要奈津子 3
その日の夜、蓮は再び奈津子を呼び出した。今度は屋上にだ。念のため、昇降口の出入り口は閉めておく。
昼間が快晴だったこともあり、夜空に月が煌々と輝くのを邪魔するものは何もない。おかげで、手元に明かりがなくとも、十分に互いの顔を確認できた。
二人はその場に腰を下ろして、顔を見上げた。
「お月様も久しぶり」
「綺麗だな」
「うん。私とどっちが綺麗?」
「え?」
「即答してよ、バカ」
そう言って、奈津子は頬を膨らませた。
蓮はしばし、その様子に見惚れていた。久しぶりだった、冗談めかしてくすくすと笑う彼女を見るのは。
同時に、昼間如に投げかけられた質問が脳裏を掠める。
――真田先輩は、どうしてあの人――要先輩と今も付き合ってるんですか⁉
その問いには即答できる。奈津子のことを愛しているからに他ならない。今も蓮は、彼女の持つ魅力に惹かれ続けている。
――だが、彼女はどうして俺なんかと?
「どうしたの、蓮?」
思いつめているのを悟ったのか、奈津子は俯いた彼の顔を覗き込んだ。彼女の瞳に見つめられると、蓮は隠し事ができなくなる。と言うより、彼女にだけはつい話してしまうのだ。彼女になら話しても大丈夫だという、安心感がある。
「別に大したことじゃ、いや、大したことなのかな……」
「どちらにせよ、聞きたいなあ。私に関係あるんでしょ?」
鋭いな、と蓮は思う。こういう時の勘の良さは、人一倍だ。そういえば昨日は、立場が逆だったことを思い出す。互いに深く干渉しないといっても、実はこうして幾度となく繋がり合っていたのかもしれない。それはそれで、悪くなかった。
「昼間のことだよ。屋上から降りたら、雪岡がいただろ。そのときの話」
「ああ、如ちゃんね。告白でもされちゃった?」
「馬鹿、どうしてそうなるんだよ」
蓮が語気を強めて言うと、奈津子はひどく驚いた顔をした。
「まさか気づいてなかったの? 如ちゃん、蓮に惚れてるんだよ?」
「何だって?」
転じて、蓮は素っ頓狂な声を上げた。雪岡が惚れてる? 感づきもしなかったことを、何故奈津子がわかっているのか、彼には不思議でならない。
「本当に気づいてなかったんだ……じゃあ、私の嫉妬も気づかなかったの?」
「ええっと、それはだな……」
そういえば、雪岡に勉強を教わりに行ってくると告げると、決まって彼女の反応は芳しいものではなかった気がする。その後も、どこを教わったのか、ちゃんと身についているのかをしつこく問い質してきた。あれが嫉妬だったのだろうか。
「気づいてた。それは気づいてた」
「嘘ばっかり! 私は蓮が卒業できなかったらどうしようと思って認めてたのに! 罪悪感もなかったのね!」
奈津子は蓮の頬を摘まんで引っ張り上げた。しかし、力は込められていない。それどころか、彼女はどこか楽しそうだ。
「いーいー」と言いながら上下左右に引っ張り回されること三十秒。ようやく蓮は解放された。
「まあ、過ぎたことだから仕方ないけど」
そう言って、彼女は蓮との距離をさらに縮めてきた。肩も二の腕もぴったりとくっつけた彼女は、蓮の肩に頬を寄せる。
「蓮はこうして、私の傍にいるから」
その言葉に、蓮は心臓が高鳴った。その脈動が外に漏れてしまわないか不安になるほどに。
「そのことに近いんだけどさ」
蓮は緊張した面持ちのまま、切り出した。
「今更こう言うのも、なんか変なのかもしれない。でも聞いておきたいんだ」
「うん?」
「どうして、奈津子は俺の傍にいてくれるんだ?」
思い切った発言だと、蓮は我ながら感じた。そして言ったそばから、早くも後悔し始めていた。
言わなくてもよかったと。今でなくてもよかったと。
奈津子は少々面食らったようだった。その表情は、丁度月明かりの陰に隠れてよく見えない。
「……理由、欲しい?」
奈津子は察しがよかった。言葉にしていない蓮の気持ちも、しっかりと汲み取ってくれる。彼女の言葉に、彼は黙って頷いた。
「理由かあ……そんなの必要ない、じゃ納得しなさそうだね」
蓮は意地悪だと自覚しながら、頷きを返す。その理論が通用するのは、自分で言うときだけだ。相手は納得してくれない。
卑怯だな、と蓮は思う。自分だって、まともな理由らしい理由を用意できるわけでもないのに。あまりにも図々しい。
「そうだなあ…………これで納得してくれるかはわからないけど、あるよ」
ある。はっきりとそう言った奈津子に、蓮は目を見張った。
「前に、私に言ってくれたことがあるでしょ? 私にはこう、自分でも気づかないような魅力があって、蓮はそこが好きなんだって」
「あ、ああ」
改めて誰かの口から聞くと、随分と恥ずかしいことを言ったものだ。蓮は頬を掻きながら目を逸らした。
奈津子は更に顔を寄せてくる。
「それと同じ。私も、蓮が自分じゃ気づいていないような、そんなところが好き。口では上手く言えないけど、蓮が私の中に何かを感じているように、私も蓮の中に何かを感じている。それって、すごく素敵なことじゃない?」
「…………」
「って、言われてもよくわからないでしょ? 私だって、蓮に言われたときはよくわからなかった。でも、蓮がそう言ってくれたことは、とっても嬉しかったよ」
「……そうか」
なら、同じだ。言われてもよくわからないが、奈津子にそう言われたという事実が、何よりも蓮の心を満たしていた。その何かは、むしろ自覚しない方がいいのかもしれないとすら思えた。
「ありがとう」
蓮は寄りかかってきていた奈津子を、両腕で抱きしめた。
「ん…………」
奈津子は突然の抱擁に一瞬身を震わせたが、すぐに彼へと体を預けた。
翌日から、助手達の態度は変わった。
だがその変化は、蓮が望む方向とは違っていた。
彼らは、蓮のことも避け始めたのだ。辛うじて言葉を交わす程度の仲だった者達も、奈津子に向けていたような視線を浴びせてくる。
唯一、如だけが申し訳なさそうにこちらを見ることがあったものの、それだけだ。助け舟は、期待できない。
蓮の元には、相変わらずサンプルが渡された。それが余計に問題だった。いっそ奈津子と扱いが同じになれば、慰め合うこともできたはずなのだ。
「ごめんね、なんか蓮にも迷惑かけちゃって」
彼女が一人で責任を感じる必要など、どこにもない。
いくら言い繕っても、その苦しみから彼女を救ってやることができない。
恐らくは、如が先日のことを他の皆に話したのだろう。それが、悪い方向に受け止められてしまったのだ。どういう誤解が生まれたのかは知らないが、無暗に解こうとすれば余計に奈津子を傷つける羽目になる。
蓮はこれといった行動を起こせないことが、何よりも辛かった。現状維持しかない。雁字搦めにされたまま、何をするでもなく、じっと耐え続ける。そしてそれ以上の息苦しさを、奈津子は味わっている。
自分が除け者にされるのは構わないし、むしろ望むところだった。だがそのことに奈津子が責任を感じるなら、話は別だ。
何事も知らずに淡々とサンプルを渡してくる教授の行動が、嫌がらせのようにしか思えない。奈津子のことについても、単なる嫌がらせなのだろうか? にしては回りくどすぎる。もっと別の方法も取れたはずだ。
考え事をしていると、ついつい顔を顰めてしまう。ふと気づいたときの、奈津子の申し訳なさそうな目配せが胸を刺す。
――研究がさっさと完成すればいい。蓮は次第に、そう考えるようになっていった。
そうすれば、彼女もこの息苦しさから解放される。そのために自分ができることは、より早くより正確にサンプルへの実験を行っていくことだった。
蓮の願いが行き届いたのか、遂に助手の行う全ての実験で基準値をクリアした個体が生まれた。研究が開始されてから、およそ四ヵ月が経った頃のことだ。
しかしそれで終わりではない。今度は動物を相手に実験しなければならない。蓮は心理学を主に専攻していたため、実験用動物という存在が少しだけ苦手だった。実験のためだけに用意された動物――彼らに今から与えられるウイルスは、ある程度どんな効果が出るのか知れているとはいえ、死の危険すら孕んでいる。動物達に罪はない。
他の助手達も一様に様子を窺ったまま膠着状態が続いたが、それを率先して破ったのは如だった。一番年下の彼女が、実験用のネズミ相手にウイルスを投与したのを見て、他の者達も続かざるを得なくなった。
蓮の元に渡されたのはR1からR6という名称を与えられたウサギ達だった。それぞれの飼育環境は違っており、檻の大きさから餌の量、室温まであらゆる項目でストレスの溜まる度合いをコントロールさせてある。
開発中のウイルスは、ストレスのような心理的マイナス要素をも取り除く効果がある、とされている。最もストレスの溜まりやすい環境で飼育されているR6にまずウイルスを投与し、その後の経過を観察する。
勿論、ウイルス注射から事後観察まで全てが一貫して助手一人の仕事である。それだけでなく蓮達には、この動物達の餌やりや清掃も任されている。本来の研究所ならば、技官や清掃員などを雇うような仕事さえ、彼らが担当しなければならない。
だが、ここでの暮らしが慣れてきた彼らにとって、それは苦痛でもなんでもなかった。完全に仕事の一部として身に染みついている。
――この動物達に対する罪悪感も、次第に薄れていくのだろう。
蓮の予想は、当たった。
罪悪感は日に日に薄れていき、ウサギの皮膚を注射針が貫く独特の手応えにも、無感動になっていった。
それから更に二ヶ月が経つと、動物実験も終わりが見えてきた。蓮に渡されたウサギのナンバリングも50を超えている。渡されたのが一週間前、今回の実験が成功すれば、それで最後になるだろう。動物実験を繰り返していく間も、教授の開発したウイルスは更に進化を遂げていた。効果の具合も目に見えてわかるほどになり、最近では助手達の顔も奈津子を除いて朗らかだった。
動物達に対する感情が薄れていく間、奈津子にも変化が訪れていた。頬はこけ、目の下にくまを作っている。精神的な疲労が、肉体にまで影響を与え始めているのだ。最近では食指も動かないらしく、食事を半分以上残している。風邪を長引かせて一週間以上寝込んだこともあった。明らかに無理をして拵えた笑顔を見るのも辛いほどだった。
さすがに他の助手達も、奈津子の状態に非難の目を浴びせるものは少なくなった。如は一度だけ謝罪しにきたこともあったが、奈津子は「仕方ないよ」と彼女を許した。変化といえばそれだけで、奈津子の味方は相変わらず蓮だけしかいない。
そしてある日、遂に教授が研究室から姿を現した。食事休憩の時間ではない。ということは――
一瞬、どよめきが起こった。が、すぐに教授の視線によって沈黙する。
改めて教授の顔を見た蓮は、確かに父親面ではないなと評価を改めるようなことはしなかった。だが、およそ教授らしい肉体をしてはいない。
彫りの深い顔立ちに、相応の皺が刻まれているが、身体の衰えはあまり感じられない。白髪と白髭を蓄えてもなお真っ直ぐに伸びた背筋からは、立派な大樹を連想させた。決して細くない腕に、筒状のガラスケースを抱えている。中は見覚えのある色の培養液で満たされている――研究成果だ。
皺の奥の眼光は鋭く、見る者を委縮させる。教授の目には、自分を含めた助手達が実験動物と同じように見えているのかもしれない。
「諸君らの働きぶりもあって、無事に人工ウイルスMファージのプロトタイプが完成した」
そこで再び、周囲の助手達がどよめく。
その中の一人が、教授に問うた。蒲生晴香だ。
「では、研究は完成したのですね?」
「まだだ」
きっぱりと言い放つ教授に、晴香やその他の者達も喜ぶべきタイミングを見失い、ぴたりと止まった。
「まだ最後の実験が残っている」
「と、言われますと……」
教授は一呼吸おいてから、じっとりと視線を左右に走らせた。
「これより、Mファージの人体投与実験を行う」
その目が奈津子を射抜いたと、彼女の隣にいた蓮は直感した。
同時に、どうして教授が、要正元が奈津子をこの研究所に閉じ込めていたのか……その目的を、理解した。