言葉、交わして
○
土曜日。真理が目を覚ましたのは、昼前だった。
寝坊した――が、今日は臨時休校であることを思い出して安心する。同時に、昨日の出来事も脳裏に蘇ってくる。
――夢じゃ、ないんだよなあ。
真理は部屋着のまま一階の洗面台に向かった。既に両親は起きていて「大丈夫?」といつになく心配そうに問いかけてきた。事件の現場にいたことで、警察から事情聴取を受けたことを、父も母も知っている。
「平気だよ。今はまだちょっと眠いだけだから」
顔を洗ってさっぱりしてから自室に戻る。携帯を見てみると、昨夜に続き友人からの着信やメールが何件か入っていた。そのうちの一つに、真理は目が留まった。
北条仁美からの着信が入っている。午前七時頃のものだから、恐らく昨日の真理からの電話に気づいたのだろう。
少し迷った挙句、真理は仁美に電話を返すことにした。ベッドに寝転がりながら、携帯を操作する。
数回のコールの後、聞き慣れた――しかし随分久しく感じる声が聞こえてきた。
「もしもし、真理か?」
「あ、仁美先輩!」
「おはよう真理、さてはついさっき起きたな?」
彼女の声が聞けただけで、真理は無性に嬉しくなった。
「はい。昨日は疲れてたみたいで……」
「そうか、それもそうだな……でも、声を聞く分には元気そうで何よりだ」
「はい。先輩と話してるおかげです」
仁美の言葉は、両親や他の友人からの腫れ物に触れるような様子見や励ましのものとは違う。いつもの彼女だ。そうして接してくれることが、何よりも嬉しい。
「恥ずかしいことを言ってくれるじゃないか。日頃からおっぱいを揉んでいた甲斐があったよ」
「もう、そうじゃないですー」
「冗談だよ冗談。可愛いなあ真理は。可愛い可愛い」
ひとしきり笑い合ったあと、仁美の声音が少しだけ変わった。
「ときに真理、今日会えたりするか?」
「え、今日ですか!?」
事件の翌日ということもあり、臨時休校の今日は外出を自粛するようにという報せが昨夜連絡網で回ったはずだ。そのことを伝えると、仁美は「知っているさ」と当然のように答えた。
「しかしだな真理、私も恥ずかしいことを言わせてもらうと、君のことが心配で心配でたまらないのが本音なんだ。真理、私にその元気な姿を見せておくれ」
最後の方は妙に芝居がかった口調になっていた。
だが、これも彼女なりの照れ隠しなのかと思うと、それはそれで可愛らしい一面に思えた。それに、日頃世話になっているのだから、頼みの一つくらい聞いてやりたいという気持ちもある。
「わかりました、お父さんとお母さんには内緒で会ってあげます」
「本当かい! いやあ、両親に内緒で逢引だなんてドキドキするなあ。それに、要眞澄君とやらにも申し訳ない」
「先輩、電話切りますよ?」
「待ってくれ謝る!」
「本当ですか?」
「ごめん。会って話そう。な? な?」
「わかりましたー。それで、いつ頃にします?」
「そうだな。両親に怪しまれないためにも、お昼ご飯は食べてきた方がいいだろうし、君の家の近くの方がいいだろうな」
「先輩の方は大丈夫なんですか?」
「問題ない。父も母は今日も仕事なんだ。確か君の家の最寄り駅は、南砂町だったかな?」
「そうですよ」
「駅のすぐ近くに、少年野球用のグラウンドがあったよな。あそこにしよう」
「A面B面ですか? いいですけど、どうしてあんなところで?」
南砂町の駅前には、大きなグラウンドが二つある。一つはC面と言って、現在はどこかの小学校のプレハブが建てられているはずだ。そのC面と、並木道を挟んで反対側にあるのがA面B面と呼ばれる長方形のだだっ広いグラウンドだ。
対角線上に、野球用のフェンスやマウンドなどが簡易ながら拵えてあり、普段は少年野球のグループが試合に利用している。真理は二つある野球用のグラウンドのどちらがA面でどちらがB面なのかは知らない。
今日は平日だし、利用している者もいないはずである。真理達の学校で事件が起こったこともあり、子供たちもいないだろう。
「我々とて、あまり目立つわけにもいかんだろう? 本当なら自習してなければいけないところなんだ。まあ、その方がそそるがね」
「そそるってなんですか……」
「燃える、と言った方が良かったかな?」
「結局変な意味っぽいじゃないですか!」
その時、部屋のドアがノックされた。咄嗟に真理は枕の下に携帯を突っ込んだ。
「真理、どうかしたの?」
声と共に、母が扉を開けて顔を覗かせた。
「ううん、なんでもない。それより私、お腹空いちゃった」
努めて明るく笑ってみせると、母は安心したのか「待ってて、すぐ作るから」と笑みを返してドアの向こうに戻っていった。
階段を下りる足音を聞いてから、携帯を取り出す。
「どうした真理、浮気か?」
「お母さんですよ。外に出るのがバレたら会えなくなっちゃいます」
「なるほどね。君もいい感じに賢くなってきたねえ」
「それ、褒めてます?」
「勿論だとも。では、私もそろそろお昼にしようかね。時間は……そうだな、二時でどうだ?」
「わかりました、では二時頃にA面B面で」
「楽しみにしているぞ。じゃあな、またあとで」
「私も楽しみにしてます、先輩」
通話が切れて、真理は大きく深呼吸した。
仁美の声を聞けただけでも嬉しかったのだから、会って話せるともなれば言葉にならない。
彼女になら、話せる気がする。真理は昨夜考えていたことを思い返した。自分だけで抱えるには、少々荷が重たい問題だ。
少し頼りすぎかなとも思ったが、真理は早速下準備にとりかかった。両親に気づかれないようにするためには、二階のこの部屋からこっそり出るしかない。
○
学校の屋上から抜け出し、眞澄は地下鉄の駅を目指した。真理の家の近くで起こった自動車事故の現場に向かうために。
『アンチドゥーム』の隠れ蓑であるマンションには、今戻るわけにはいかない。既に、自分が何の断りもなく外出したことは知られているだろう。一度切っておいた携帯の電源を入れてみると、未読メールや着信履歴がたっぷり溜まっていた。
着信が入る。晴香からだ。さすがに、これ以上無視するわけにもいかない。
「もしもし」
「眞澄! 今どこにいるの!?」
悲鳴のような声が耳元で響き、眞澄は思わず携帯から耳を離してしまった。あんなに焦っている晴香の声を聞くのは、初めてだった。恐る恐る耳を当て直すと、彼女は早口で今何処にいるのかとまくし立ててきた。
しかし眞澄にとって、その切迫感はひどく曖昧なものに感じられた。電話越しだからではない。
蓮の話を聞いた今、『アンチドゥーム』と彼との間には大きな溝が生まれていた。溝は、晴香との温度差を感じれば感じるほど開いていく。
「勝手に外出したことは、謝ります」
「そんなこと今はいいから! 無事なのね?」
「はい。ご心配をおかけしました」
「……眞澄君、様子が変よ? 何があったの?」
晴香は鋭かった。声の調子だけで、異変に気づいたのだ。そんな彼女の勘の良さに微笑むことができるほど、眞澄の心は冷え切っていた。
「……真田蓮から、四年前のことを聞きました」
その一言で十分だった。耳元に、沈黙が訪れる。
「そう、だったのね」
辛うじて、その言葉だけが聞き取れた。他の者達も近くにいるのだろう。彼女の声に混じって、ざわつきが聞こえてくる。
「どうして、ちゃんと話してくれなかったんですか?」
「それは――」
晴香が言葉に詰まっている。それも珍しいことだった。
眞澄は彼女のことを問い詰めながら、この後どうするべきかを悩んでいた。激昂し、乱暴な言葉をぶつければいいのだろうか。このまま冷たさを保って接するという選択肢もある。
だが眞澄には決められなかった。これからどうすればいいのかを彼女に聞くなんて、もっての外だ。
「……そうね、眞澄君。あなたには隠し通すつもりでいたことは認めるわ。『アンチドゥーム』の前身は、Mファージをばら撒いた研究所そのものよ」
「そういうことは全て、真田蓮から聞きました。今更確認するつもりはありません」
「真田君は、嘘を吐かない人だからね」
「俺も、そう思います」
しばらくの間、二人とも言葉を交わさなかった。眞澄は通話を切ることなく地下鉄の駅に辿り着き、切符を買って改札を通った。電車は、数分でホームにやってくる。
「それで、あなたはこれからどうするの?」
ようやく晴香が口にした問いが、眞澄の胸を強く打った。
「私達があなたに隠し事をしていたことは認めるわ。だから、引き留めはしない。しばらくの間は監視がつくでしょうけど、一年も経てば普通の高校生として生活できることを保証します」
言葉遣いを改めた晴香に、眞澄は少し戸惑いを覚えた。自分だけが広げていたはずの溝を、彼女が広げたような気がした。
何か言おうと口を動かしているうちに、電車が甲高いクラクションの音とともにホームへと滑り込んでくる。
眞澄の目の前で、電車のドアが左右に開いた。ホームで待っていた者、電車から降りる者、立ち尽くす彼を迷惑がるような目つきで睨む者――誰もが横を通り過ぎていく。当たり前のように。
ドアが閉まります、というアナウンスを聞いても、実際にドアが閉まりかけても、眞澄はその場から動けなかった。ドアが完全に閉まったことに、ほっとしたくらいだった。
その瞬間、昨夜の如との話を思い出した。ガツン! と頭を打たれたような衝撃が、脳内で反響した。
――あのときと同じだ。眞澄は眩暈に襲われた。
如に同行を断られたときも、心のどこかでほっとしている自分がいなかったか。事実、いたのだ。
駅のホームは電車が過ぎ去った後のせいか、閑散としていた。近くに人の気配はない。
だから、眞澄のすすり泣きが、悲しいほど響き渡った。
「俺、には……決められません…………まだ、決められません………………」
「眞澄君……」
今までせき止めていたものが、眞澄の中に溢れ出した。抱えきれなくなったものが涙となって、頬を流れていく。
「俺、このままが続けばいいって、思ってたんです。世界の平和のために戦う自分がいて、でも、戦わないでいられるような、準備だけしていたいって。それだけで特別で、他の人とは違うんだって……」
「…………」
「甘えてたんです、ずっと、ずっと」
――本当は、戦いたくなかった?
それ以上はもう、言葉にならなかった。徐々に人が集まってくることも気にせず、眞澄はその場にうずくまって、泣いた。泣き続けた。
己の弱さに、愚かさに、強がりに、惨めさに。
二本目の電車が来て、過ぎ去った頃、ようやく落ち着いてきた。電話は、まだ繋がっていた。途中からは自分でも何を言っているのかわからなかったので、急に恥ずかしくなってくる。
「眞澄君、それは私達も同じ」
「え?」
晴香の声は、まるで彼を包み込むかのように届いた。
「むしろ、私達の方が性質が悪かったんじゃないのかなあ」
「どういう、ことですか」
眞澄には、彼女が何のことを言っているのか掴めない。
「真田君から話は聞いたんでしょう? 考えてもみなさい。Mファージが流出したからって、森の中よ? 『アンチドゥーム』が発足したとはいえ、当時は私も含めて誰もが『他の人間に感染するはずがない』って思ってたわ。いいえ、それ以上に『そんな事態にならなければいい』って、願ってた」
「そう、だったんですか……」
「当たり前よ。この目で確かめるまではね。その日を境に、何人もの構成員が『アンチドゥーム』を去っていった。改良したMファージの適合者だって、半分以上がいなくなってしまったの。これは、真田君も知らないことよ」
眞澄は黙って晴香の話に文字通り耳を傾けた。蓮の話した真実には、まだ続きがあったのだ。
「でも、組織の長である正元教授は、咎めようとはしなかった。私達もね。彼らにだって、選択する自由はあるから。結果的に、眞澄君のような人を増やしてしまうことになったけれど。だけど、あなたにもあるのよ。その自由が。これからどうするのかを、悩んで悩んで悩み通す時間が」
「悩む、時間……」
高校に通わせてくれたのは選択肢の数を増やすためだったのかと、眞澄はようやく気がついた。
「そう。どれだけ時間がかかってもいい。自分のことは、自分で決めるのよ」
まるで母親のような口ぶりだと、眞澄は思った。それが、とても温かくて、嬉しかった。
「……はい」
眞澄は立ち上がった。もうすぐ電車が来る。乗らなければ。決めなければ。
「ありがとうございます……晴香さん」
「ふふ、どういたしまして――あ、今雪岡さんに替わるわね」
「へ?」
「眞澄! こっちに心配かけるのは今日で最後にしなよ!」
急に電話越しの声の調子が変わった――如だ。
「す、すいません」
「まあいいけどさ。私からも一つだけお節介、焼いていい?」
「は、はあ……」
昨夜の真剣な面持ちが想像できないほど、普段通りの如の態度に、眞澄は戸惑った。
「んーっとね、眞澄が今のままでいるんなら、もう戦わない方がいいよ。それだけ。じゃっ」
眞澄が言葉を返す前に、電話は切れてしまった。
しかし、如の言葉には昨夜の突き放したような感じがしなかった。
選択に、悩む自由――如もまた、それを尊重してくれているのかもしれない。眞澄は、顔が熱くなるのを感じた。
電車がやって来る。ドアが開き、何人かの乗客が降りてきた。
眞澄は、一歩前に踏み出した。行き先に変更はない。彼女と――岸谷真理と話がしたい。
眞澄の口元には、笑みが戻ってきていた。