第ニ十五話 過ぎた名誉
「今だマルク、立て直せ! 負傷者を中央へ、陣を組み直せ!」
尾を断たれ狂乱するワイバーンの咆哮を背に、ベリルの鋭い声が響く。その声には、先ほどまでの静謐な殺気はなく、冷静な指揮官の響きがあった。
のけ反る巨躯。ベリルはその隙を逃さず、今度は地を這うような低い踏み込みで、ワイバーンの太い右足の腱を正確に斬りつけた。
「ギャアアッ!」
バランスを崩した巨体が、濡れた岩場でたたらを踏む。断崖に近い急斜面。自重を支えきれなくなった空の王者は、そのまま無様に斜面を転がり落ちていった。
「追撃はしない。各員、直ちに荷をまとめろ! 負傷者は肩を貸せ、動ける者は予備の盾を外側へ! 一刻も早く斜面を登り、この場を離れるぞ!」
ベリルの指示に、小隊は沸騰したように動き出した。
「デニス、立て! 膝を叩け、まだ動けるはずだ!」
ガストンが腰の抜けたデニスの襟首を強引に引きずり上げ、その手に剣を握らせる。
「ヨハン、左翼の盾を半分こっちへ回せ! ライアン、ミラ! 上方の安全を確認しに行ってくれ、二陣がいないとも限らんぞ!」
マルクが矢継ぎ早に怒号を飛ばし、崩れかけた布陣を強引に繋ぎ止めていく。その喧騒の中、ルルが小走りで隊員たちの間を縫うように動いた。
「怪我はない!? 毒を浴びた人はいない? 動けない人は正直に言って!」
ルルは顔を真っ青にしながらも、一人一人の顔を覗き込み、震える肩を叩いて正気に戻していく。その献身的な姿に、恐慌していた隊員たちもようやく呼吸を整え始めた。
ベリルは後方の岩陰で若い隊員たちと荷物をまとめていた老兵に鋭い視線を送った。
「バルト爺さん! 動ける者を数名連れて、斜面の縁を固めてくれ。ワイバーンが這い上がってこないか、臨戦態勢で見張りを。……奴が首を覗かせたら、容赦なく目潰しを叩き込め!」
「応よ、小隊長! 腐ってもワイバーンだ、最後の悪あがきで道連れにされてたまるかよ。……おい、お前ら! 震えてる暇があったら弓を構えろ! 奴の鼻面にぶち込んでやるぞ!」
バルト爺さんが老練な手つきで若手を率い、崖際で油断なく身構える。
散り散りになった隊員たちは震える手で装備を拾い集め、互いの無事を確かめ合う余裕もなく、泥にまみれて退避の準備を急いだ。岩場には引き千切られたワイバーンの尾が転がり、猛毒を含んだ体液が鼻を突く異臭を放っている。
その凄惨な光景を、信じられない面持ちで見つめる者がいた。ヴァルターだ。
「……待て、小隊長! なぜ追撃を命じないのだ!?」
斜面を滑り落ちていくワイバーンを見下ろし、ヴァルターが鋭い声を上げた。彼にとって、今はまさに千載一遇の好機であった。
「尾を斬り、足を潰したのだ直ちに止めを刺すべきだろう! 『ワイバーン殺し』の称号……それがどれほどの価値を持つか、貴殿も分かっているはずだ。爵位はもちろん、新たな領地すら思いのままだ。『不戦の外套』などという不名誉な呼び名を、一気に拭い去る千載一遇の好機なのだぞ!」
ヴァルターの叫びは、理想に燃える若き騎士としての正論だった。これほどの武勲があれば、臆病者と蔑まれる日々を、一瞬で過去のものにできる。だが、ベリルは血を払った剣を鞘に収めると、感情の読み取れない横顔で淡々と応じた。
「……身に余るお言葉です、ヴァルター様。ですが、今は、この小隊の再編が必要です。見ての通り、隊員たちは浮き足立ち、戦線は崩壊している。恐慌状態の彼らを連れて、死に物狂いの魔獣が暴れる斜面を下れと仰るのですか?」
「だが、この機を逃せば、二度とこれほどの功績は手に入らぬのだぞ! 騎士としての誉れを、貴殿はこれほど容易く捨てるというのか!」
ヴァルターは、ベリルの圧倒的な技量を目の当たりにしたからこそ、その無欲さが理解できず、苛立ちを露わにした。
しかし、ベリルは柳に風と受け流す。
「名誉と仲間の命、天秤にかけるまでもありません。ワイバーン殺しの名誉など我々には過ぎたるものです。ワイバーンを追い払い部隊を無事守りきれたことが、私にとっての名誉なのです」
「貴殿という男は……っ!」
信じがたいものを見るようなヴァルターの視線を背に、ベリルは既に歩き出していた。
「マルク、先行した斥候と合流しろ。……ガンダル砦まで、気を抜くな。一人も欠けずに辿り着くぞ」




