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【完結】ただ、世界が歪んでいるのを確認したかった。  作者: 逆立ちハムスター


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 午前5時58分。スマートフォンのアラームが空気を震わせる直前、意識が覚醒の層へと浮上した。今日も少し肌寒いだろう。指先だけを動かし、まだ鳴り出していない液晶の停止ボタンを、いつものようになぞる。静寂が守られたことに安堵するでもなく、私はただ、シーツの中でゆっくりと四肢の感覚を確かめた。


 隣では、妻の有沙が重い毛布の塊となって静かな寝息を立てている。その規則正しい呼吸音を、不規則な雑音として排除することもなく、私はベッドを抜けて床暖房で温まったフローリングに足を下ろした。


カーテンを開ける。以前は妻がスマートスピーカーに話しかけて開けていたが、あれは、セキュリティホールでしかないゴミで捨てるのが賢明だった。お詫びに買ってきたこの新しいカーテンを付けた時、妻は私に喜んでくれていた。だが実際のところ、生活に変化が欲しかっただけだ。どう見ても、いらない無駄なものだった。


遮光カーテンを開けると、白く濁った朝の光が部屋の隅々を均一に照らし出す。昨日と変わらぬ位置にある家具、積み上げられたままの雑誌、そして有沙が脱ぎ捨てたままのカーディガン。それらを網膜に映しながら、私は乱れたシーツを少し整え、枕の角度を直した。元あるべき姿に復元する作業、これが心地よい。


 一階へ降りて洗面所に立ち、自動センサーから吐き出されるぬるま湯で顔を洗う。掌に溜まった水の温度が、神経を一本ずつ叩き起こしてくれる。そして鏡に映る自分の顔を、私は一枚の証明写真を見るような無関心さで眺めた。いつもと変わらない。警視庁警務部監察官室、事務方、巡査部長。その肩書きが求める「清潔感」という規格に適合させるため、シェービングフォームを顎に塗り広げる。カミソリの刃が産毛を剃り落とす微細な振動だけが、頭蓋の奥に響いていた。3枚刃、4枚刃、5枚刃。今では6枚刃だ。妻が間違えて買ってきた、3枚刃や4枚刃が、いつの間にか溢れている。使ってと言われるが、職場で使うと言って持ち出し、少しずつ捨てている。妻が不満がっていた洗面所の髭の剃りあと。蛇口ヘッドを伸ばし洗面所を綺麗に流す。


「……ん、あなた、もう起きてたの……?」


 扉の隙間から、まだ微睡みを孕んだ有沙の声が滑り込んできた。振り返ると、彼女はベージュ色の大きめのパジャマの裾を引きずるようにして、壁に肩を預けて立っている。

「ああ。定刻だ」

 口を洗浄剤でゆすぎ、タオル肌を擦らずで、軽く叩くようにして水分を吸い取りながら答える。私の声は、反響の少ない洗面所の壁に吸い込まれて消えていく。

「もう、相変わらず時計みたいなんだから。……おはよう♪」

 有沙がふらふらと歩み寄り、私の腕に自分の額をこすりつける。シャツ越しに伝わる彼女の体温は、この季節の朝には少し過剰なほどに温かい。

「お腹の子も、パパの足音で起きちゃったかな?」

「……そうかもな」


 彼女の腹部には、新しい生命が宿っている。数ヶ月後には家族という単位の構成員が一人増え、それに伴って可処分所得の再配分や、居住空間の物理的な調整が必要になる。役所への届け出、保育園の調査、学資保険の検討など。脳内の作業領域に次々とタスクが並べられていくが、それらはあくまで事務的な処理の範疇を出るものではなかった。


 妻にキスをし、洗面所の主導権を渡して入れ替える。トイレを済ませたあと、備え付けの蛇口で手を洗い、着替えのために一階のウォークインクローゼットへ向かう。

クローゼットからアイロンの効いた白シャツを1枚取り出す。第一ボタンから順に留めていく指の動きは、長年の習慣によって既に洗練されていた。

 私が監察官室という、同僚の不正を暴き、身内を裁く「内側の掃除屋」の事務方に身を置いているのは、そこが最も「居心地」がよく、明確な定規で世界を測れる場所だからだ。善悪や感情といった不確かなものではなく、規定に抵触しているか否か。その二値化された判断の繰り返しが、私には何よりも馴染んでいる。組織への忠誠はない。自らの人生を彩る場所か否か、だけだった。


 ダイニングへ向かうと、既に淹れたてのコーヒーがテーブルに置かれ、キッチンでは有沙が既にフライパンを握っていた。彼女は時折、無意識に鼻歌を漏らしながら、まな板の上で小気味よい音を立てて野菜を刻んでいる。


 世間体という外套を羽織るために選んだ結婚だったが、彼女という存在は、非常に明るくカラフルな存在だったが、その天真爛漫さも、私の予想に反して何の変化ももたらさなかった。彼女がどれほど鮮やかな感情を振りまこうとも、私の世界は平坦な凪のままだ。だが、有沙は私のこの欠落を「真面目さ」や「誠実さ」と好意的に解釈し、満足げに生活を営んでいる。


スマートフォンでメールやチャットをチェックし、ニュースを一通り見ていく。今朝のニュースをスクロールした。政治家の汚職、深夜の轢き逃げ事故、遠い異国での紛争。それらはすべて、数字と記号で構成された情報の断片として処理されていく。相変わらず、昨日と変わらずに世界が歪んでいて、とても安心する。


しばらくして……。


既にテーブルには、妻が好きな鮭。私の好きな鯖。納豆や卵焼き、小松菜のひたし、きんぴら、切り干し大根が置かれていた。

このきんぴらは妻が作りすぎて冷凍庫の一部占領している犯人だ。私の好きな切り干し大根を追い出す傾向が強く、早々に排除せねばならない。


「はい、お待たせ。今日はなめこを入れてみたの、少し変わったお味噌汁だよ。熱いから気をつけてね」

 差し出された椀から、出汁の香りが湯気と共に立ち上る。白米の湯気が立ち昇る茶碗が置かれ、私は丁寧に並べられた朝食を静かに口に運び始めた。なめこのぬめり、豆腐の柔らかさ。ワカメの存在感。そして薬味役の、刻み立ての新鮮なネギ。それらを舌で確認し、栄養素として胃へ送り込んでいく。いつも汁から吸って、汁で終わるのが私のこだわりだ。

「うん、とっても美味しいよ」

「よかった! 最近、つわりのせいで自分の味付けに自信が持てなくなってきて……。でも、あなたがそう言ってくれると、とっても安心する♪」


 有沙は自分の分のご飯を少しだけよそった量で、私の正面に座った。彼女は食事をしながら、今日予定している妊婦検診の細かな手順や、新しく新調したマタニティウェアの肌触り、近所に開店したパン屋の行列について、途切れることなく語り続ける。


 私は適度な間隔で頷きを返し、彼女の話を情報収集の一環として、仕事同様、真剣に脳へ取り込んでいく。私のここ行いは、計らずとも、妻に好印象として受け取られている。相性が良いのなら、それでいい。だが深く意味を汲み取る必要はない。彼女はただ、自分の内側から溢れる言葉を、誰かに受け止めて欲しいだけなのだから。


「聞いてる? あなた」

「もちろん聞いているよ。予約はいつも通り。検診は午後0時20分から、工藤産婦人科だね。あそこの女医の工藤先生は、愛想が良いって、この間、言っていたよね」

「そう、よく覚えてるわね。帰りにエコー写真、メールで送るから。ちゃんと見てね」

「わかった。忘れずに、ちゃんと見るよ」

 食後に残った、少し冷えたコーヒーを飲み干し、私は席を立つ。警察手帳のチェーンをベルトに固定して収め、ベルトのバックルを締め直す。鏡を見るまでもなく、そこにいるのは規律に従順な一人の公務員のようだった。


 玄関で靴を履いていると、有沙が小走りで追いかけてきた。

「あ、待って。ネクタイが少しだけ右に寄ってる」

 彼女の細い指先が、私の喉元でネクタイの結び目を整える。至近距離で見つめる彼女の瞳には、一切の疑いもなく私への信頼が宿っていた。

「はい、完璧。今日も一日、お仕事頑張ってね。パパ」

「ああ。行ってくるよ」

 パパ。その新しいラベルも、いずれは生活の風景に馴染んでいくのだろう。


 特注の鋼鉄製の重いドアを開けると、外気は予報通り、肌を刺すような冷たさを保っていた。駅へと続くアスファルトの道には、同じように目的地へと急ぐ人々の足音が重なり合っている。

 歩きながら、私はスマートフォンの画面で再度メールや連絡をチェックする。


 駅のホームには、既に飽和状態の人々が溢れ返っていた。電車のドアが開くと同時に、私はその群れの一部となって車両へと吸い込まれる。吊り革を掴み、窓の外を流れる灰色の景色を眺めた。


当然、一人静かに車で通勤したいものだ。だが立場上、免許証は剥奪されているに等しい。交通事故リスクの徹底的排除。組織として、最も合理的だ。だからこそ、枷を嫌い、暴走する同僚も多い。


 隣で大きな欠伸をする会社員も、スマートフォンの画面に夢中になっている学生も、私にとっては等しく無機質な存在だった。有沙が隣にいようとも、新しい命が生まれようとも、私の本質が書き換えられることは、今までも、これからもないだろう。


 庁舎の堅牢な扉をくぐり、受付の警官に儀礼的な会釈を返す。エレベーターを降りて自席につくと、昨日精査しきれなかった報告書の束が、平然と私を待っていた。同僚たちの疑わしい不祥事だ。


後輩であり相棒である高橋巡査部長が、いつも通り20分早く来ていた。彼女はまだ私より2歳も若い。かなり有望なんだろう。

「おはようございます。これ、昨夜監察に回ってきた、所轄の巡査部長の酒気帯び事案です。証拠がはっきりしているので、優先に片付けて欲しいと」

 スーツを脱いで椅子に掛け、書類を手に取る。そして私は最初の一行に目を落とす。

「……了解。すぐに事実関係を精査する。君はこっちを頼む」

「はい」


 時計の針が刻む一定のリズムだけが、静かな室内に響いている。

 私はペンを執り、目の前の事象を、事務的に、淡々と、あるべき形へと整理していく。

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