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【完結】ただ、世界が歪んでいるのを確認したかった。  作者: 逆立ちハムスター


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 午前11時35分。監察官室の空気は、弛緩した気配など微塵も感じさせないほどに冷え切っている。窓から差し込む日の光は、床のタイルに鋭く影を落としていた。

 

私が淡々と誰かの人生を終わらせる書類を完成させていく傍ら、デスクの向かい側では、伊藤監察官と渡辺監察官補佐が、執念深く、獣のような顔で書類の山に埋もれている。先週発覚した、ある分署の警部による不同意性交等罪。半年間に及ぶ犯行、被害者の数は二桁に達しようとしている。彼らはその一人ひとりの供述を読み込み、矛盾を突き、警察組織としての「膿」を物理的な重さを持つ書類へと変換し続けていた。すべては警部が、弁護士と組み、粗をついてこさせない為でもある。完璧に作らなければ、自分たちが追い込まれてしまうからだ。

 

 いずれ、この件は漏洩し、メディアによって世間に晒されるだろう。ニュースキャスターは悲痛な面持ちで正義を説き、街の人々は憤りを露にする。だが私の手元には既に、その喧騒を上書きするであろう「次」の火種がいくつも届けられている。


 私は淡々と、指先に触れる紙の質感を確かめる。孤独死現場に臨場した警察官たちによる、故人の遺品――現金の窃盗。それを密告してきたのは、同じ現場にいた同僚だ。正義感などという高尚な動機を想定するのは時間の無駄だろう。そこにあるのは、自分を差し置いて出世した者への嫉妬、あるいは日常的な人間関係の破綻からくる私怨が大部分を占めている。密告という刃は、常に身勝手な欲望で研がれているのが、この世界の定石だ。同様の添付されていた資料に目が留まる。犯行現場の隣家に関する周辺住民からの苦情、および不審人物の報告などだった。その家主は女性で、長い間、全てのシャッターを下ろしたままで、建物の死角をすべて埋めるように多数の防犯カメラを設置しているという。近隣住民は「何かを隠している」と疑念を抱いているようだが、資料に添付された家の写真を見た瞬間、私は奇妙な親近感を覚えた。


 徹底した拒絶。外部との接触を、物理的な層によって遮断しようとするその意思。会わなくても、分かる。その女性は、どこか私に似ている。外界の淀みを遮断し、部屋で静かに呼吸を続けることの安らぎを知っている者だ。


 私はそれらの報告書を一つずつ規定のフォルダへと振り分けていく。


 「これ、さっき上層部からきたものです」

 新たな書類には「優先度、高」のラベルが貼られ、すぐに目を通すべき事案が記されていた。


 八十代の女性と小学生の女子児童が、横断歩道を横断中に撥ねられた。犯人はそのまま逃走。メディアの注目を集めるリスクが高く、また凄惨な事故現場。世間が食いつかないはずがない。


上層部は早々に「警察関係者の犯行ではないか」という最悪のシナリオを想定し、管轄エリア内の警察職員およびその家族の車両を精査するよう命じてきた。

 私はその事案をデスクの中央へ置く。これもまた、一つの事務だ。誰かが撥ねられ、誰かが逃げ、誰かがそれを隠そうとする。私はその連鎖を、ただ文字として追っていく。


各必要部署への連絡などを早急に済ませ、上がってきた書類をすぐにまとめていく。


────


夕方。今日も一段落終えた。


 一区切りをつけ、私は席を立つ。

廊下の隅にある自動販売機。私はスマホをかざし、上から二段目の右端のボタンを押した。かつて好んで買っていたメーカーのコーヒーは、昨日生産を終了してしまった。代わりに充填された別メーカーの製品を選んだ。缶は熱く、手に僅かな痛みを伝えた。一口含んでみる。意外と気にならなかった。この庁舎を往来する同僚の警官たちと同じだ。相変わらず、代わりはいくらでも用意されている。メーカー、あるいは人間が変わろうとも、社会という巨大なシステムは平然と稼働を続ける。その非情なまでの効率性が、私には心地よかった。


 廊下に設置されたベンチ。そこには一人の女性が、背筋を伸ばして座っていた。どこか親近感を覚える感じがした。


 彼女は夫を殺害した容疑。

 彼女については既に耳に入っていた。ベテランの岩田刑事は、彼女の「私情による殺害」という空論で疑っていたが、結局は他の刑事たちと同様、決定的な証拠が見つからないことを理由に、不慮の事故として処理してしまったらしい。正式な手続き待ちだろう。それまで彼女は容疑者だ。


 そんな岩田刑事もまた、一皮剥けば卑俗な人間だ。最近、奥さんの浮気が発覚し、反抗期を迎えた娘さんとの確執にも悩まされている。彼はもはや、難解な事件を追う情熱を失い、自らのプライベートを守るために、仕事を「なあなあ」で済ませることを選んだ。実に堅実で、人間らしい刑事だ。


 その相棒の山下刑事も似たようなものだ。誠実そうな笑顔の裏で、彼は闇カジノという底なし沼に足を突っ込んでいる。私は既に、彼の資産状況と不自然な出金の記録を押さえていた。上司が泳がせているのは、単に「最も効果的な収穫時期」を待っているだけに過ぎない。さらに、彼の恋人である早菜という女性が、彼に秘匿して危うい水商売に身を置いていることも把握済みだった。事業主との関係に些か問題があり、彼女が摘発されれば、山下刑事の基盤は容易く崩壊するだろう。

 それらの「崩壊の予兆」を眺めながら、私はコーヒーを飲み干した。空き缶をゴミ箱へ落とすと、硬質な音を立てて底へ沈んでいった。


 廊下を戻る際、私はベンチに座る彼女――夫を殺したとされる女性の真正面を通った。

 ふと、彼女が顔を上げた。

 視線が空間の中央で静かに衝突した。


 私はこれまでに経験したことのない、奇妙な静寂に包まれた。

 彼女は黒だ。彼女は間違いなく、夫を殺している。


 特別な鑑識技術も、心理学的な洞察も必要なかった。ただ、彼女の瞳の奥に宿る「無」が、私の網膜を通して深く突き刺さったからだ。

 その瞳は、私が毎朝、洗面所の鏡で確認している自分自身の目と全く同じだった。

 そこには怒りも、憎しみも、ましてや後悔の色など微塵も存在しない。あるのはただ、整理を終えた後の、平坦な静寂だけだ。


 彼女にとって、夫という存在を消し去ることは、きっと特別な儀式ですらなかったのだろう。

 床に落ちた埃を、掃除機で吸い取る。

 散らかった書類を、シュレッダーにかける。

 ゴミ箱に溜まったゴミを、収集日に出す。

 その程度の、極めて日常的な、排他的な処理。

 殺意という言葉で表現するにはあまりにも軽やかで、罪悪感という重りを持たない。彼女はただ、自分の世界において「不適合」となったパーツを、あるべき場所――「無」へと還したに過ぎないのだろう。


 彼女が静かに視線を外す。私はそのまま、歩みを止めることなく監察官室へ戻るべく、エレベーターのボタンを押す。


 確信を得たからといって、私にできることは何もない。何かをしようという意思すら湧いてこない。周囲が事故だと思い込み、世界がそのように定義されているのであれば、それがこの社会における「真実」として受理されるだけのことだ。


 わざわざこちらから荒波を立てる必要は、どこにもない。管轄違いであり、業務の範疇外だ。何より、彼女の平穏を乱すことは、自分自身の平穏を乱すことと同義であるような気がしていた。


 デスクに戻り、私は再びペンを執る。いつものように仕上げをしていき、済ませたら、有沙のいる我が家へと戻る。そして明日もまた、この続きを淡々とこなしていく。

 これらはすべて、私というフィルターを通ることで、ただの記号へと解体されていくのだ。


 窓の外では、暗闇の気配が忍び寄っている。

 有沙は今頃、あの幸せな笑顔で、今日の検診で得たエコー写真を、私よりずっと長く眺めているのだろうか。あるいは、私への夕食の献立を考えているのだろうか。

 彼女の熱量も、目の前の犯罪者たちの業も、廊下に座る女性の冷徹な殺人も。

 それらはすべて、私の世界を通り過ぎていくだけの現象に過ぎない。


 私は淡々と、次の書類に目を通す。

 世界を整理し、自分という装置の機能を全うする。

 そこには依然として、波風ひとつ立たない、凪いだ海が広がっている。これでいい。

(完)

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洞察力のあるクールでニヒルな主人公。 世界の歪みを知り、己自身をも機械のように客観視し、装置のように生きている。 そんな彼にも、人間らしいところがある。 (ここが、お気に入りポイント) 鯖が好きだっ…
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