第二話 隠れ鬼 その5
「一旦戻ろう。相馬っ!!」
神狩の声に、驚きと恐怖が混じる。
弾かれたように振り返れば、ゆらりと動く影が月の光を背にして闇の中にそそり立っていた。まるで闇から生まれ落ちた異物のような何かが、音も気配も無く何かを振りかざす。
「逃げてっ!!」
誰かの叫びに、僕の足が無意識に呼応した。
地を蹴って大きく頭を反らす。顔面すれすれに鋭利な光線が空を裂いた。僕は咄嗟に持っていた箒の柄を振りかざす。瞬間、真横から衝撃波のような一撃をくらい、箒が根こそぎ宙へ飛んだ。大鎌のひと振りでいとも容易く薙ぎ払われたのだ。
鬼がそそり立っていた。
暗闇と同化したその肢体を自由にしならせて僕のこめかみに迫る。
「ハァァァァ」
鬼が大鎌を振り上げるよりも先に、僕の前に誰かが躍り出た。
神狩だ。モップの長い柄を駆使して鬼の首元目掛けて強烈に突き上げる。
「逃げろっ!」
神狩の渾身の攻撃に、鬼は倒れるどころか揺らぎもしなかった。
いらっしゃい。
と、逆手が動く。
神狩の首を捕まえ猫のように持ち上げて、勢い良く窓ガラスにぶち当てる。
「いやぁぁぁぁぁぁっ!!」
ガラスが散在する。
まるで折れた菊の華のように、神狩の頭が鬼の手の中でだらりと重力で沈んだ。
「のやろぉぉぉぉ!」
逃げるという選択肢は、頭からかき消えていた。
箒を拾い、神狩同様、影の背に無我夢中で突っ込んでいく。狙うは頭部。その一点。
届くか届かないかの距離で、右肩に強烈な衝撃が走った。思いもしなかった場所から打撃を受け、僕の身体は紙屑のように軽々と宙を舞う。
終わりだ、と確信した。
馬鹿みたいに廊下を転がりながら、僕は絶望を受け入れた。
敵うわけがない。
こんな、付け焼き刃な攻撃が当たるはずが無かったのだ。
身体中が痛みで悲鳴を上げている。
そろそろ、最期の痛みが襲ってくる頃だろう。
誰かの悲鳴が聴こえた。
頭上からむせび泣くような、途切れとぎれの声が聴こえてくる。
「相馬くんっ、早く立って!!」
急速に、意識が引き戻される。
僕の頭上に腰を折り、身体を揺さぶっていたのは、椿姫だった。
椿姫の利発な大きな瞳から涙がこぼれ、僕の頬を伝っていく。
まだ、逃げて無かったのか?
それよりどうして、僕はまだ生きているんだ?
鬼は―――?
顔を向けるまでも無かった。
鬼の腕に食らいつき、己の身体を使って鬼を決して逃がすまいと足止めしている神狩の姿が目に映った。
「3階だっ!早っ、逃げろぉぉっ!」
声の限り絶叫する神狩に、僕は即座に飛び起きる。
馬鹿か、僕は。
「助け出すっ!!」
神狩にではなく、自分自身に応える。
何か、武器になりそうなものは!
夢中で周囲を探る。
弾かれた箒とモップは、鬼の足元に散らばっていた。
逃げ出す理由を探すな!
何も考えるな!
戦え!
戦え!
戦え!
心を奮い立たせ、身一つで飛び出そうとした僕を、後ろから誰かが押さえつけた。
「つば、き・・?」
椿姫はもう泣いてはいなかった。僕を見つめ、確固たる意志を通すように首を横に振るう。
「神狩くんは・・もう、走れない・・」
自分自身の言葉に、堪え切れないように言う。
「なん――でっ・・・」
弾かれたように、神狩の身体を視た。
両足が、有り得ない方向に捻じ曲がっている。かろうじて、その身だけで繋がっている彼の両足からあふれた出血が、廊下を真紅の血の色に染めていた。
僕は言葉を失った。
それでもなお、彼は鬼の標的となり続けていた。まだ動く両手で鬼の首を締め上げ、肩に食らいついている。
彼は、全身で戦っていた。身体中の痛みは僕の比では無いはずだ。意識だってとうに無くなったていたっておかしく無いのに、彼は戦っていた。否、違う。彼は僕らを守っていた。
その身を犠牲にして、僕らが逃げるための時間稼ぎを最期の一秒までしようとしてくれている。
ドクン、ドクン
彼に応えるとは、何だ?
自分に応えるとは、何だ。
ドクン
ごめん、じゃないよな。
痕が残るほど強く握りしめていた拳をひらく。
僕は椿姫の手を取り、彼とは逆方向へ走り出していた。
彼に向ける言葉は、ごめんなんかじゃない。
僕が引き継ぐから。
君の代わりに、守ってみせる。
だから。
だから―――
握り返された右手が熱い。
足を前に突き出すたび、強烈な痛みが肩に走った。
でも、こんなのは痛みじゃない。
痛みになんか入るもんか。
そうだよな、神狩。
◇
そうだ、それでいい。
彼らの姿が見えなくなり、僕は鬼から手を離した。地面に落下するかと思いきや、寸前で鬼の手に捕まる。
どうやら最期まで、楽に死なせてくれる気は毛頭無いらしい。
まぁ、出血多量ってのも、楽では無いわな。
戦意を喪失した獲物を、再度窓ガラスにぶつけてから廊下に放り投げる。
視界はとうに霞んでいた。
だが意識は、まだ保たれている。
我ながら、呆れるくらいしぶといな。
ポケットを探る。
目で確認する必要は無い。
短文を打ち、最期に送信ボタンをクリックする。
いよいよ、お手並み拝見ってとこか。
大鎌を持ち替えた鬼が、目前に起立していた。
まずは右腕。
それから左腕。
最期に頭。
丁寧にこま切れにして、鬼はようやくその場からいなくなった。
◆
どれくらいの時間が経ったのだろう。
暗闇の中、僕たちは時を忘れて3階の教室に身を潜めていた。
最初に狙われたのは、僕だった。
あの時点で、神狩には僕を見捨てて椿姫を連れて逃げる選択肢だってあった。
そうするのが、当然のはずだった。
なのに、神狩は僕を助けた。
友達でもない。クラスメイトでもない。今日偶然同じグループになった、会ったばかりの僕のために、その身を犠牲にして僕たちを逃した。
一組の人間は、利己的だったんじゃないのかよ。
神狩の言葉が、頭から離れない。
あんなことを言われて、僕は君さえ疑った。容疑者全員を殺してしまうのが、何より手っ取り早いと簡単に思いついてしまう君のことを、怖いとすら感じた。
それなのに、仲間を見捨てたのは結局僕の方だった。
どんなに取り繕ったところで、僕が神狩を見殺しにしたことに変わりは無い。
その事実は、今後一生、僕たちの中で消えることは無いのだ。例え、明日にでも僕の記憶がリセットされたとしても。
「そろそろ、30分よ」
すぐ脇で、冷静な声がした。
見れば椿姫が携帯を確認して僕の判断を仰ぐようにきつく見据えている。
「戻ろっか」
僕が応えて立ち上がると、彼女は呆れたように唇を結んだ。
「何?」
「べつに・・・」
「言いたいことがあるんだったら・・・」
「あなたに言って、どうにかなるとは思えないもの」
――ザシュッ
日本刀で斬られたような気分になった。
「そうだとしてもさ・・・一人で考えるより、二人で考えた方が幅が拡がると言いますか・・」
「なら、あなたの考えから先に聞こうじゃない」
結局は、上から目線なんですね。
僕は再度、彼女の隣に腰を落ち着けた。
「これ見て」
そう言って、自分の携帯を開き椿姫に見せる。送信元は神狩だ。椿姫の表情が、より一層険しさを増すのが分かった。
『むつきはくろい』
彼にいつ、このメールを打つ余裕があったのだろうか。
彼は死の瀬戸際まで冷静沈着で、自分の身に降りかかることなんか二の次だったことが分かる。
睦木は黒い。
彼からの、最期のメッセージだった。
「僕がこれから話すことは、あくまでも仮説だけど、睦木が僕たちを殺そうと企んでいるということを大前提で考える」
「ええ」
椿姫が隣で、短く息を吐いた。
「2階の教室が全て使われていたのが、睦木の仕業だとすると、僕らを2階へ誘い込み、全滅させるのが目的だったと考える。遺体は消えてなくなるようだから、僕らが連絡を断てば、みんなは僕らが死んだと思うだろう。後は花蓮か伊佐也に睦木にバレないよう接触して、彼を罠にはめる」
「どうやって?」
「そこは、まだ未開拓地と言いますか・・・」
じろりと睨まれ、僕は慌てて続けた。
「それとは別に、2階の教室を使ったのが睦木以外のAグループの誰かという可能性もある。その場合、睦木が殺しそびれたのだから、当然睦木を快く思っていない誰かだ。その人物と接触出来れば、勝算も上がるとは思うけど・・・」
「どうやって接触するつもり?」
「そこはまだ、発展途上と言いますか・・・」
笑って誤魔化した。
「どちらにしろ、詰めが甘いわね」
おっしゃる通りです。
「いるかも分からない誰かをあてにするのは馬鹿げてるわ。それなら、先の作戦でいきましょう」
椿姫からの意外過ぎる返答に、僕は思わず呆けた格好になる。
「何よ」
「いや・・・僕の作戦なんて一蹴されると思ってたから」
「勘違いしないで。それしか方法が見当たらないってだけよ。ただ・・・」
「ただ?」
そこで、椿姫は何故かやり切れぬように、目を背けた。
「あなたが何の考えもなく、ただ花蓮を守ると息巻いて戻ろうとしたら、鼻っつらを蹴り上げてやろうと思ってただけ」
鼻っつらを・・・蹴り・・?
思わず想像してしまい、堪らず吹き出した僕に椿姫は暗澹とした表情で振り返る。
「何で笑うのよ」
「いや・・・ごめん。ちょっとツボった」
ひとしきり笑ってから、深く深呼吸して、一気に立ち上がる。
「だけど、やっぱり僕は帰ろうと思うんだ」
「はぁ?」
意味が分からないと怪訝な顔つきを浮かべる椿姫に、僕は言った。
「やっぱり、花蓮が心配だからね」
それに、奴から目を離してはいけない気がする。二手三手先を読んだ気になって、奴がもっと数十手先を読んでいたら?こちらが思うよりずっと、残忍な性格だったら?
奴の心境など、離れていたら分からない。奴は恐らく、神狩のことは警戒していたかもしれないが、他の人間の存在など眼中に無いだろう。それを逆手に取れれば、十分に勝機は見えてくるはずだ。
「呆れた。あなた、やっぱり馬鹿なの?」
「そうだと思うよ」
掃除用具入れから柄の長いモップを選び、手に馴染ませる。
軽く振ってみると、忘れていた肩の痛みが強烈にぶり返した。
「痛むの?」
「・・痛まないよ」
傍までやって来た椿姫に、笑って返事する。
右手はしばらく使い物にならないな。
「貸して」
僕の持っていたモップを横から奪い取り、椿姫は呆れたように言う。
「私だって、戦えるわ」
「椿姫・・・」
唐突に気付いて、僕は椿姫の手を見つめた。彼女の手は小刻みに震えていた。
一体、いつから?
記憶をたどる。
神狩の台詞が脳裏に蘇った。
「椿姫は男子が苦手なんだ」
「暗がりも苦手だったね」
忘れていた。この状況は、彼女からしてみたら、苦手因子のオンパレードじゃないか。
「つ、椿姫・・・だいぶ無理してない?」
「はぁ?それより、気安く名前で呼ばないでくれる?」
男子が苦手なのに。暗がりが苦手なのに。こんなにも震えているのに、決して弱音を吐いたりしない。それどころか、自分自身さえ欺くように、気高く気丈さを振る舞っている。
自分を決して守られる側に位置付けない。女という事実に甘んじない。その強さと勇ましさに、僕は思わず見とれてしまう。
信念があるのだ。
恐らく、彼女にも神狩にも。
同じように、引けない理由がある。
僕は、どうだろう?
果たして、僕にも彼女たちと同じようにここで戦う理由があるのだろうか。