第二六話 雪野
二人は父親達をそれぞれ寝室に運び終わると部屋に戻って、午前一時頃までゲームをして遊んだ。
「一時になるのか……」
ゲームを途中で中断して、壁掛け時計を見ながら怜治が呟く。その声音には不安そうな色が乗っていた。ここのところ、この時間には夢に引き摺り込まれていたから、時間には過敏になっているのだ。
そんな怜治の思いに気付き、健一は安心させるように明るく声を出す。
「もう大丈夫だろ。今夜からは普通に眠れるさ」
「そう、だよな。婆ちゃんが連れて行ってくれたんだから」
僅かに笑みを見せ、自分に言い聞かせるように口にする。
その隣で健一は伸びをして欠伸をした。
「寝るか。今日は疲れただろ?」
ぽんと怜治の肩を叩く。
「そうだな。もう遅いし」
言って、ゲームソフトを片付け始める。健一もゲーム機をしまい込んで、怜治と一緒に着替えをした。
着替えを終えて、それぞれ寝床に潜り込むと、
「電気、消すぞ」
健一が声をかける。それに対して、うん、と声が返った。
明かりを消すと、遮光カーテンのお陰で部屋の中はほぼ真っ暗になる。
健一はその中で、もぞりと寝返りを打つと、
「暗いと……怖いか?」
怜治に聞いてみた。
「いや。大丈夫」
「なら、いいけど」
小さく溜息が聞こえて、お休み、と怜治から声がした。それに、お休み、と返して健一は目を瞑る。
健一は暗闇の中で、久々にゆっくり横になった気がした。少しすると、睡魔はすぐにやってきた。健一はそれに意識を預けて、ゆっくりと眠りに落ちる。
夢に落ちたばかりで、意識が混濁していた。何が現実で、何が夢なのか分からない。そんな夢と現の曖昧郷で、くすくすと笑い声が聞こえた気がした。よく分からない意識の隅で、なんだろうか、と思う。
重い瞼を無理矢理に押し上げてみると、腕が見えた。そしてその向こうには沢山並んだ机。一瞬何を見ているのか理解できなかったが、はっとして身を起こすと、自分が机に突っ伏して寝ていたのだということに気付いた。
そこは健一の教室の彼の席だった。それに笑い声も聞こえる。くすくすと楽しげに。
声のする方を見ると、両目から血を流した雪野が立っていた。教室の扉付近に立っている。片手を差し出した格好で。
その手の上には何か赤黒いものが乗っている。何かは分からなかったが、よくないものだと認識するのに、そう時間はかからなかった。
そして自分がいつもの夢に引き摺り込まれたということにも。
二度と見ることはないはずの夢に。
健一は席を蹴立てて立ち上がった。それに合わせるように雪野は後ろ向きのまま、滑るように教室を出て行く。そのあとを健一は慌てて追った。廊下を移動する雪野を追って全力で駆けると、徐々に距離が縮まる。
あと僅かで手が届くと言うところで、健一は一気に飛びかかった。その途端、雪野が短い悲鳴を上げると共に、背後に倒れる。
健一は雪野に馬乗りになっていた。そしてさっきから気になっていた雪野の手にあるものに目を遣るが、女の手は握り込まれている。それを無理矢理にこじ開けて、手にあるものを奪い取ると駆けだした。
奪い取ったものがなんなのかを確かめることもせずに。
駆けだした健一の背に、雪野の声がかけられた。
「ほほ……、それは怜治の目玉ですわ」
その声が耳に届いた瞬間、身体が固まった。駆ける足も自動的に止まる。
「ついさっき奪ってきたんですの」
健一は握り込んだ手をゆっくりと開いた。
丸く白いものに、赤黒い汚れがついている。更には太い紐のような束もついていた。
間違いなくそれは目玉だった。紐束のように見えたそれは視神経だ。
「名前さえ分かってしまえば、目を奪うのは難しいことではありませんわ。……ねぇ、それを返してくださらない?」
健一は膝から力が抜けていくのを感じていた。両目を見開いたまま、がくりとその場に膝をつく。自然と声が絞り出された。
それは怜治の目を奪われたことに対する、全身全霊からの叫びだった。
大絶叫は廊下を駆けめぐり、静かな学校中に木霊する。
悲しくいて、悔しくて、憤ろしくて、声は溢れ続けた。
その健一の視界に薄青い着物が入る。金魚が波紋を散らして泳ぐ、雪野の振り袖だ。
「ねぇ、返してくださらない? 月姫よりも華緒よりも先にわたくしが手に入れたものなんですもの」
健一は歯を食い縛りながら、荒い呼吸を繰り返していた。
「ふふ……。怜治の目はもうありませんわ。貴方様、確か……健一とお婆様が言ってらしたわね。健一も同じになりませんこと? その左目、わたくしにくださいな」
「怜、ちゃんは……どこに、いる」
これまで体験したこともないほどの憤りに、唸るような声を絞り出した。
「さぁ……、どこでしたかしら。わたくし、お婆様に目を奪われてしまいましたから、見えないんですの」
雪野はいけしゃあしゃあと言ってのける。
その雪野を睨め付けて、健一は言い放った。
「目が見えないのに、どうして俺達のことが分かる!?」
「月の瞳の気配、ですわ。わたくしね、目をなくしましたでしょう? そうしたら、月の瞳の持つ微かな光が見え始めましたの。怜治は右目が月に照らされても光らないと言いましたわ。でもね、それは違いましたの。今はちゃんと光って見えますわ」
今も健一の左目は光を帯びています、と最後に付け加え、健一の左目に手を伸ばしてきた。
健一はその手を撥ね除けた。そして目玉を乗せている手をぐっと握り込む。途端に、ぐにっとした独特で生々しい感触が伝わってきた。
その感触に、潰してはいけない、と頭の中で自分の声がした。昨日、しっかりと縫いつけられた自分の瞼が復したように、怜治の目も回復させることが出来るかも知れないと思ったのだ。
健一は力の抜けた足を叱咤して立ち上がった。立ち上がって、走り出した。時折、膝がかくんと沈む感覚もあったが、それでも走った。
図書室に向かって。
今まで図書室で落ち合うことはなかったが、今夜はそこに片目をなくした怜治かいるような気がしたのだ。怜治がそこで、苦痛に呻いているかも知れないと思うだけで息が苦しくなった。
その健一のあとを雪野は追ってきた。くすくすと笑いながら。
それでも健一は構わなかった。勝手に追ってくるがいいとさえ思った。もし怜治の目を治すことが出来なかったら、自分も片目をくれてやると思ったのだ。怜治と同じように自分も片目になってやろうと。
怜治は健一にとって、最も近しい存在だった。
物心ついた頃には怜治が傍にいた。
幼稚園は一緒だった。小学校、中学校では別になったが、同じ高校を受験することを決め、共に合格した時には本当に嬉しかった。
学校でも、子供の頃から慣れ親しんだ呼び名『怜ちゃん』と呼ぶことを許してくれた。
そして怜治も同じように、ずっと『健ちゃん』と呼び続けてくれたのだ。
健一にも怜治にも兄弟はいないが、兄弟以上に仲がいい従兄弟だと親戚には言われていた。
何しろ、生まれた月日が同じなのだ。
そして母親は双子。母親達は「二人で双子を産んだ」とよく言う。
瞳の色も左右対称で、本当に双子のような存在だった。
その怜治が片目を永遠になくすのなら、自分もなくしてしまおうと思うのが健一にとっては自然な成り行きだった。
廊下を駆け抜け、途中で渡り廊下を抜けて曲がった時、健一の足はぴたりと止まった。
後ろからついてきていたはずの雪野がそこに立っていたからだ。
瞼で閉じられた両目からは血を流し、顎を伝って滴る血が着物へと落ちると、波紋を作って水に溶けて消えていく。それは間違いなく雪野だった。
健一が驚きに声すら上げられずにいると、雪野が口を開いた。
「健一、貴方様をお待ちしておりました」
その言葉を聞いた途端、健一の顔が嫌悪に歪んでいった。
「どうやって先回りしたか知らないが、俺は怜ちゃんの目を治しに行く。そこを退け」
再び擡げた憤りに、自然と低い声が出た。
しかし雪野は退かなかった。それどころか言うのだ。この先に怜治はいないと。
「……嘘をつくな」
「嘘ではありません。わたくし達は怜治に負けたのですから」
「どういう意味だ」
それに対して、雪野は穏やかに笑んだ。
「今のわたくしには健一の左の目が微かに光って見えますが、あの時はそう見えませんでした」
その言葉に、健一の顔に怪訝な色が混ざる。
「月……」
雪野がぽつりと言って、更に続ける。
「あの月が偽の月だと、わたくし達には分かりませんでしたわ。けれど、怜治は知っていました。気付いていたのですわ。怜治は右目がなくなるかも知れないのに、名乗りを上げて、わたくしを試したのです。……それにわたくしは騙され、負けたのです」
それにお婆様にも叱られましたの、と雪野は付け加えた。
健一は雪野の言っていることが理解できなかった。何を言っているのだ、と思った。さっきまでは、左目を寄越せと迫ってきていたというのに。
健一の怪訝な表情の中に困惑の色が差した時、笑い声が響いてきた。
はっとして声の方を見ると、雪野が床を滑るようにゆっくりと近付いてくるところだった。二人の雪野を見遣って、健一は知らず「え?」と声を上げていた。




