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孤独な月は後宮に堕ちる  作者: 桜守 景
第八章 ◆

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二. 婚儀

 



 二月中頃、大国である寧波ニンブォの中でも、皇都から遥か遠くの南方に位置する田舎町、雅安ヤーアンで、ある幼馴染の男女が婚儀を上げた。






 広大な大陸の東端に位置する大国、寧波。


 寧波は皇族、皇帝陛下が二千年以上に渡り、代々支配してきた豊かな国だ。

 大陸の最も東に位置し、国土の大半が海に面している。

 また、唯一、海を隔てた隣の大陸との交易の港がある。

 その為、寧波を囲むように位置する周りの三国は昔からその港を欲し、国境沿いでは小競り合いが絶えなかった。

 今から三十年程前に寧波を含む四大国で不可侵の条約が結ばれたが、予断を許さない状況に変わりは無い。


 そんな寧波の中でも南方にある町、雅安は比較的穏やかな地域だ。

 雅安は温暖な気候と豊かな土壌に恵まれた為に古くから農業や畜産が盛んで、寧波に住む人々を食料で支えている、そんな牧歌的な田舎町であった。







 その日、夜が明けきる前のまだ薄暗い時刻に目を覚ましたルゥオ 浩然ハオランは、寝台から身を起こすと寝衣から普段着へと着替え、部屋から廊下へと密やかに出ていった。

 まだ早い時刻の為に、住み込みの使用人達も起きていない様で、古びた屋敷は静けさに包まれている。


 浩然は使用人や祖父母を起こさぬようにと気をつけながら静かに進むと、外廊下から裏庭へと降り立った。


 温暖な地域とはいえ、この時期の早朝はやはり寒い。

 浩然は白い息を吐きながら、薄暗い庭を慣れた様子で歩き出した。




 目的の場所は直ぐに見えてくる。

 浩然は手入れの行き届いた、まだ新しい墓石の前に立つと、ひとつ大きく深呼吸をした。

 そしてその場で膝を突くと頭を深く下げ目を閉じた。



 ―――母さん、とうとう今日を迎えることになったよ。今日は俺と静麗ジンリーの婚儀の日だ。……あぁ、出来る事なら、母さんにもこの場に居て欲しかったな



 浩然は目を開けて身体を起こすと墓石を見詰め、在りし日の母の姿を思い出す。

 浩然の母は、冷たく感じるほどに美しく整った見た目とは違い、とても情が深く、また苛烈な性格の人でもあった。

 口を大きく開けて豪快に笑う姿や、浩然を叱り飛ばす時の迫力のある姿が鮮明に思い出される。

 浩然はそんな懐かしい母の姿を思い出し、口元を綻ばせた。



 ―――俺が静麗と婚儀を上げると知ったら、母さんは何と言ったのかな?



 よくやった! 浩然!



 手を叩いて喜ぶ母の様子が簡単に想像出来てしまい、浩然は思わず苦笑した。







 浩然は十八歳になったばかりのまだ若い青年だ。

 そして今日は、長年幼馴染として共に過ごして来た静麗との婚儀の日だ。


 母の墓前で婚儀の報告をした事により、改めて今日此れから静麗と婚姻するのだと自覚した浩然は、頬をうっすらと染めて落ち着きなくそわそわと身体を動かした。

 口元がにやけそうになるのを片手で抑えて少し俯く。


 その拍子に、ふと墓石が目に入った浩然は眉を顰めた。



「こっち見るなよ、母さん」



 にやにやと笑いながら、揶揄からかう様な視線を投げかける母の姿が見えた気がした浩然は、照れ隠しに早口でそう言うと、立ち上がって膝に付いた埃を乱暴に払う。


「じゃあ、また後で静麗と一緒に来るから、楽しみに待っていてくれ」


 そう言って、その場で踵を返そうとした。

 だが、その途中で浅黄色が浩然の目の端をぎる。

 足を止めた浩然は目を細めてそれを凝視した。


「あれは、……」


 浩然はその鮮やかな色に惹かれる様に近づいていく。


「あぁ、やっぱり」


 春にはまだ早いこの季節。

 庭の植物達はまだ殆んど花を咲かせていない。

 そんな色彩の乏しい裏庭の中で咲く、可憐な一輪の花。



 ―――確かこれ、香りが好きだと言っていたよな……



 そのたった一輪だけ花をつけた草花を見て、浩然は口元を引き上げた。


「母さん、これ、貰っていくな」


 くるりと墓石を振り返った浩然は、そう言うと花へと手を伸ばした。





 ◇◇◇





 浩然の祖父母の屋敷で行われた婚儀は、親戚や親しい友人、それに祖父母や静麗の両親の仕事の関係者達が集まって、賑やかで温かい雰囲気の中で執り行われた。



 静麗とその母が、半年以上の月日を掛けて仕立てた花婿の衣装に身を包んだ浩然は、婚儀の席で隣に座る静麗の姿をちらちらと見ては、口元を引き締めた。

 そうして意識して引き締めていないと、何かむずむずする様な、笑いたくなるような気分になるのだ。



 ―――あぁ、やっぱり花嫁衣裳を着た静麗は雅安一、いや寧波一可愛いよな



 浩然は自分の妻となり、隣にちょこんと座る静麗をちらちらと盗み見ては、その度に身悶えしたくなる様な幸せを感じていた。





 静麗は、浩然と同様に雅安で生まれ育った、成人したばかりの十五歳の少女だ。


 浩然は幼い頃から静麗の事を良く知っており、ずっと側で見てきた。

 最初の頃は妹の様にしか感じていなかったのだが、何時いつの頃からか異性として意識をする様になっていた。


 静麗はよく自分の事を平凡だと言い、浩然の隣に立つのは勇気が要るといったような変な事を言うが、浩然から見た静麗はとても愛らしい可愛い顔をしていると思う。

 それに静麗は全く気付いていなかったが、優しくて思いやりがあり、穏やかな気性の静麗は、同年代の青年達の間でもかなり人気があり、浩然は何時もやきもきしながら見守り、他の男達が静麗に近づかない様に常に気を配っていた。


 そうして静麗が成人すると、誰よりも早くに静麗の両親へと婚姻の申し入れをして、承諾を得たのだった。

 静麗の両親の承諾を無事に得て、静麗もまた自分の事を想っていてくれた事を知った時、浩然は天にも昇る気持ちになった。


 婚姻の承諾を得てから今日という日を迎えるまで、浩然と静麗は穏やかに愛を育んできたのだ。






「静麗、少しいいか?」


 親戚や友人達に挨拶をする為に宴席の場を回っていた浩然だが、粗方声を掛け終えた所で静麗を呼んだ。

 母の墓前へ、夫婦となった挨拶を二人でしようと考えたのだ。


 静麗は花嫁衣裳の領巾ひれを気にしながらも、客達の間をすり抜けて足早に近づいてくる。

 ひらひらと舞う領巾が、まるで天女の衣の様だと浩然は考え、そんな自分の思考が急に恥ずかしくなり、誰も聞いていないのに咳ばらいをして誤魔化してしまう。



「どうしたの」

「うん。裏庭に行かないか?」


 静麗は納得した様に頷いた。


「そうね。御義母様にご挨拶をしなければ」


 何も言わずとも、浩然の意を直ぐに汲み取ってくれる静麗に嬉しくなり、微笑んで頷き返すと、小さな手を引いて賑わう大広間から外へと出ていく。






 母の墓石の前で二人は膝を突くと深く一礼をする。


「母さん。今日、俺達は婚儀を上げたよ。これで、俺達は夫婦となったんだ。……母さんがいたら、なんて言ったかな。静麗のことをとても気に入っていたから、きっと喜んでくれただろうけど」


 浩然は少しの寂しさと多大な幸福感の中、敬愛する母へと無事に婚儀を迎えたことを報告する。


 ふと隣を見ると、静麗は瞳を閉じて何かを祈っている様に見えた。

 その真摯で静謐な姿は、浩然の目にはとても新鮮で美しく映った。


 暫くそんな姿に見惚れていると、静麗は静かに瞳を開け、傍らにいる浩然を見上げてきた。

 静麗に見惚れていた事に少し恥ずかしさを感じた浩然は、暫し墓石を見詰めた後に立ち上がり、静麗に手を差し伸べた。



「行こう。静麗」

「ええ。浩然」



 浩然の手を迷いなく掴んだ小さな手を優しく握り返して立ち上がらせ、浩然は前を向いた。

 そうして二人は手を繋いだまま、来た道をゆっくりと戻って行った。






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