22 今だけ素直になる
「……恋を、神聖視?」
私が呟くと、フェアリーは『ええ、そうよ』と頷いて、シュナの髪を弄り始めた。
『あなたは恋愛を信仰しているの。恋を清らかで穢れのない象徴として神格化している。だから、恋を俗世的なものとして扱うことを嫌っているのよ』
「俗世的って、政略結婚のことを指しているんですか?」
フェアリーにされるがままのシュナが口を挟む。彼の癖のある黒髪を三つ編みにしながら、彼女は肯定するように微笑んだ。
『そうね。ただ、アザレアの場合、もっと潔癖よ。アザレアは自覚していないけど、あなた、互いに奉仕する恋愛以外認めていないもの』
互いが奉仕する恋愛。
耳慣れない言葉だ。真意も理解できない。
だけど私は心臓を握られたかのように、フェアリーの発言が胸に刺さった。
『見返りを求めてはいけない。利益を追求してはダメ。独善的な恋を許せない。一方的に相手を消費することに対し、強い忌避感を持っている。どんな人生を送ってそれだけ深い傷を心に負ったのかわからないけど、あなたのその考え、すごく息苦しそうね』
フェアリーが言い終えると、シュナが「抽象的すぎて具体性がありませんね」と文句をつける。彼女はシュナに言い返さず、代わりに彼の髪の毛を引っ張って仕返しをした。
シュナが痛みに抗議し、フェアリーは涙目の彼をケタケタと笑う。そんな二人のやり取りを横目に、私はフェアリーに告げられたことを考えていた。
シュナの指摘通り彼女の主張は色々と曖昧で、主旨がぼかされているようだ。それでも、フェアリーの言葉は、私に前世のことを思い出させるに十分だった。
十三のときに生まれ育った村と別れを告げ、後宮に入った。まだ恋愛のれの字も知らないような子供の頃に、私は一国の皇の妃となったのだ。
後宮で穏やかに過ごせられたときもあった。でも、思い出すのはいつも嫌な出来事ばかりだ。
その中でも一番記憶に残っているのが、皇帝に贔屓された日々のことだ。
役人の養子に入っただけで何の後ろ盾もない私に、後宮で一番位が高かった妃よりも良い装飾品を贈ったり、宴では頼んでもいないのに上座に座らせたり、挙げ句の果てには臣下達に堂々と寵愛宣言をしやがったり。
後宮の上下関係を無視した皇帝の行動は様々な人間に不満を溜めさせ、その矛先は私に向けられた。それ以前の彼がなまじか優秀だったため、皇帝のおかしな言動は私が誑かしたせいだと決め付けられたのだ。
思い出したら腹が立ってきた。私が何度やめてくれと頼んでも、あの男は反省したふりをするだけで、一向に状況は改善されなかった。私が散々酷い目にあって殺されかけても、彼は己の言動が悪いなど微塵たりとも考えておらず、むしろ「なぜ皇帝である自分に愛されて喜ばない」などと寝言を吐いてくるほどだ。
ふざけんな。相手のことを考えずに、一方的に感情を押し付けて何が愛だ恋だ。そんなの、断じて恋愛なんかじゃ——。
「……ああ、そっか」
そこまで考えて、ふと気づいた。
私、前世のせいで恋愛に対して過敏になっているんだ。
フェアリー曰く、独善的な恋で一方的に消費された過去があるから、嫌になったんだ。見返りだとか、利益が絡む恋愛が。
だから、相手を純粋に思いやる、まるで奉仕するような恋愛以外、認められないんだ。
『あなたの幸せが、私の幸せ』
突然、フェアリーが言った。私が思わず顔を上げると、相変わらずシュナの頭に乗っているフェアリーが歯を見せて笑った。
『これが、アザレアの理想的な恋愛でしょ?』
端的に核心を突かれて、私は苦笑した。
「……そうね。だから私は、今の自分が許せないでいるんだと思う」
ロータス殿下が幸せになるのなら、彼のためになるのなら、自分の気持ちを抑えることなど苦にならないと思っていた。
でも、実際はそんなことできない。義妹に問い詰められて即答できなかったのが良い証拠だ。もし殿下が他の女性を好きになったら、私はきっと諦めきれず、みっともなく彼に執着する。
しかし、それをすれば自己嫌悪に陥るだろう。
本当に相手を好きならば、潔く身を引くべきだ。たとえ自分が不幸になろうと、愛しい相手の幸福を願うべきだ。
だってそうじゃないと、私が皇帝と同じことをしないという保証がない。
私の自己満足な恋愛で殿下を不幸にしない保証など、どこにもないのだ。
「いやになる」
コップを机に置いて、椅子の上で膝を抱える。行儀の悪い格好にシュナとフェアリーは何も言わなかった。
「エリーゼの言う通りだった。好きだと思い込んで殿下の幸せを願っておきながら、結局、私は最初からずっと自分のことしか考えていないもの」
必要とされたことが嬉しくて、自分勝手な気持ちで彼の側にいた。
だけど、恋を神聖視している——恋人や夫婦関係に清らかな理想を抱いていた私には、彼の婚約者という立場はあまりにも不都合だったのだ。
なぜなら矛盾してしまうから。夫婦は互いに奉仕する恋愛関係であるべきだという思想と、自分の価値を証明するために、相手に依存している状況と矛盾が生じてしまう。
だから、考えないようにしていた。言葉にしないようにしていたんだ。認めないようにしていたんだ。
だって矛盾に気づいて恋が綺麗事だけでは済ませられないと知ってしまったら、前世の皇帝と同じ行動を取っていると認めてしまったら。
私はきっと、死にたくなる。
「こんな自分が嫌になる。自分の気持ちもわからずにいたなんて、馬鹿みたい」
義妹に言われた通りだったと自嘲して、膝に顔を埋めた直後、シュナが歯切れ悪く言った。
「あのー、アザレア様。落ち込んでいるところ申し訳ないのですが、僕には何が何だがさっぱりなので教えていただけると助かります……」
真っ暗な視界の中、シュナが戸惑う気配が伝わってくる。
そこで私は、彼に全く詳細を話していないことに気がついた。こんな夜中に付き合ってもらっているのに、誠実な対応をしていないことに申し訳なさを覚え、私は顔を上げて彼に謝罪する。
「そうよね。ごめんなさい、シュナ。ちょっと言葉を整理するから、少しだけ待って」
シュナは相変わらず椅子の背もたれにまたがるように座っていて、その頭はフェアリーのせいでボサボサに乱れていた。
「いえ、急かすつもりはなかったのですが……アザレア様、あなたなりに結論が出たのなら一応お尋ねしたいことがありまして」
「私に尋ねたいこと?」
彼は頭を掻いて、乱れた髪の毛をさらにボサボサにしながら、申し訳なさそうに言った。
「はい。と言っても、最初に質問した『ロータス殿下のことが好きかどうか』をハッキリできたのかどうか、念のため確認しておきたくて……」
『あらあら。こういうときはそっとしておくというのが、良い人間の男というものではないの?』
いつの間にかシュナの頭から移動していたフェアリーは、机の上で寛いでいる。彼女にからかわれたシュナは気にせず話を続けた。
「それで、どうなんですか。アザレア様」
「……うん、答えは出ている」
ああ、そうだった。恋だ何だと話が逸れたが、私は殿下のことを好きなのかどうか、それをハッキリさせたかったんだ。
私は膝を抱えたまま、溜めていたものを吐露した。
「私は自分勝手な気持ちで殿下の側にいて、それを恋と勘違いしていた。殿下のためだと思いながら、全部自分のために行動していた」
目の奥が熱い。手を握る力を強めて、そのまま言い切る。
「だから、私は殿下のことが好きじゃない。こんな醜い感情、恋なんかじゃない」
自分で言ったことなのに、胸が痛む。その痛みが意味することを理解する前に、シュナが「えっ?」と短く聞き返してきた。
「あ、あれ? アザレア様? 終わりですか?」
動揺する彼に、私は首を傾げた。
どうしたのだろうか。もしかして、私の答えが酷すぎて彼の予想を下回ったりでもしたのだろうか。
軽蔑されたかもしれない。いや、されても仕方がないな、などと考えていると、シュナは「まさか!」と悲鳴じみた声で叫んだ。
「本当に終わりなんですか!? あんな説得力の欠片もないポエムみたいな説明で、終わり!?」
説得力の欠片もない。
ポエムみたいな説明。
シュナから放たれた言葉に、私は固まった。
私の人生の中でとても重要な告白をしたというのに、あんまりな物言いで表され、衝撃に脳の処理がついていかなかったのだ。
そんな私などお構いなしに、シュナは目を見開き、勢いよく頬を両手で押さえる。彼の開いた口は塞がっておらず、その顔はどんどん青ざめていった。
「嘘、嘘でしょう……アザレア様。それはあり得ないですよ。酷いですよ、あんまりだ……昨今のスライムの方がまだ体系取った説明ができますよ……」
酷いのはどっちだ。
人をスライム以下の知能だと暗に言いやがって。
先ほどのことも相俟って私が怒りで震えていると、フェアリーが宥めるように私たちの間に割って入ってきた。
『まあまあ、二人とも落ち着いて。シュナ、あなた、圧倒的に言葉が足りていないわよ。全くアザレアに伝わっていないわ』
「はっ。僕としたことが。申し訳ありません」
シュナはいきなり椅子から立ち上がった。そして、椅子をくるりと半回転させ、背もたれを正常な位置に戻す。私ときちんと向き合うように彼は座り直して、わざとらしく咳払いすると、真面目な顔で尋ねてきた。
「アザレア様。先ほどの説明はとてもわかりづらかったので、僕の質問に答えるという形でご説明ください」
「……まあ、いいわよ」
正直その前に私に謝れよと思ったが、ここで話の腰を折るとややこしくなりそうな気配がしたため、渋々と頷いた。
私の了承を得たシュナは、早速と言わんばかりに質問してきた。
「ではまず、アザレア様が『好き』と『恋』を等式で結ばれている根拠を述べていただきたく……」
「ん?」
「はい?」
思わず聞き返すと、シュナも首を傾げてきた。
数秒の静寂。先に沈黙を破ったのはシュナだった。
「あ、申し訳ありません。つい癖が出てしまいました。変な言葉使いになっていましたよね」
片手で口を押さえて、照れ臭そうに彼は頭を下げる。私は大丈夫よと笑って、彼に続きを促した。
あー、良かった。根拠を述べよとか言われてびっくりしちゃった。恋とか愛とかをまさかそんなガチガチに説明するなんてあり得ないもんね。
シュナは「では、気を取り直して」と、穏やかに会話を再開した。
「まず、アザレア様が『好き』と『恋』を同一視している理由を順序立てて説明していただきたく……」
「さっきと何も変わってないじゃない!」
私は叫んだ。真夜中だけど叫ばずにいられなかった。
「根拠を述べろとか、理由を順序立てて説明しろとか! できるわけないじゃない! 恋とか愛とかそういう感情って、理論的に説明できるものじゃないでしょう!?」
「えぇ!?」
私の主張に、シュナは心底驚いているようだった。彼は狼狽た様子で私に言い返してくる。
「理論的に説明できないのなら、どうして『答え』が出てくるんですか!? それこそおかしいではありませんか!」
彼の思いがけない言葉に、私はうっと言葉を詰まらせる。すると、私の代わりにフェアリーが反論してくれた。
『あら。万物には生まれたときから果たすべき役割が与えられているのよ? だったら、無意識とは言え、初めから答えがあってもおかしくないじゃない。ねえ、アザレア。あなたもそう思うでしょう?』
フェアリーナイスアシスト!
彼女の主張に、私はこくこくと頷く。フェアリーの言う通りだ。そもそも、私は明確な答えを求めにきたのだ。そこに、理論立った説明など不必要に決まって——
「それらはただの先入観か都合の良い妄想です! そんなの『答え』とは言えませんよ!」
先入観。都合の良い妄想。
シュナはまたもや私の意見を酷い言葉で否定した。私がムッとして言い返そうとしたとき、彼はいきなりポンと膝を打った。
「あ、そうですか! わかりましたよ、アザレア様の説明が説得力ない理由!」
シュナが急に立ち上がり、彼の椅子が後ろへ倒れそうになる。彼は背後のことに構わず、私に人差し指を突きつけると、早口に言った。
「アザレア様は恋を綺麗なものだと盲信しているんですよ! だから、結論ありきで問題を語る! 僕が一番嫌いな、問題を客観視できないタイプではありませんか!」
ドン、と。
椅子が倒れた音は思いのほか部屋に響いた。
「………」
「なんか違和感あると思ったらそういうことですか。フェアリーが恋を神聖視していると言ってたことが引っかかっていたんですよね。そりゃあ話が噛み合わないわけだ」
シュナはうんうんと何度も頷き、勝手に一人で納得していた。ショックで口が聞けない私のことなど視界に入っていない。
恋を盲信している。
わけもわからずにただひたすら信じていると。私がわけもわからず恋を綺麗だと信じていると、シュナはそう言ったのだ。
「——そんなことないわ!」
彼の発言の意味をようやく理解した私は、声を荒げて立ち上がった。
「これは私なりに出した『答え』よ! それなのに、さっきから聞いていればポエムだ先入観だ妄想だ盲信だ……好き勝手言ってくれるわね。シュナ殿は私のこと何にも知らないくせに!」
「そのアザレア様のことを何にも知らない他人を、納得させてこその『答え』でしょう」
私が言い終えると同時に、間髪入れずシュナが切り返してくる。
そもそも、と、彼は私に反論する余地を与えず、矢継ぎ早に話し続けた。
「先ほども言いましたが、アザレア様は問題を客観視していないんですよ。いえ、問題どころか、アザレア様はあなた自身のことですら客観視できていません。言動と思考が一致していないのです。はたから見れば矛盾だらけです。そんな突っ込みだらけでガバガバな『答え』——とすら呼ぶのもおこがましいポエムなど、僕は決して認めません! むしろ気に食わない。全否定です!」
私の事情など一切顧みず、シュナは息継ぎもなしに言い切った。
そんな彼に無性に腹が立って、私はまるで子供のように言い返したのだ。
「さっきから否定してばっかで、じゃあ、どうしろって言うのよ! どうやって答えを出せと言うのよ。自称大天才なんでしょう。教えてくれたっていいじゃない!」
明確な答えが欲しくて、早くこのモヤモヤした感情に決着を付けたかったのに。それが叶いそうだったのに。
シュナの反論を聞いていて、考えてしまった。
私の出した答え——殿下のことが好きではないと言ったことが、間違っているのかもしれないと。
でも、それは、ダメだ。ダメなことだ。
だって、私は、私が憧れていた恋は、こんな自分勝手な気持ちで相手の側にいるものではなくて。あの皇帝のように相手を搾取するのではなく、互いが互いを思い合っているもので。
だから、この感情は恋なんかではない。そのはずなのに。
「……単純ですよ」
シュナはまるで子供を宥めるような優しい声で、私に言った。
「まずは盲信するのをやめましょう。アザレア様に根付いている先入観を全て捨ててからが、始まりです」
簡単に言ってくれる。
それがどれだけ難しいかわからないくせに。
『随分と酷なことを求めるのね』
私の心の声が伝わったのか、フェアリーが口を挟んできた。パタパタと私たちの周りを羽ばたいて、彼女は苦笑する。
『悩みや迷うことは誰だって嫌がるわ。足が宙に浮いているような不安が常に付き纏うから。だから、確かな形ある物に縋るのに、それを捨てろって言うの?』
「そりゃあ、難しいことは重々承知しています。でも、大丈夫ですよ」
シュナはフェアリーではなく、私に向けて言った。
「わからないものは、わからないって素直になって良いんです。そのわからない意味不明なものを発見して、解明して、発展させていったのが、人間なんですから。でなければ、僕らは未だ世の中の事象全てを神のせいにして、森で獣でも狩っていますよ」
だから不安にならないで、と、彼は私を安心させるように微笑んだ。
「恋を盲信するのをやめることは、アザレア様の過去を、あなたの想いを否定することではない。だから、過去のことは一度脇に置いて、今は自分の気持ちに素直になってみてください。きっと、今までとは違うものが見えてきますから」
……前世のことを忘れて、今の私の気持ちに素直になる。
それは、きっと難しいことだ。怖いことだ。昔のことを忘れられたら、とうにそうしている。ずっと引きずっているということは、前世の人生は私の中でとても深く根付いているのだろう。
——それでも。今だけなら。もしかしたら……。
「——良いわ。大天才の言う事だもの。信じてみても、悔いはないでしょう」
肩の力を抜いて、私は笑った。フェアリーが驚いたように私を見ている。彼女の瞳が「良いのか?」と疑問を浮かべていた。
わかっている。結局、振り出しに戻ったのだ。答えを捨てたいま、この矛盾した感情とまだ付き合わなければならない。それは苦しいことだし、不安なことだ。
だというのに。
先ほどよりも、気持ちはとても晴れやかだった。
「……うん、大丈夫そうですね」
シュナが私を見て満足そうに頷く。彼は倒れた椅子を起こすと、またもや背もたれを前にして跨がるように座ったのだ。
そして彼はすっかり冷めただろうミルクを一口飲んでから、私に見せるように木製のコップを持ち上げた。
「アザレア様が恋について説明できるようになったら、僕に教えてくださいよ? そしたら今度はちゃんと茶葉を用意しておきますから」
では私は、その紅茶に合うお茶菓子を持ってこよう。
私も残ったミルクに口をつける。予想通り冷めてしまっていたが、その味は変わらずほんのり甘かった。




