厄介な存在
学校からの帰り道。
私は一人で駅へ向かっていた。
いつもと変わらない道のはずなのに、今日は妙に足取りが重い。
頭の中に、さっきのやり取りが何度も浮かんでくる。
――――あなたみたいに誰でも簡単に信じるような人が私は一番苦手なの。
どうして、あんなことを言ってしまったんだろう。
彼に腹を立てていたわけじゃない。
むしろ、腹を立てているだけなら、あんなに胸の中がざわつくことなんてない。
私はただ、あの人を見ていると落ち着かなくなる。
誰にでも分け隔てなく接して、相手がどんな人間であろうと、まるで昔から知っている友人であるかのように振る舞う。
それが彼の長所なのだろう。
けれど、私にはどうしても理解できなかった。
人は、そんなに簡単に他人を信じられるものなのだろうか。
相手がどんな人間なのか。本当は何を考えているのか。自分に向けられた言葉に、どんな意図が隠されているのか。
考えれば考えるほど、簡単に答えが出るものではないはずだ。
それなのに、彼はいつだって迷いなく人と向き合っている。
まるで、疑うことそのものを知らないみたいに。
「……馬鹿みたい」
気づけば、そんな言葉が口からこぼれていた。
誰に向けたものなのか、自分でもよく分からない。
彼に対してなのか。それとも、そんな彼のことをいつまでも考えている自分に対してなのか。
私は小さく息を吐き、駅へと続く道を歩き出した。
考えるのはやめよう。
あの人がどんな人間であろうと、私には関係ない。
そう自分に言い聞かせたところで、頭の中から彼の顔が消えてくれるわけではなかった。
むしろ、思い出そうとしたわけでもないのに、彼の何気ない表情や言葉が次々と浮かんでくる。
……本当に、面倒な人。
私はもう一度、心の中でそう呟いた。
*******************
電車に揺られながら、窓の外を眺める。
流れていく景色は、いつもと何も変わらない。
見慣れた建物。夕日に照らされた道路。歩道を歩く人々。
誰もがそれぞれの目的地に向かい、誰かと話し、誰かを待ち、誰かと帰っていく。
その中で、他人を信じるということに、どれだけの人が疑問を持っているのだろう。
私は昔から、人の言葉をそのまま受け取ることが苦手だった。
優しい言葉をかけられれば、その理由を考える。
親切にされれば、何を求められているのかを考える。
笑顔を向けられれば、その笑顔が本物なのかを考える。
そうしなければ、いつか自分が傷つくことになる。
少なくとも、私はそう思っていた。
実際、信じていたものが簡単に崩れていくところを見てきた。
信頼していた相手の裏切り。何も知らないまま変わってしまった日常。昨日まで当たり前だったものが、ある日突然、当たり前ではなくなること。
一度そういう経験をすれば、誰だって慎重になるはずだ。
相手を疑うことは、決して悪いことではない。
むしろ、自分を守るためには必要なことだと思う。
なのに。
どうして彼は、あんなにも簡単に人を信じられるのだろう。
彼だって、今まで一度も裏切られたことがないわけではないはずだ。
誰かに傷つけられたことも、期待を裏切られたことも、きっとある。
それでも彼は、人と関わることをやめない。
誰かが困っていれば手を差し伸べるし、頼られれば応えようとする。
それが自分にとって損になるかどうかなんて、あまり考えていないように見える。
理解できない。
理解できないからこそ、目が離せない。
そこまで考えて、私は小さく首を振った。
違う。
気になっているわけじゃない。
ただ、理解できないものをそのままにしておくのが嫌なだけだ。
それだけ。
そう結論づけたところで、ちょうど電車が駅に到着した。
扉が開く。
私は周囲の人に続いてホームへ降りた。
*******************
家に帰ると、いつものように静かな空気が迎えてくれた。
「ただいま」
返事はない。
母はまだ帰っていないらしい。
靴を脱いで部屋に入り、鞄を置く。
制服のまま椅子に腰かけると、ようやく一日の疲れが押し寄せてきた。
別に、特別なことがあったわけではない。
授業を受けて、昼休みを過ごして、放課後を迎えただけ。
それなのに、今日はやけに疲れている。
原因は分かっている。
成瀬悠人。
同じクラスの男子生徒。
成績は特別優秀というわけでもなく、運動だって何でも一番というわけではない。けれど、周囲への気配りができて、人の輪の中に自然と溶け込んでいく。
誰かが困っていれば気づくし、場の空気が悪くなれば、それをどうにかしようとする。
特別な能力があるわけではない。
それなのに、彼の周りには人が集まる。
私には、それが不思議だった。
人間関係なんて、もっと複雑なもののはずだ。
誰かと仲良くなれば、別の誰かとの距離が変わる。誰かに優しくすれば、それを見ていた人間が勝手な意味をつける。
本人にそんなつもりがなくても、周囲は好き勝手に解釈する。
それが人間関係というものだ。
だからこそ、私は必要以上に他人と関わらないようにしてきた。
誤解されるくらいなら、最初から近づかなければいい。
期待されるくらいなら、何も与えなければいい。
信じて裏切られるくらいなら、最初から信じなければいい。
そうすれば、少なくとも自分の知らないところで何かが壊れることはない。
それなのに、彼はその逆を進んでいる。
誰かを信じ、誰かに近づき、誰かのために動く。
そして、それを特別なことだとも思っていない。
彼にとっては、それが当たり前なのだろう。
だからこそ、私の言葉もきっと理解できない。
どうして人を信じられないのか。
どうしてそんなに疑ってばかりいるのか。
きっと、そんなふうに思っている。
……別に、理解してもらいたいわけじゃない。
私は椅子から立ち上がり、制服を脱いだ。
これ以上考えても仕方がない。
明日になれば、またいつも通りの学校生活が始まる。
彼と顔を合わせたところで、何かが変わるわけでもない。
そう思いながら着替えを済ませ、机に向かった。
鞄から教科書を取り出す。
明日の授業の予習をしようとノートを開いた、そのときだった。
ふと、昼間のやり取りが脳裏をよぎった。
正確な言い回しは覚えている。
けれど、それ以上に印象に残っているのは、彼の表情だった。
私の言葉を聞いても、彼は怒らなかった。
傷ついたようにも見えたけれど、それを私にぶつけようとはしなかった。
ただ、私の言葉を受け止めようとしていた。
どうして。
どうして、そこで怒らないのだろう。
どうして、私のことを嫌いにならないのだろう。
普通なら、あんなことを言われたら距離を置くはずだ。
少なくとも、私ならそうする。
自分を拒絶する相手に、わざわざ近づこうとは思わない。
それなのに、彼は違った。
その違いが、私には理解できなかった。
「……本当に、何なのよ」
誰に聞かせるでもなく呟く。
返事をする人間は、もちろんいない。
私はノートに視線を戻した。
文字を追う。
一行目を読み、二行目を読み、三行目に進む。
けれど、内容が頭に入ってこない。
結局、私は教科書を閉じた。
今日はもう、勉強をする気分ではなかった。
*******************
翌朝。
教室に入ると、いつもと変わらない光景が広がっていた。
友人同士で話している人。机に突っ伏して眠っている人。提出物を慌てて仕上げている人。
私は自分の席に鞄を置き、窓の外に目を向けた。
いつも通りに過ごそう。
昨日のことは、もう考えない。
彼と必要以上に関わるつもりもない。
そう決めていた。
「おはよう」
不意に、声が聞こえた。
顔を向けると、成瀬くんがクラスメイトに挨拶をしていた。
相手は眠そうな顔をしながらも、軽く手を上げて応じている。
彼はそれ以上何かを話すでもなく、自分の席へ向かった。
本当に、何でもない光景だった。
挨拶をして、返事をもらって、それで終わり。
たったそれだけのこと。
なのに、私はなぜか、そのやり取りを目で追っていた。
彼は席に着くと、鞄から教科書を取り出した。
そして、近くの席にいた男子生徒に何かを尋ねられ、すぐにそちらへ顔を向ける。
どうやら、今日提出する課題についての話らしい。
彼は相手の話を聞き、机の上のノートを開いて説明を始めた。
相手は何度か頷き、最後には納得したように笑った。
成瀬くんも笑い返す。
それだけだった。
私は視線を外した。
何を見ているのだろう、私は。
彼が誰と話そうと、誰に親切にしようと、私には関係ない。
昨日、あれだけ考えたのだから、もう十分だ。
そう思ったのに。
「篠森さん」
名前を呼ばれ、肩がわずかに跳ねた。
振り向くと、クラスメイトの女子が立っていた。
「昨日の数学の課題って、どこまでやった?」
「最後までだけど」
「えっ、全部? よかったら、分からないところ教えてくれない?」
「別にいいけど」
私はノートを取り出し、彼女に見せた。
問題の解き方を説明すると、彼女は何度も頷きながらノートを写していく。
「ありがとう、篠森さん。助かった!」
「どういたしまして」
彼女は嬉しそうに笑って、自分の席へ戻っていった。
私はノートをしまう。
別に、大したことではない。
聞かれたから答えただけ。
困っているようだったから、説明しただけ。
そこに特別な意味なんてない。
それでも、彼女が最後に見せた笑顔を思い出すと、少しだけ悪い気はしなかった。
……何を考えているのだろう。
私は小さく息を吐いた。
窓の外では、朝の光が校庭を照らしていた。
今日も一日が始まる。
昨日と同じように、何も変わらない一日が。
そう思っていた。
少なくとも、そのときの私は。
教室の前方から、成瀬くんの声が聞こえた。
「それなら、俺も手伝うよ」
誰かに頼まれたのか、自分から申し出たのかは分からない。
ただ、彼は当たり前のようにそう言っていた。
私はそちらを見なかった。
見ないようにした。
彼がどんな人間なのかなんて、知る必要はない。
信じる必要もない。
そう思っているはずなのに。
昨日からずっと、頭の片隅に残っている疑問があった。
————もしも
もしも、彼の言葉に裏がなかったとしたら。
もしも、彼が本当に、誰かを信じることを恐れていないのだとしたら。
そのとき、私は彼をどう思うのだろう。
答えは出なかった。
私は机の上に置いた手を、そっと握りしめた。
考えるのはやめよう。
今はまだ、何も分からないのだから。
ただ一つだけ、確かなことがある。
成瀬悠人という人間は、私にとって、少しばかり厄介な存在になりつつあった。




