孤独な英雄8
あの人が傷付いている。
今、目の前で何が起きてるのか私には分からないけれど、彼の顔があんなにも後悔に、屈辱に満ちている姿を私は初めて見たんだ。
グリムガルに殴られているあの顔が、今でも忘れられないんだ。
苦しい。苦しい。苦しい。苦しい苦しい。苦しいです。
「ねぇ、ココさん。聞いていい?」
艶のある黒髪がスラリと腰まで伸びた美少女はまるで現実から目を逸らすかのように下を向きながら私に質問を投げかけた。
「はい」
「これを見て苦しくないの? なんで貴方は見てるの?」
私は答える。正解を探すまでもなく。何度も口にしたセリフをもう一度。
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頭上に広がる青い海には白くふわふわした島々がゆっくりと波に流されていた。
「あー、暑い。まだ朝の八時だぜ? 暑すぎないか……」
睦は額に大きな雫をいくつも抱え愚痴をこぼす。
「そう?」
平然と答えてみるが私の額にも大きな雫が流れては落ちていた。本当に暑い。
「なー? 俺帰っていい?」
「睦が行きたいって言ったんでしょ?」
「でもよー?」
自分から誘っておいてその言い草はなんだ。私は別に行きくて行っている訳ではないのだ。
「いいから文句言わない!」
私もこうなれば意地である。口調に多少力を込めて言い放つ。
「あぁ、わかったわかった」
そうこうするうちに遠目ながらにもコロッセウムがその大きな図体をチラつかせていた。
コロッセウムにたどり着くまでにはいくつもの商店街を抜けなければならない。熱されたフライパンのような環境で人混みに囲まれるのだ。苦痛以外の何物でもない。
そんな環境を耐え凌ぎ、コロッセウムが目前に迫っていた時だった。
「睦、帰っててもいいよ」
「え? どうしたんだいきなり」
────もしかするとこういう事を運命と言うのかもしれない。喉が張り裂けそうになるほどの衝撃が私を襲う。
なぜ生きている?
なぜここにいる?
何しに来たの?
質問は尽きないけれど分かることがただ一つこの機会を逃しては駄目だ。
「いいから、帰りたいならどうぞ」
「どうしたんだ? 怒ってんのか?」
「違うの。ちょっと用事思い出して付き合えそうにないから」
「……ふーん。じゃっ先帰っとくわ」
こうして、私は人混みの中、寂しそうに歩く銀髪の少女の後をつけた。
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彼女は一体どこに行こうと言うのだろう。道のり的にはコロッセウムのようにも思えなくもないが、流石に彼女があんな気の狂った娯楽を見る様な人間には見えない。
だが、その予想は見事に外れ彼女は迷うことも無くコロッセウムの中へ入っていく。
慌てて追いかけるものの銀髪の少女の姿は見えない。仕方なく場内へと足を進め、ちょっとした階段を上り客席までたどり着いた。
辺りを見回すと銀色の髪がふわりと揺れるのが見える。彼女は悠然と、呆然と、平然と、まだ何も無いコロッセウムの中心を眺めていた。
私は彼女の隣まで足を進める。私だって非常識な人間ではない。プライベートな空間を邪魔してはいけないという常識ぐらいは持っているが、ここで折れたら二度と彼女に会えない。そんな気がして、私は心を決めて彼女に話しかける事にした。
──と、言ってもなんて話しかければいいかな。
彼女は私を知らないし、私も彼女の名前も知らない。まずは、二人の共通点から話すべきだ。そう結論づけた。
「こんにちは! 隣よろしいですか?」
日常会話から不振がられぬよう、平常心平常心。
「え? あっはい」
彼女は少しびっくりした声を上げて反応した。何もあそこまで驚く必要はないのに。
とは言え隣に座ることは出来た。問題はこれからだ。将太の事をいかに聞き出すか。
「貴方はどうしてこんな所へ?」
「なんで────ですかね? 見守るためでしょうか」
彼女は自分でも分からないような口振りで言葉を発した。いや、実際分かっていないのかもしれない。まぁ、そんな事どうでもいいんだけれど。
「見守る為────」
駄目なんだ。それじゃ駄目なんだ。きっと彼女は傷ついてしまう。私は彼が傷付くのを何度も、何度も、何度も見て失敗してたじゃないか。気付かせないと────。
「なんてこんな物騒な物を見守るなんて変ですよね……」
愛想笑いを零しながら下を向く彼女の顔があまりにも痛すぎた。彼女はもう既に傷付いていた。
「あ、あの!」
「はい?」
「いや、何でもないです……」
将太の事を聞こうとしたが上手く言葉が出ない。なんて切り口を開こうか。
『只今より延長戦を行います。挑戦者は反逆者の少年、黒田将太。対するはグリムガルでございます』
私の言葉は考えるまでもなく遮られる。思考が停止する。滞って、困惑する。
「え…………」
どういう事……将太が挑戦者?
見届けるって……え…………どうして?
慌てて隣の銀髪の少女を振り返る。今にも泣きそうな顔で、崩れそうな顔で、前をじっと見つめてコロッセウムの中央まで歩く少年を眺めていた。
「将太だったんですね……」
口から零れるように出た言葉に銀髪の少女はぴくりと反応する。
きっと心の中で分かっていたことだった。覚悟は出来ていた。将太がそういう人間だと言うことも分かっていた筈だったんだ。なのに──。
「貴方は……貴方は将太さんを知っているのですか?」
「知ってるも何も子供の頃からずっと一緒だったんです」
中央に向かって歩く少年を眺めてもう一度問うてみる。今度は私が。
「貴方も将太を知ってるの?」
すると彼女はほのかに頬に笑を溜めてまるで思い出すかのように、まるで祈るように、明日の方向を見て答えた。
「将太さんは私の命の恩人なんです。死ぬ事が決まっていた私に命を、生きる意味を与えてくれました」
心にもやがかかる。
あれ? おかしいな。どうしてだろう。こんなにも心が締め付けられるのはなんでなんだろう。
「そ、そうなんですね」
言葉を繋げようとした瞬間。銀髪の少女は顔の色を一層暗いものにして言う。
「そろそろ始まります」
「え? あ、はい」
その言葉の意味がコロシアムが始まるという意味だと捉えるのに数秒を要し、その間に金管楽器の音が宙を舞い。グリムガルが将太に遠慮なく拳を上げるところだった。
「避けて!!!」
なんで。叫んだが将太はグリムガルの拳を避けようとしない。なんで。なんで。なんで。
横に薙ぎ払われた拳にぶつかった少年は勢いよく吹き飛び、瓦礫とともに大きく壁に穴を開ける。
砂埃が止むのに約五秒。
グリムガルが砂埃の中に倒れ込む中に飛び込み将太を見つけ出すまでに約三秒。
完全に視界がクリアになるまでに将太の体は悲鳴を上げていた。
将太はもしかして、もしかして死ぬつもりなのだろうか。いや、あれだけ死ぬ事を嫌っていたんだ。それだけは無いはず、じゃあなんで────なんで戦わないの!
何度も、何度も、何度もぐったりと倒れ込む将太に重たい拳を振り上げるグリムガル。そんな光景を私は直視することが出来なかった。
ドスっ
バキッ
ボゴッ
数々の擬音が私の耳に届く度吐き気が襲う。本当にこういう音がするんだ。身をもって知るとはまさにこの事だ。
拳を強く握り、下唇を噛み、じっと下を向いていた時、ふとココさんのことが気になった。ココさんは今どんな気持ちなんだろう。きっと、きっと、私のように見るに堪ず、目を逸らしていることだろう。そんな甘い、甘い、実に甘ぬるい幻想を抱えて隣の少女を見る。
彼女は強くも、弱くも、逞しくも、貧弱にも、拳をしっかり握りしめ、下唇を噛み締め、しっかりと、まざまざとコロシアムの惨劇を眺めていた。
「なんで────」
どうして────なんで好きな人が傷付いているのに悲しまないの。眺めていられるの。
きっとそんな愛情は本当の愛情とは違う。偽物だ。作り物だ。でもなんでこんなにも敗北感が襲うのだろう。
「ねぇ、ココさん。聞いていい?」
「はい」
そう返事を返す彼女の声は今にも泣きそうな、張り裂けそうな、崩れてしまいそうなそんな声だった。
「これを見て苦しくないの? なんで貴方は見てるの?」
「苦しいです。悲しいです。辛いです。でも、私は将太さんに命を救われたんです。だから将太さんのためにこの命を使うって──そう決めたんです」
何言ってるの────見届ける事が、見守る事が将太のため?
「おかしいよっ! 貴方狂ってる!」
感情が先走り思わず強い口調になってしまった。それでも、彼女はそれを全部受け止め、流し込み、言葉を繋ぐ。
「そうなのかもしれませんね。でも──でも───」
言葉が滞り、彼女の声は今にも消えそうなか細い声に変わる。雫が目から頬をつたい、噛まれた下唇は赤く軽く歯形が浮かび、一線の雫がひらりと落ちると同時に儚く、微笑むように口を開いた。
「私が傷ついたら将太さんはもっと傷ついちゃうから」
「…………」
息を呑むことさえ出来ない。
「私は将太さんの帰る場所で、笑顔でいられる場所であり続けるんです。将太さんの苦しみも悲しみも受け止めて私は笑うんです」
彼女はきっと間違っている。今の彼女はきっと間違っている。でも、それもこれも全て将太の為なのだろう。将太の為に間違いを演じているのだろう。
彼女は本当に将太のことが好きなのだ。
「狂ってるよ……やっぱり貴方は狂ってる……」
「はい……」
ゆっくりとコロシアムは終わりを告げる。コロッセオの中央で呆然と座り込む将太と共に終わりを告げる。
今日は色々ありすぎている。考える事が多すぎる。学ぶ事が多すぎる。
これから騒がしい日常が始まるのだろう。
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「そういう事かよ…………」
睦はコロッセオの観客席で一人座り、コロシアムを眺めていた。
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真っ暗な暗闇の中、スクリーンの様に地面にぽっかり空いた穴には片目、片腕の男が映り込んでいた。
「始まった始まった! やっとなんだね。やっとここまで来たんだね! 遅かったなー! 楽しみだよ黒田将太! 君を選んで正解だった!」
スクリーンの光に照らされて子供の姿が浮かび上がる。子供はニコニコ笑い、スクリーンを眺め続ける。
「うふふ、うふふふふふふふふふ」
子供はよく笑う。相変わらずよく笑う。