻んでいる。
「もう少しで月の瞳が手に入れられたのに……残念だわね」
「怜治も健一も、お婆様に呼ばれてここへやって来たのですよ」
「でも……」
それでも渋る月姫に、
「月姫!」
雪野の鋭い声がかかった。
「……はぁい」
不承不承という風にやっと返事が返る。
健一はその遣り取りに目をしばたたかせるだけだった。
そんな健一に、雪野から声がかかる。
「健一、その手にあるもの、よくご覧くださいませ」
健一は一瞬、雪野の方を見たが、すぐに手に握られているものに目を落とした。
「……なんだ、これ」
そこにあったのはただの土塊だった。赤黒く血に塗れていた眼球はどこにもない。
それを目にした途端、健一は月姫にいいようにされたことが酷く癪に障って、思わず土塊を月姫に投げつけていた。
途端に月姫から短い悲鳴が上がる。
そんな妹を無視して、雪野は言った。
「さぁ、健一は早くお婆様の元へ。お婆様と怜治が待っていますわ」
その雪野を見遣って、
「婆ちゃんと怜ちゃんが待ってるって言ったって……」
健一は困惑の色を隠せなかった。どこにいるのか分からないのだ。
困惑の色が濃い健一の声を聞き、雪野は熟れた唇に素直な笑みを乗せた。
「此岸に最も近く、彼岸に最も近い場所ですわ」
「此岸と彼岸に最も近い?」
此岸とはこの世のことだ。彼岸とはあの世。つまり雪野は、現実とあの世に最も近い場所に二人がいると言っている。だが、全くどこのことだか健一には見当もつかなかった。
それを察したのか、雪野は言葉を重ねた。
「いつもわたくし達から逃れて、最後に向かう場所、ですわ」
それを聞いて、やっと見当がついた。
「音楽室か!」
「さ、おゆきくださいませ」
その言葉に弾かれたように健一は駆けだした。廊下を駆け抜け、階段を三段飛ばしで駆け上がる。階段を抜けたあと、廊下を真っ直ぐに突き進む。音楽室と書かれたプレートがどんどん迫ってきた。
ばたばたと足音を立てて音楽室の前まで行った時、
「健一、お入り」
音楽室の中から聞き覚えのある声が静かに聞こえてきた。
健一は躊躇いもせず、音楽室の扉を開けた。がらりと乱暴に開けると、そこは美津代の部屋だった。
布団が敷かれ、その上に美津代が浴衣の寝間着姿のまま正座している。その布団の前には怜治が上履きを履いたまま正座していた。部屋の扉が開かれたと同時に怜治が振り返る。
その顔には両眼が確かにあった。どちらも失われていない。
「健ちゃん」
怜治の声と無事な姿に、健一はその場にへたり込んでしまった。自然、大きな溜息が漏れる。身体に力は入らず、言葉もなかった。
その健一に美津代が声をかけた。
「健一、お入り。入ったら、襖は閉めてね」
その言葉に扉を見遣ると、内側は襖になっていた。
健一はとにかくとばかりに、力の入らない膝で室内に入っていった。それから言われた通りに襖を閉める。そうしてから怜治の隣に同じように正座した。
健一は隣に座っている怜治を見遣って、
「何話してたんだ? 俺が来るまで何か話してたんだろ?」
だが、怜治はそれに困惑したように首を振る。
「何も。健一が来るまで待てって婆ちゃんが……」
「ふぅん。そっか……」
意味深に呟き、
「……怜ちゃん、目、何ともねぇか?」
健一はどうしてもそれを聞かずにはいられなかった。
聞かれた怜治は不思議そうな顔をして、
「なんともないけど、どうしたの?」
逆に心配そうな声を出す。
「いや……、大丈夫ならいいんだ」
言って、怜治の肩に手を置く。
その様を見て、美津代が口を開いた。
「月姫が酷いことをしたね。ごめんね、健一」
「婆ちゃん……知ってるのか?」
それに対し、頷く。
「『雪月華』は私の分身。月姫が健一に何をしたのか、全部分かってる。……華緒のように大人しくしてくれればよかったんだけどね」
言って、美津代は背後を見遣った。
美津代の向いた方を見ると、華緒がちょこんと部屋の隅に座っている。それも所在なげな風情で。そのことに健一は今初めて気付いた。
「華緒、いたのか?」
健一は思わず声に出していた。
その健一に怜治が声をかける。
「また夢に引き摺り込まれた俺をここまで連れてきてくれたんだ。本当は健ちゃんを捜そうと思ったんだけど、とにかく一緒に来てくれって……」
「そうなのか?」
意外そうに聞き返す。
「うん。それに、俺が来た時には雪野がいたんだけど、途中で婆ちゃんが……」
「私が健一を迎えにやらせたの。迎えのはずの月姫が悪さをしそうだったからね」
言われて健一は、両手で顔を覆った。怜治の眼球だというものを見た時の絶望感を思い出したのだ。思い出しただけでぞっとする。
「健ちゃん?」
怜治の心配そうな声が聞こえ、健一は顔から手を離した。
「いや、なんでもないんだ……」
どこか苦しげに返す。怜治にそう返して、健一は美津代を見た。
「婆ちゃん、あいつ、まだ俺達の目のこと諦めてねぇぞ」
「大丈夫。もう幻を見せることくらいしかできないから。お前達の目を奪うほどの力はないよ」
「それにしたって質が悪い。あんな幻見せるなんて」
その言葉に美津代は小さく溜息を落としてから、ごめんね、と謝罪の言葉を呟いた。
その二人の様子を、さっきから怜治は不思議そうに見遣っていた。
「なぁ、何があったんだ? 話が見えないんだけど」
「なんでもねぇよ。怜ちゃんが知る必要ないんだ」
やや乱暴に言い放った。
それを否定するように美津代は口を開く。
「月姫がね、怜治の目を抉り出した幻を見せたんだよ」
「婆ちゃん!」
健一は思わず叫んでいた。思い出したくないのに、あれを思い出してしまう。ついさっきの出来事なのだ。まだ身体の芯にはあの時の恐怖と絶望感は染みついている。美津代の言葉はそれを抉ることと一緒だった。
健一が苦々しく顔を歪めていると、怜治がぽつりと呟く。
「そんな幻を……。自分に置き換えると、ぞっとするな」
それを耳にして、健一はその言葉を無視するようにして美津代に詰め寄った。
「それより婆ちゃん、なんで俺達はこの夢にまた引き摺り込まれたんだ? 墓に人形を持っていって終わりじゃなかったのかよ?」
それに対し、美津代は頷いた。
「最後だからね。お前達に言っておくことがあったんだよ」
「言っておくこと?」
不機嫌も露わに健一は問うた。
美津代が答えようと口を開きかけた時、襖がすっと開く。それに気付いて健一と怜治が振り返ると、そこには雪野と月姫が立っていた。
「戻ってきたね」
美津代が些かきつい口調で言う。
月姫は僅かに項垂れているように見えた。
「お婆様、月姫にはわたくしからよく言って聞かせましたわ。二度と馬鹿な真似はしないように」
それに対し美津代は深く頷き、お座り、と言って促した。女達は促されるまま壁際に正座する。
それを確かめて、美津代はもう一度口を開いた。
「この子達はね……、『雪月華』は私が一から作ったもの。顔も一つ一つ描いていった。髪も私の髪を使った。でもね、それだけに魂が宿るのにそう時間はかからなかったよ。普通、人形に魂が宿るには、十年、二十年、三十年と長い時間が必要なんだけどね」
そう言って、ちらと三人の女達を見た。そして続ける。
「さて、そこでだけどね、魂が宿った人形が望むのはなんだと思う?」
「……は?」
健一がぽかんとして口を開く。
「魂が宿った人形が望むもの……?」
怜治は考え込む風にして鸚鵡返した。暫し黙考して言葉を零す。
「もしかして『生命』か? こいつらは生命を欲しがってた。俺達から月の瞳を奪い取って人間になるって」
「その通りだよ。……じゃあ怜治。『月の瞳』がなんだか知ってるかい?」
「え?」
怜治は突然の問いに目をしばたたかせた。
「……こいつらが言うには、月の精を吸って、それで人間になれるものだってことだけど。違うのか?」
その答えとも問いとも取れる言葉に、美津代は薄く笑んだ。




