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孤独な月は後宮に堕ちる  作者: 桜守 景
第八章 ◆

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四. 凶報

 


「身分の高そうな客人が、家に?」



 浩然ハオランが幼馴染の少女と婚姻をして半月と少し経った頃。


 静麗ジンリーの実家である織物問屋で、義理の父から仕事を教わりながら働いていた浩然は、ルゥオ家の使用人が慌てた様子でやって来て話す内容に眉を顰めた。

 ジィァン夫妻はそんな浩然の様子を少し心配そうに見ている。



 ―――今日は御爺様達も出掛けているし、静麗一人で対応するのは厳しいだろう



 そう判断した浩然は、直ぐに蒋夫妻に事情を話して羅家に戻ることにする。

 蒋夫妻も娘が心配だったのか、快く帰る事を承諾してくれた。




 寧波ニンブォには古くから続く貴族制がある。

 貴一品から貴十五品まで、十五の位に分けられた品等の貴族達によって形成されてきた。

 その血統に特権的な地位を与えられ継承してきた貴族達は、領地を経済的な基盤として支配的な地位を守っていた。

 ここ雅安ヤーアンで貴族の位を持つ者は領主一族のみだ。

 平民と貴族の間には決して越えられぬ厚い壁があった。





 浩然は屋敷に戻ると直ぐに応接間へと向かった。

 客人の相手を務めていた静麗は、浩然の顔を見るとほっとした様に顔を綻ばせ、次いで申し訳なさそうに謝ってくる


「浩然、お帰りなさい。ごめんなさい、仕事中に呼び出したりして」

「ただいま、静麗。大丈夫だよ。御義父さんには、ちゃんと言ってきたから」


 静麗を宥めるように優しく声を掛けた後、浩然は客人に向き直った。



 身に着けている衣装や装飾品は、落ち着いた色合いの一見地味に見える物だったが、質の良い物であることが浩然にも分かった。

 そして椅子に腰掛けて此方を見ている男性は、三十代後半程の見た目で、落ち着いた貫禄を醸し出していた。

 確かに、一目で身分の高さが窺える男性であった。


 浩然は男性に揖礼をすると、挨拶を述べた。


「ようこそ、お客人。羅 浩然と申します。当主はご覧の様に、不在となりますので、俺がお話を伺っても?」

「おお、貴方が羅家の御子息であられますか。私は、朝廷で官吏をしております、イェン 明轩ミンシュェンと申します。どうぞ、お見知りおきを」


 浩然の挨拶に対して閻は立ち上がるとにこやかに挨拶を返した。

 しかし浩然は閻の口から出た朝廷の官吏という言葉に、僅かに顔を強張らせた。


 だが直ぐに笑顔を浮かべると相槌を打った。


「それは遠くからの旅路、さぞ大変だったことでしょう。どうぞ、掛けてください」


 浩然は閻に椅子を勧めると自分もその前に腰掛けた。

 そして側で不安そうな表情を浮かべている静麗に声を掛ける。


「静麗、ここはもう大丈夫だから、下がっていて」

「はい、浩然。では、閻様、失礼いたします」


 静麗は丁寧に閻に頭を下げると部屋を出ていった。

 それを見送った浩然は、ふっと小さく息を吐くと、気を引き締めて閻に視線を向けた。


 羅家には、身分の高い方達と関わるのが恐れ多いという、多くの平民の感覚とは別に、出来るだけ朝廷や皇都と関わりたくない事情がある。



 ―――……母さんが亡くなってから随分と経つ。今更、何が目的でこんな田舎町まで来たのか



 皇都の官吏が羅家を訪れる用事など、母と自分の事しか考えられない。


 だが、浩然が雅安の地で生まれ育って十八年も音沙汰が無かった朝廷が、何故今頃訪ねてきたのか。

 浩然の胸に漠然とした不安が過ぎった。




 閻は応接間に二人きりとなった事を確認すると、徐に口を開いた。


「羅 浩然様。貴方は御自分の事を、何処まで御存知で御座いますかな」


 ぴくりと反応した浩然だが、首を少し傾げて閻の顔を見返した。


「何の話でしょうか? 私は何者でもない、唯の平民ですが」


 浩然の緊張に強張った表情を見ていた閻は、ふっと口元を綻ばせると、頷いた。


「用心深い事は良い事ですが、隠す必要は御座いません。私は全てを知っております故。………貴方様は、先帝陛下の御子息で在らせられます」

「っつ、待ってください! 俺は唯の平民で……」




 そこまで言った浩然は違和感を覚えた。




 ―――今、この男性は何と言った?




「……先帝、陛下……?」




 浩然の口から小さな呟きが零れ落ちた。


 重々しく頷いた閻は、沈痛な表情で立ち上がるとその場で膝を突き、両手を床につけて深く平伏した。

 それを浩然は椅子に腰掛けたまま茫然と見ていた。


「浩然様。貴方様の御父上で在らせられる、先の皇帝陛下は、皇都で巻き起こった疫病によりその尊い生命を儚く散らされる事となりました。……本日はその事を浩然様にお伝えすると共に、ぜひお願いしたき儀があり、私が皇都より参りまして御座います」


 浩然の混乱を余所に、閻はすらすらと話を進めていく。


 顔を上げた閻は、決死の覚悟を滲ませて浩然へとにじり寄ってくる。

 浩然の座る椅子の前まで這いずって来た閻は、浩然の両手を取ると強く握りしめてきた。


「浩然様! どうか、どうかお願いで御座います。私と共に皇都へ参って下さいませ。どうぞ、皇都で貴方様の兄上である皇子殿下をお助け下さいませ。このままでは皇家の存続も危うく、この国は荒れ果て、他国より攻められて滅びてしまうやも知れないのです!!」



 ―――何を、この人は先程から何を言っている?!



 浩然は、突然父親である男性の訃報を知らせを受けて動揺している所へ、矢継ぎ早に告げられる情報の多さに混乱し、頭を抱えた。



「待ってくれ! 待って下さい!!」



 そう言うと閻に握られていた手を取り戻し、大きく深呼吸をした。


「閻、様。とにかく、一度座って下さい。それから、俺に対して敬う必要はありません。……確かに俺はの方の血を引いていますが、今は唯の平民ですから……」


 浩然が憔悴した様にそう告げるのを見た閻は、眉を下げて申し訳なさそうな顔をした。


「申し訳御座いません。気が逸るあまり、浩然様のお気持ちを蔑ろに致しました」


「……初めから、全て説明して頂けますか?……何故、俺が皇都へ行くことが必要なのです? 唯の平民が一人皇都へ行ったところで、何も出来ませんよ?」

「浩然様の疑問はごもっともです。では、最初から説明させて頂きます。事の初めは…………」




 そうして閻は皇都で何が起こったのかを詳細に説明しだした。


 皇都で疫病が蔓延し、一番被害が酷かった場所が皇族の住む地域であった事や、皇帝陛下のみならず、皇太子殿下や他の多くの皇族達も亡くなった事、唯一生き残った皇子殿下の体調が未だに思わしくなく、それにより現在皇都や朝廷が異常な混乱の中にあること。

 そして、此れまで静観していた周辺の国々が不穏な動きを見せている事を閻は切々と浩然に訴えた。


「どうか、どうか私と共に皇都へ参って下さい。ほんの一時だけ、皇族の籍に入り、兄上をお助け頂きたいのです。今、この混乱を乗り越える事が出来た後ならば、再びこの地へ戻って来る事も出来ましょう。どうか、私を、いえ、この国をお助け下さいませ」


 閻は再びその場に跪くと額を床に押し付けて懇願した。

 浩然はそれらの話を唇を噛みしめて聞いていたが、全てを聞き終わると首を横に振った。


「閻様のお話は分かりました。……ですが、申し訳ありませんが俺は雅安を離れる気はありません」


 浩然はきっぱりと閻の懇願を退けると、頭を下げた。


「俺はこの町で生まれ育った平民の浩然。それ以外の何者にもなる積りはありません」



 ―――そうだよな、母さん。母さんが皇都から出て此処へ戻って来たのは、俺を平民として育てたかったからだよな



 浩然の迷いの無い返事を聞いた閻は、暫く固まった様に動きを止めていたが、やがて頭を床に付けたまま、くぐもった声を上げた。



「……浩然様、良くお考えの上、ご返事を願いたい。貴方様の返事次第では、何が起こるのか私にも保証は出来ません」



 そう言うと、ゆっくりと頭を上げて浩然の顔を見上げた。

 そしてにこりと笑みを浮かべた。


「先程の、可愛らしい少女は貴方様の奥方とか? この先も貴方様の奥方やその御両親、そしてこの屋敷にお住まいの御老人達が穏やかな生活を送れるかどうかは、貴方様の返事次第なのですぞ」


 穏やかな口調で告げる閻の言葉を聞いた浩然は、一瞬何を言われたのか分からなかった。




「……閻、様。……その言い様では、まるで……」



 閻はにこやかな顔のまま、言葉を続けた。


「浩然様。私を含めて、朝廷の人間は、皇族とこの国を守るためならば、どの様な事でも迷いなく行います。……どの様な事でも、です」


 口元は笑みの形を模っているが、その目の奥は笑っていない事に浩然は気付いた。



 ―――まるで、では無い。これは……脅しだ。俺が大人しく皇都へ向かわなければ、朝廷が黙っていないという……



 浩然は閻の迫力に飲まれた様に、ごくりと唾を飲み込んだ。



「何、迷うことなど御座いませんよ。ほんの一年程の期間を皇都でお過ごし頂ければ、その間に皇子殿下の体調も回復する事でありましょう。そうすれば、浩然様は、晴れてこの地へ戻って来ることも出来ましょう。…………何が一番正しき道か、貴方様にもお分かりでしょう?」


 閻は目を細めて浩然を見詰めた。



 ―――もし、それでも俺が断ったら、朝廷の奴らはどう動く? ……考えるまでも無い。俺の様な田舎の平民なんて、どうとでも出来るだろう。無理やり連れて行く事も可能だろうし、下手に抵抗すれば俺の周りの人達が役人に捕まってしまうかもしれない



 浩然の脳裏に、婚姻したばかりの愛おしい妻の顔や、祖父母の顔が過ぎる。

 自分のせいで大切な人達が傷付けられるかも知れない。

 浩然は激しい苦痛を感じた様に顔を歪ませた。



 ―――こんな事、静麗や御爺様達に言える訳が無いっ



 閻の穏やかな笑みを見詰めたまま、浩然は震える手を強く握りしめ、閻に対して小さく頷いた。



 浩然は朝廷の脅しに屈する事しか出来なかった。








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