第一話 家路の案内人
臆病者と蔑まれた騎士の二つ名は『不戦の外套』
必ず生きて家族のもとへ帰る。彼の半生は母親と5人の弟妹を養う為だけのものだった。
そんなお人好しな長男の執念の逆転ファンタジー。
雨は、音を消すために降っているかのようだった。
アステリア王国騎士団、グレイスタイン辺境伯騎士団合同での魔獣討伐戦のさなか、辺境伯騎士団第四辺境守備隊第五小隊、総勢三十名の兵たちは、湿った重い沈黙の中で泥にまみれていた。視界を塞ぐ深い霧の向こうで、魔獣の低い唸り声が地鳴りのように響く。
「……ったく、最悪だぜ。大部隊の連中は今頃、平原で華々しく突撃して手柄を挙げてますよ」
新兵のデニスが、盾を支える肩を震わせながら小声で吐き捨てた。配属されてから三日。彼に与えられた任務は、本隊から遠く離れた後方の、何の変哲もない獣道の監視だった。
「デニス、静かにしろ。……泥遊びで済んでいるうちに、その幸運を噛み締めろ」
隣にいた副官のマルクが、短くたしなめた。彼は小隊長の背中を見つめたまま、手慣れた手つきで矢の羽を整えている。
「運がいい? 笑わせないでくださいよ。俺たちの隊は『不戦の外套』なんて笑われてるんでしょう? 外套を汚さないように逃げ回る臆病者だって」
「……お前、この小隊に補充兵が何人入ったか知ってるか?」
マルクの問いに、デニスは鼻で笑った。
「さあ? 俺が久しぶりの新人だってことくらいは聞いてますが」
「ベリル・ガスト小隊長になってから八年、戦死による欠員は一人もいない。お前が入ったのは、腰を痛めて留守番しているドワーフのバルト爺さんの穴だ」
デニスの言葉が止まった。戦場で、死者が出ない。そんなことがあり得るのかと、疑いの眼差しを向ける。その時、それまで巨石のように動かなかった小隊長、ベリル・ガストがわずかに指を立てた。
「……来るぞ。ライアン、位置を」
前方の樹上から、一筋の影が音もなく舞い降りた。狼の獣人、斥候のライアンだ。彼は濡れた鼻先をぴくつかせ、鋭い犬歯を覗かせてニヤリと笑う。
「小隊長、当たりだ。シルバーウルフがいる。風下に回り込んでやがるが、獣特有の臭いは隠せてねぇよ」
「へぇ、自分も同じような臭いさせてるくせに鼻だけは利くんだな、ライアン?」
すぐ側で待機していたセドリックが、軽口を叩きながら肩をすくめた。
ライアンが即座に「あぁん? テメェの酒臭い吐瀉物よりはマシな匂いだぜ!」と食ってかかる。
——ゴッ、ゴッ!
「痛ぇっ!」「あだっ!」
言い合いを始めた二人の頭に、マルクの容赦ないゲンコツが落とされる。拳を振った副官は、眉間に皺を寄せたまま低く唸る。
「私語を慎めと言ったはずだ。死にたい奴から前に出ろ」
「……マルク、そこまでにしておけ。連中の緊張が解けたなら、それでいい」
振り返りもせず、ベリルは呆れたように小さく溜息をついた。その視線は、既に霧の向こう側を正確に射抜いている。
「小隊長、数は二十くらい、精霊が教えてくれた。精霊をけしかけて牽制しましょうか」
ハーフエルフの弓兵ミラが風の精霊に声をのせてくる。
ベリルが手で静止の合図を送る。
「やつらも痺れを切らす頃合いだ、このままでいこう」
「マルク、合図を。……お前たち、仕事だ!」
ベリルの指示を受け、マルクが鋭い指笛を鳴らす。 霧の奥から銀色の影が飛び出した瞬間、茂みに潜んでいた弓兵たちが一斉に火矢を放った。だが、その矢は魔獣を射抜くためではなく、その鼻先の地面を正確に叩き、火花と音を立てる。
「ガアッ!?」
鼻先を焼かれた狼たちが怒りに任せ、ベリルたちが待ち構える狭い窪地へと吸い込まれていく。
「ヨハン、壁を作れ! ガストン、横を締めろ!」
「応よ! 押し負けるんじゃねえぞ!」
歩兵長のヨハンが最前線で咆哮し、大盾を地面に叩きつける。その隣では、虎の獣人である巨漢ガストンが、人間二人分はある分厚い大盾を片手で保持し、もう片方の手で長大な槍を構えていた。
ガストンの太い腕から放たれる圧倒的な剛力と、ヨハンの統制された指示。三十人の兵士が隣と肩を密着させ、その隙間から長い槍を三層に突き出す。まるで鋼の針を持つ巨大なハリネズミのような密集陣形だ。
「一段、二段。三段交互に突け。……深追いはするな、壁を維持しろ」
牙を剥き、巨体を盾の壁に激突させる狼たち。だが、隣の男と肩を密着させ、後ろの者が前の者の腰を支える。種族も体格も違う兵たちが、ベリルの指揮のもとで一つの巨大な岩盤と化し、微動だにしない。
「クソッ、きりがねぇ……!」
デニスが盾の隙間から槍を突き出し、必死に咆哮を上げる。だが、ベリルは戦況に昂ることもなく、ただ一箇所を凝視していた。
「……マルク、今だ。開け」
副官の笛が再び鳴り響く。 すると、ヨハンとガストンを起点に槍兵たちが一斉に左右へ分かれ、中央に広大な空白を作り出した。獲物が逃げ出したと錯覚した狼の群れが、その口を開けた空白へと一気になだれ込む。
だが、そこはベリルが昨夜、セドリックやアルノーらと共に偽装しておいた落とし穴だった。
「ギャウンッ!」
先頭の数頭が次々と泥の中に沈み、後続がその背に乗り上げて重なる。もつれ合い、動きを止めた狼たちの頭上に、待機していた弓兵たちの矢が吸い込まれていく。
「…………なんだよ、これ……」
デニスの口から、乾いた音が漏れた。 戦場特有の高揚感も、英雄的な叫びもない。あるのは、敵の習性を理解し、地形を活用し、あつらえた死に場所へと誘導する徹底した統制だけだった。
「右翼、閉じろ。残りは追い払え。……深追いは無用だ」
その一言で、戦場に静寂が戻った。生き残った数頭の狼が、恐怖に震えながら霧の奥へと逃げ去っていく。
「デニス、次は腰の位置を下げろ。お前の背丈なら、その方が盾に力が伝わる」
通りすがりに肩を叩いていったベリルの外套は、驚くほど綺麗だった。雨に洗われたその背中を見つめながら、デニスはただ、言葉を失って立ち尽くしていた。




