後篇
朝、目が覚めると、シングルのベッドには一人で寝ていた。
ベッドにまで届く香りは食欲をそそり、トントンと包丁のリズムにのってハミングが聞こえる。
一人じゃないって嗅覚と聴覚が教えてくれる。
なんて幸せなんだ。
静かに布団から出て後ろから未菜を抱きしめ、耳元で「おはよ!」と告げる。
驚いた未菜から「もう! 一哉さん! 危ないでしょ!」とおしかりを受ける。
聞いた? 一哉さんだって。昨夜から、名前で呼んでくれる。
素直に嬉しいけど、“さん”付けって余計に年の差を感じないか?
「“さん”は、いらない。なしでもう一度名前呼んで!」
「一哉……さん。あー。やっぱり呼び捨てなんて無理です」
「敬語もいらない。ありのままの未菜で話して」
抱きしめたまま顔だけこっち向かせてキスをする。
「だって、年上なのに……」
「それってオジサンって言われてる気分になるからヤダ! ……未菜ちゃん?」
実際オジサンなのだから仕方ないけど。せめて気分ぐらいは若くいたい。
「ちゃん付けだと、子供扱いされてるみたい。わかった。……一哉くん。これでいい?」
照れてこっちを向いてくれないけど、赤くなってるのはわかる。
「ん」とOKの意味を込めて、耳にキス。
首筋についているキスマークを眺め、色が白いから結構目立つな~! ……でも、嬉しい。
これって独占欲だよな。
ダメだ。カワイー。
抱きついたまま離れらんない。
俺ってこんなにベタベタする奴だった?
今までは……むしろベタベタされて嫌がってたような……あんまりベタベタすると嫌がられる!?
離れがたいけど、首筋にキスを落として「顔洗ってくるね」と離れる。
「一哉くん、タオル出してあるよ。歯ブラシは……私の買い置きだからピンクなの~。ごめんね」
「ありがと! そんな謝んないでよ。しかもピンクって今の気分にピッタリ」
だから全然OK! と俺が笑うと彼女も笑う。
「もうすぐ朝ごはんできるよ!」と告げるのと同時に、炊飯器がメロディを奏でる。
今の家電はすごいな、ピーピーってなるんじゃないんだー。なんてなにもかもが新鮮に感じる。自分でも飯ぐらい炊くけどそんなところに意識は行かない。
顔洗ってる間に、食事が出来上がったみたいで、部屋には昨日使った折りたたみ式の机が出ていた。
「手伝うよ!」とお茶碗を持った彼女からしゃもじを奪う。
ありがとって任せてもらえるのも、うれしい。これじゃ母親のお手伝いをして喜ぶ子供だな。
食卓に並んだのは純和風の朝食。
雑穀米に味噌汁、焼鮭、納豆、卵焼き、ひじきの煮物。
「雑穀米ってもちもちしててうまいな」
白米炊くときに雑穀の袋を足すだけで栄養満点の米が簡単に出来るそうだ。俺みたいな食生活が偏ってる独身男性にはちょうどいいのかもしれない。
卵焼きも一口。甘過ぎずしょっぱくもなく、柔らかく焼けてていい感じ。
「一哉くんは、嫌いな食べ物ないの? 納豆も平気?」
「特に好き嫌いはないかな? ……納豆は好きだよ! 自分で買うときはひき割りが多いかな?」
味噌汁を啜りながら答える。
この味噌汁もイケる。わかめと卵?
俺にとっては味噌汁と言ったら『大根と油揚げ』がダントツ一位だったけど、これは新チャンピオン誕生か?
「このお味噌汁は祖母の味なんです。わかめも乾燥物だし、卵はとき卵入れたかき玉風だけど、優しい味に感じない?」
思い出の味なんだね。『優しい味』ぴったりな表現だよ。
「未菜は朝はご飯党?」
俺は普通に起きてご飯で寝坊した時はパンと缶コーヒーが定番。
「う~ん。仕事の時はご飯の方が力出る気がして、ご飯かな? 休みの日はパンも多いよ! 今ね、ホームベーカリーを買おうと思ってるの!」
「朝から焼きたてパン? いいね~! 俺もごちそうになれるかな?」
「もちろん! 一緒に食べよ!」
「今日は土曜だし、どっか出かけるか?」
「うん! デートだ~!!! どこ行くの?」
「行きたいとこ行くよ! どこ行きたい?」
「一番行きたいのは一哉くんのお家かな?」
家? いいけど、いきなり彼女を呼べるほど綺麗か?
「いいど、何にもないよ」
「いいの! 行ってみたいの」
「じゃ。買い物でもして、俺の家行く?」
行ったら泊るの決定だけどね。
ご馳走になった御礼に食器洗うって言ったのに、いいよいいよとやらせてくれなかった。だから、せめてと食器を洗う未菜の横で、拭くお手伝い。彼女から軽く水を切ったお皿を手渡たされ俺が拭いて食器を重ねる。
なんか、この共同作業っていいよなぁ。
横で真剣な顔してグラスを洗う未菜を見つめる。
やっぱ、かわいいよなぁ。こうして見てると十代にも見える。幼いというか若い。
ん? ……あれ? そういえば感じがいつもとちょっと違うような。……なんか清らかというか、無垢な感じ。
って、ああ! 化粧して……ないのか。
「なぁ、未菜。今ってすっぴん?」
何気なく言ったのだが、動きの止まった未菜はみるみる顔が赤くなり「きゃー! 見ないでー!」と叫び、手で顔を隠し洗面所へ逃げ込んだ。女性に対して訊いてはいけない事だったらしい。
その慌てっぷりすらかわいいくて、笑みが毀れてしまう。
「見せろよ~! すげー可愛いのに!」
やっぱり秋田美人ってホントだな。色白で肌はもちもちして一際大きな目はぱっちりと二重。綺麗なピンク色した唇はふっくらとして柔らかい。
化粧なんて必要ないほどカワイイ。
「ほんと? じゃあ、もう少しナチュラルメイクにしようかな?」
未菜は指で髪を巻きつけ少し顔を隠しながら、少し顔を覗かせ様子を伺っている。警戒している小動物のようで、構いたくなる。
そんな彼女を手招きしてみるとしぶしぶといった感じでバスルームから出てきた。すかさず腕の中に閉じ込め啄むようなキスをする。
「かわいいけど、すっぴんは俺だけに見せてね」
「もう、当たり前じゃない」
朝の爽やかな光の中で輝くような笑顔を見せ、彼女からチュッと唇を合わせるだけのキスをしてくれた。
ああ。もう、幸せだ。まるで、頭の中に祝福の鐘が鳴り響くほど。
しかし、良いことばかりでは無かった。
この日からナチュラルメイクにした未菜が社内で人気急上昇したのだ。
俺のデスクの傍でも「津久野さん、最近変わったな~!」とか「前から可愛かったけど、最近色気もましたよね」とか聞くようになった。
彼女が出来た嬉しさと、焼き餅とが日に日に増殖中。
「俺、今日の飲み会で狙っちゃおうかな~!」って二年後輩の同僚の声が届く。
なんだと~! オイ! 俺の女だぞ!!! そう思っても、顔には出せないし出さない。聞こえているのに聞こえない振りしてやり過ごす。
これが社内恋愛の難しいところ。
「直木先輩、お待たせしました」
「おー。津久野、打ち合わせ午後一だよな。メシ食ってから行くか?」
はい。って微笑む。
内緒の関係だと社内でフラストレーションもたまるけど、こんな風に堂々と昼にデート……じゃなかった同行もできる。
あ! もちろん仕事はちゃんとしてるぞ。
もっと言うと彼女にいいとこ見せたいし、前より成績だっていいんだぞ。
「一哉君、さっき何か怒ってた? 眉間にしわ寄ってたよ」
エレベーターに乗り込み二人きりになると、未菜の表情が和らぎ砕けた口調に変わる。
ふとした瞬間にオフの顔が見れるのは嬉しいけど、さっきの不満は隠せてなかったらしい。ダメじゃん俺。
「あのさ……。今日の飲み会行くのやめない?」
弱気な俺。ヘタレにもほどがあるよなー。情けない。
でも、未菜を狙ってるやつがあちこちにいるのわかってって、しかも堂々と守ってやることも出来ないのに。正直、連れて行きたくない。これが本音。
「駄目です。月城さんの送別会だって仕事の内ですよ」
「そう……だよな」
月城さんは本社へ栄転する同じ課の先輩で、その上大学の先輩でもある。昔からお世話になってるし行かないなんて選択肢はない。分かりきってるけど、気持ちの問題なんだよ。
ライバルが増えてる俺の気苦労も感じてないんだろうなと思いながら、こっそりとため息を吐く。
まぁ、救いとしては超愛妻家で有名だし、そんなに遅くならないってことかな。
「じゃ、別々に抜けて一緒に帰りましょうか?」
未菜は「待ち合わせはどこがいいかなぁ。うふふ、なんかうきうきしますね!」と楽しそうに目が輝いてる。
「一緒に帰るってことは……俺んち?」
「もちろん♪」
あぁ。これだけで元気になった。俺って単純。
「もう、閉じ込めたいくらい好き」って冷静に考えると怖い発言したのに
「じゃあ、ココに鍵かけましょうか?」って俺の左手薬指にキスをした。
マジで……いいの?
Fin