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2-2. 消えた桐箱

 

 依頼人の家は山形県尾実村という山沿いの盆地にあった。宮城県石森市からは国道を通って約二時間の距離。何もない山道をひたすら走り、到着したのはまだ夕方には少しだけ早い時間帯だった。助手席から降りると、空気の冷たさが肌に刺さる。天気は曇り空、朝見たより灰色が濃くなっているように感じた。

 車を降りたシロさんが「おお」と小さく感嘆の声を漏らしながら、目の前にある立派な日本家屋を見上げる。

「迫力あるなぁ。君の家といい勝負だ」

「うちは半分現代建築ですよ」

 屋根の高さは一般的な二階建て住宅を超え、黒い瓦が何百枚も整然と並んでいる。山を背景に田畑と林に囲まれた屋敷は、近くで見るとより大きく感じた。

「色々いるなぁ」

 シロさんの呟きが何を指しているのか、すぐに分かった。屋根の上、石塀の脇に、見え隠れする人ではないものの影。妖怪と呼ぶほどでもない小さなものだし、古い家にはよくいるものだからそこまで驚くことではないけど、数が少し多い気がする。

 家をぼんやり眺めていると、すぐに屋敷から依頼人――根本(ねもと)和孝(かずたか)さんが出て来て、俺たちを招き入れてくれた。

「ご足労いただき、ありがとうございます」

「いえ、こちらこそ急で申し訳ない。……にしても、立派なご自宅ですね」

 シロさんはにこやかに受け答えながら、室内にも視線を巡らせていた。根本さんは気づいていないが、玄関やそこから見える廊下の隅、長押の上や欄間にうっすら映る、小さな影がうろうろしている。そいつらが俺やシロさんをじっと眺めているのは、客人への物珍しさかな。今すぐ害を及ぼすとは思えない弱いものに見えるけれど、それにしてはなんだか家の中の空気は淀んでいて、室内もやたら薄暗い気がした。

 広い玄関には傘立てや子供用の自転車が脇に置いてあり、靴が何足も出してあった。革靴やスニーカー、子供用のサイズまで色々。親族も滞在しているそうだから、根本さんの家族以外の分もあるんだろう。外観の荘厳さと比べて、中はかなり生活感が漂っている。

 土間の脇に引き戸の下駄箱、その上に紙粘土の工作と木で出来たミニチュアのログハウスがあった。ミニチュアのほうは、三角屋根で窓が二つついてる、木で出来たシンプルな家の置物。

 俺の視線に気づいた根本さんが、

「あ、それは子供たちが学校で作ってきたんですよ。粘土は息子が、ログハウスのほうは娘が」

 そう言いながら、ミニチュアログハウスを支える左側の柱に手をかけた。前面の柱からカパッと開くようで、中は空洞で、いくつか鍵が下げられていた。

「この中に鍵を入れているんです。車の鍵、家の鍵、蔵の鍵……引き出しの鍵もここに置いていました。これです」

 根本さんは中に下げられていた小さな鍵を取り出して、見せてくれた。シルバーのキーリングのついた、何の変哲もない鍵だった。

 ミニチュアログハウスは、子供の工作だと言われてよく見ればたしかに……置物というには稚拙な作りをしている。紙粘土のライオン(っぽいもの)と並んでいたら、子供の工作を飾っているように見えるし、中が小物入れになっているとは、知らなければ気づかないだろう。根本さんの言っていた通り、通夜で訪れた人が鍵置きだと気づいて持ち出したとは考えにくい。ただ元々知っていれば持ち出しは簡単だし、家族や親族ならいつでも簡単に取り出せるだろうけど。


 玄関前の廊下へ上がってすぐの応接間兼茶の間に、主な親族は揃っていた。

 根本さんが彼らに、シロさんと俺(いつの間にか大学生の助手ということになっていた)を、遺品整理業者として紹介した。父親――亡くなった根本孝蔵(こうぞう)さんの遺品の整理や分別を手伝ってもらうために呼んだ、と。

 根本さん以外の訝しむような眼差しを浴びる中、親族を紹介してもらった。

「私の妻です」

 そう紹介されたのは、妻の根本佑香(ゆうか)さんという女性だった。佑香さんは結婚後すぐから、この家で根本さんとその両親と同居していたそうだ。黒髪をゆるく後ろで一つに束ねていて、痩せ型の大人しそうな女性だ。夕食の準備を始めたところだったそうで、エプロンを身に着けている。シロさんと俺へ向けて微笑んでくれたが、疲れを滲ませた顔で目の下にはクマが青く色を残していた。お茶を出そうとしてくれたのをシロさんが遠慮した。

「こっちが私の弟の和幸(かずゆき)、その恋人の赤木(あかぎ)サキさんです」

 和の雰囲気を損なわないソファに、腰を下ろしていた男性と女性がいた。男性のほう――和幸さんは濃いデニムにニットというラフな出で立ちで、髪も男性にしては首元のあたりが少しだけ長い。年齢は根本さんとそれほど離れていなさそうで、目元がよく似ていた。ただ、かなり痩せている。根本さんも痩せているけど、それ以上、うっすら頬がこけているようだ。ついジロジロ見てしまったせいか、和幸さんは隠す様子もなく俺とシロさんを胡乱な目で見ていた。

 恋人である赤木サキさんはつり目の美人で、明るい茶色の髪も相まって一人華やかな雰囲気だった。赤い口紅を引いた唇をにっこりと引き上げて微笑んでいる。二十代前半くらいの若さに見えるけど、和幸さんはおそらく三十後半。恋人って言ってたけど、十歳以上離れていそうな……。俺らに対してどちらも軽く会釈してくれたが、表情は対照的だった。

 応接間にいたのはあと四人で、根本さんの従兄家族だと紹介してくれた。

「父の弟、私から見て叔父の息子である(ひろし)兄さんと、奥さんの(あずさ)さんです」

 座布団に腰を下ろしていた博さんは、兄さんと呼ばれているから根本さんより年上のようだ。だらしなく弛んだ瞼から覗く目をジロリと光らせて、眉間に皺を寄せていた。座っていてもその恰幅の良さが分かるほど、腹が出ている。妻の梓さんは博さんと同じような体型をしていて、頭頂部が白髪混じりの長髪を撫でつけながら、こちらを一瞥しただけ。和幸さんに引き続き、友好的な雰囲気はこれっぽっちも感じられなかった。

 気まずさを押し殺して、口元に精一杯の愛想笑いを浮かべてみたけど、効果はないみたいだった。

 博さんと梓さんのそばには、俺と同じ歳くらいの若い男女が間を空けて座っていた。

「その息子の博之(ひろゆき)くんと、娘の朱里(あかり)ちゃんです」

 博さんの子供である博之さんは大学生、朱里さんは高校生だそうだ。どちらも興味無さそうにスマホをいじっていて、顔は上げなかった。

 あとは根本さん夫婦の子供がいるが、小学生の二人は子供部屋で遊んでいるそうで、この場にはいなかった。

 一通り紹介されたが、歓迎されていないのは一目瞭然。

 気まずさ漂う微妙な空気の中、口火を切ったのは弟の和幸さんだった。

「で? 業者なんか呼んで、父さんの物を勝手に売るのか?」

「そんなつもりじゃないって、今朝も説明しただろ」

「どうだかな」

 根本さんに対し、あからさまに喧嘩腰だ。ムッと眉間に皺を寄せた根本さんに、フンと鼻で笑うような仕草で返す。和幸さんの態度が気に障ったのか、根本さんは眉間の皺を深くした。

「無くなった物を探さないといけないからな!」

 根本さんが吐き捨てるように言った言葉で、室内にピリッとした緊張感が走った。全員の視線が鋭い。奥さんの佑香さんだけが、心配そうに自分の夫を見つめている。

 一瞬の間の後、和幸さんが激高して怒鳴った。

「俺が盗んだっていうのかよ! 人を盗人呼ばわりしやがって! 荷物を漁ってもまだ納得できないのかよ!?」

「人聞きの悪いことを言うな、確認しただけだろ! それに俺はお前が盗んだなんて言ってない!」

「大体、一緒に暮らしてたからって父さんの荷物は全部兄さんの物か!? 俺にだって相続の権利はあるはずだ!」

「まぁまぁ、落ち着いてください」

 お互い掴みかかりそうな勢いの根本さんと和幸さんの間に割って入ったのはシロさんだった。いつもと変わらない穏やかな口調で、焦る様子もない。

「急に訪れて申し訳ありません。お父上が亡くなって日が浅い、気持ちの整理もまだつかないでしょう。心中お察しします。ご迷惑にならないよう、出来るだけ早くお暇出来るように最善を尽くしますから」

 シロさんは室内にいる全員を見渡すように、ゆっくりと言葉を伝えた。

「もちろん、荷物を勝手に探すこともしませんよ」

 ちょっとだけイタズラめいた笑みを見せたシロさんに、息を詰めて見守っていた佑香さんは少しだけ肩の力が抜けたようだ。ジッと様子を伺っていた従兄夫婦は呆れたのか白けた表情を浮かべていて、息子の博之さんだけが「伯父さんたち怖ぇー」と小声でニヤニヤと軽口を叩いたが、誰も笑わなかった。

 従兄家族の反応から察するに、二人の口論はこれが初めてというわけじゃなさそうだ。

 和幸さんは鼻息を荒くしたまま、恋人と連れ立って部屋から出て行った。その背を黙って見送った根本さんは、落ち着いたのか、首元を少しだけ赤くしながらシロさんに向き直った。

「すみません、ついカッとなってしまって……」 そう言って、恥じ入るように首元に手をやった。

「いえ、お気になさらず」

「ありがとうございます。……一旦、荷物を置きに行きましょうか。お二人のお部屋へご案内します」


 シロさんと俺は、一度玄関から出て石塀で囲まれた敷地内の離れへと案内された。

「客人は普段母屋の客間へご案内するんですが、今は弟や従兄たちがいるので」

 根本さんが玄関の戸に手をかけると、すりガラスと木で出来た引き戸はガラガラと音を立てた。鍵は掛かっていなかったらしい。

「この離れをお使いください。普段は開けているのですが、鍵は内側から掛かるので」

 玄関を開けた途端、複数の小さな影が泳ぐように出ていく。顔の近くを通られて、思わず顔の前を手でさっと払った。

「掃除はしているのですが、匂い、気になりますか?」

「あっ、いえ! 大丈夫です」

 慌てて否定したけど、たぶん説得力はなかった。笑って誤魔化しながら、中へ入っていく根本さんとシロさんに続く。

 戸を閉める直前、視界の端に茶色っぽい生き物が走り去るのが見えた。庭の枯れた色合いの中に、ふっと一瞬横切った、紅葉のような明るい茶色。柴犬みたいな動物がいたような気がしたんだけど……開けて周囲を見回してみたが、何もいないようだった。

 二人に遅れて離れの中に上がると、旅館のように片付いている和室が一部屋あるのみだった。十二畳ほどの室内は、石油ストーブのおかげで暖まっていた。

「あの、犬とか飼ってますか?」

 気になって堪らず聞いてみたが、根本さんは不思議そうな顔をした。

「いえ飼っていませんが……?」

「あ、そうですか。……すみません、何でもないです!」

 また笑って誤魔化した。

 もしかしたらさっきのは幽霊か妖怪か……いや野生の狐か狸か? 山や林に囲まれているから、いてもおかしくない気がする。はっきり見えたような気がするから、どちらなのか分からなかった。

 根本さんが寝具は押し入れに入っていること、風呂とトイレは母屋にしかないことを教えてくれた。

「そこの縁側から母屋に入れます」

 障子を開けると、一畳ほどのくれ縁があった。根本さんが窓のカーテンを開けて、母屋を指し示してくれる。数メートルの距離に、母屋の縁側があった。

 シロさんも俺の隣から覗き込む。

「縁側……ああ、あそこですね。夜は鍵をかけてます?」

「いえ、あそこの縁側は鍵をかける習慣がないので。良かったら置いてあるサンダルを使ってください」

「分かりました」

 シロさんが了承する。

 根本さんは首の後ろに手をやりながら、口を開くのを少し迷った後、バツが悪そうに切り出した。

「先ほどは本当にすみません、見苦しいところをお見せして……」

「いえ、気にしませんよ。お父上が亡くなってまだ日が浅い。やるせなさや悲しい気持ちを消化できずに、何かに当たってしまうことはよくあることです。気にしないで下さい」

「……ありがとうございます」

 シロさんの落ち着いた声色に、根本さんは一瞬安堵したように眉尻を下げた。しかし次の瞬間には、眉間に皺を寄せていた。

「……和幸は私がこの家を相続するのを良く思っていないんです」

 苦々しげに呟き、床に視線を落としたまま続けた。

「今まで一緒に暮らしていたのは私ですし、恩を着せるつもりはないですが父を看病していたのも妻です。父の具合が悪くなり始めた頃から、和幸が家を訪れる頻度が徐々に増えたんですが、遺産について口に出すようになりました。恋人を当然のように連れてくるようになって、なにかと私に突っかかってくるようになって……皆、あの桐箱の中身を狙ってるんだ。……和幸も、博兄さんも……俺が貰うものなのに」

 ブツブツとしゃべり続ける根本さんは、目が据わっていた。シロさんや俺の方は見ていない。

「あいつは母さんや父さんの介護も手伝わずに、美味しいところだけ持っていこうとする。……昔からそうだ、俺のことを狡いと妬んでばかりいて……自分の努力不足を、人のせいにして……」

 いつの間にか、部屋の中にいた小さな影の数が増えていた。根本さんの元へ集まっている。足首に、ふくらはぎに、背中に、頭に靄のような異形が纏わりつこうとしていた。

(しげる)叔父さんもそうだった。父の桐箱を狙って、俺から全部掠め取ろうとしてるんだ!」

 肩を震わせ、ぎゅっと拳を握り締めている。大の大人が声を荒げる姿に、思わず一歩後ずさった。

「落ち着いてください」

 シロさんが少し大きめの声で根本さんに声をかけ、「おっと、埃がついてますよ」と言いながら、背中を叩くように払った。くっついていた影が散り散りに逃げていく。

 ふっと肩の力が抜けた根本さんは、自分が何を言っていたのかはっきりしない様子だ。「あれ?」「すみません、私また興奮してしまいましたよね」とキョロキョロと俺やシロさんの反応を伺って焦っている。

「気が立っているんでしょう、仕方のないことですよ」

 シロさんはにこやかに答えると、「ところで」と話題を変えた。

「ここでは全員が根本さんだ。呼び間違えを防ぐため、和孝さんとお呼びしても?」

「えっ……ええ、もちろん構いません」

 拍子抜けしたように根本さん――和孝さんは、何度か頷いた。


 ・


「はぁー……」

 和孝さんが離れを出てから、長い溜息が出た。着いて一時間も経過してないのに、どっと疲れた気がする。そんな俺を見てシロさんがちょっと笑った。けど、俺は笑えなかった。

「笑いごとじゃないですよ。めちゃくちゃ雰囲気悪いじゃないですか」

「想定内だよ。遺品で揉めてるんだ、和気藹々としてるわけがない」

 部外者が歓迎されるはずないだろう、とシロさんは平然と言い放った。分かってたなら教えてくれればよかったのに。

 俺は持ってきていたノートと筆箱を取り出した。持ってきていたっていうか、いつも使ってるリュックで来たから入ってただけだけど。

 ノートからメモ代わりに紙を一枚破る。

「えっと、和孝(かずたか)さんの奥さんが佑香(ゆうか)さんでしたよね?」

「ああ、そうだが。それがどうしたんだ?」

「一気に紹介されたから覚えられなくて」

 初対面の大人の顔と名前をすぐ覚えられるほど、記憶力に自信はない。ほぼ全員名字一緒だし、似たような名前もちらほらあったし。

 テーブルでメモに『依頼人 ねもとかずたか』『妻 ゆうか』と書く俺を見て、シロさんが呆れたように片眉をあげた。

「君なぁ。高校生だろ、いい加減スマホくらい持ったらどうだ?」

「携帯電話は持ってますよ」

 二つ折りの携帯電話をポケットから出して見せると、「そういう意味じゃない」とシロさんは大袈裟に首を振った。

 分かってる。皆スマホを持ち歩いていて、その中にメモを取る機能があるらしいことは。でも俺は電子機器と相性が悪いから、これで充分。

 気を取り直してメモに向き合う。

「弟さんが和幸(かずゆき)さんでしたよね?」

「ああ、その恋人が赤木(あかぎ)サキさんだ」

 メモに『依頼人 弟 かずゆき』と書き込む。シロさんもテーブルの上を覗き込んできた。『依頼人 弟 恋人 あかぎさき』と書き込んで、

「和幸さんの恋人って言ってましたけど、歳けっこう離れてましたよね」

「十は離れてそうだったなぁ。実年齢より見た目が若いのかもしれないが、今時そういうこともあるんだろう。仲も良さそうだったしな」

 シロさんの言葉に、ぴったりと隣にくっついて座っていた二人を思い浮かべる。俺らに対して不信感をあらわにする和幸さんと比べて、赤木さんのほうは表面的にはにこやかな表情だったけど……。

「どうした、彼女が何か気になるか?」

「あ、いや別に……」

 彼女は口角を上げて微笑んでいた。けど、なぜか薄ら笑いを浮かべているようにも見えた。でもなんとなくそう思っただけで、他の人たちのほうがよっぽど態度悪かったし。疑心暗鬼になっているだけかもしれない。

「和孝さんの従兄が(ひろし)さん、奥さんが……えーっと……」

(あずさ)さんだ。亡くなった父親の弟、叔父の息子夫婦……和孝さんがその叔父の名前も言っていたな、『(しげる)叔父さん』って」

「えっ、言ってましたっけ?」

「さっきな」

 さっき……ここでブツブツ言い出したときのことか。集まってきたものに気を取られて、何を喋っていたかちゃんと聞いてなかった。

『依頼人の叔父(父の弟) しげる 息子 ひろし 妻 あずさ』

 名前と関係性を書いて、ペンが止まる。

「子供の名前が何でしたっけ?」

「大学生の兄が博之(ひろゆき)、高校生の妹が朱里(あかり)

「兄がひろゆき、妹があかり」

 妹のほうは最後まで顔をあげなかった。スマホに視線を落として、俯く横顔を黒髪が隠していた。表情はよく分からなかったけど、横幅のある両親と比べて、かなり華奢な顎や肩をしていたと思う。

 兄のほうは、口喧嘩を始めた和孝さんと和幸さんを馬鹿にしていた。大学生だから少し年上のはずだけど、座っていてもたぶん身長は俺より低かった、とそこまで考えてふと、いつの間にか俺について情報が交わされていたことを思い出す。

「そういえば、俺は大学生ってことになってるんですか?」

「あぁ。未成年じゃ泊まり込みに抵抗があるかもしれないからな。君の身長が平均より高くて助かったよ」

「いいんですか、そんな嘘ついて……」

 大学生でもあんまり変わらない気もするけど。というか高校生は深夜労働禁止だから、本来泊まり込みもダメだと思うけど。

 ペンを置こうとした俺に、シロさんは「あとは」と、待ったをかけた。

「和孝さんと和幸さんの下には妹がいるそうだ。今日は来ていないが、明日顔を見せる予定だ。父親の遺言状を管理していた弁護士も、名前は聞いていないがそのメモに追加しといてくれ」

「分かりました。その情報、いつ聞いたんですか?」

「出発前。君が準備している間に電話で少し話したんだ」

「へぇ……」

 いつの間に。スマホを操作していたシロさんが、「そういえば」とこちらへ視線を向けた。

「さっき犬を飼ってるか聞いていたが、何か見たのか?」

「あ、はい。さっき玄関を閉める直前、柴犬みたいなのが横切ったように見えたんです。ちゃんと見たわけじゃないんですけど、けっこうはっきりとした明るい茶色で。でもすぐいなくなっちゃったんで、何だったのかはよくわからないです」

「たしか裏はすぐ林で奥には山だからなぁ。野生動物がいてもおかしくはないような気もするが」

 シロさんは立ち上がると、さきほど縁側が見えた窓を開けた。冷たい空気が一気に入り込む。

「ちょっ、シロさん寒いんですけど」

「すまん、ちょっと我慢してくれ。少し空気を入れ替えよう」

 部屋にいた小さな影が、冷たい風に乗って霧散していく。消滅したわけじゃないが、気がつかないうちにまた室内に集まってきていたようだ。

 古い家にはよくいるとはいえ、少なくとも我が家より数が多い。シロさんもそれには気づいているようだった。

「陰鬱な空気に寄り集まってきているのかもしれないが……少し多いな」

 窓から見える石塀の向こうは、夜へ向けてどんどん明度を下げていた。

 メモに書いた名前の羅列を見て、どう見ても協力的とは思えない態度を思い出す。自然と溜息が漏れた。

「誰かさんはさっさと片付けて温泉にでも入ろうなんて言ってましたけど、これ今日明日で片付く話なんですか?」

「歓迎されてなかったもんなぁ。さて、どうしたもんか」

 シロさんは窓を閉めながら、サッシにしつこくぶらさがろうとしていた鳥っぽい何かを指で弾いた。


 それから程なくして、和孝さんが夕食の用意ができたことを告げに来た。母屋でいただいた夕食は、従兄夫婦が酒を飲むから先にどうぞと俺とシロさんの分だけが用意されていた。

 シロさんが良かったら和孝さんも一緒に、と声をかけてみたが、申し訳なさそうに従兄夫婦に少し付き合う約束だから先にどうぞと言われてしまった。

「ではありがたくいただきます。あ、そういえばお子様たちは?」

 シロさんが忙しなく夕食の支度を続ける佑香さんを横目に聞けば、和孝さんはバツが悪そうに「このところあまり雰囲気が良くないので……子供たちには見せたくなくて」と、子供部屋で食事させていることを教えてくれた。食事中も、今日のような喧嘩や険悪な雰囲気になることが多いのかもしれない。まだ小学生の子供が居心地悪くしてるのかと思うと、ちょっとかわいそうな気がした。

 シロさんはできれば夕食の席で和孝さん以外にも話を聞きたかったようだけど、佑香さん以外が顔を出しに来ることもなく、さっさと食べ終わってしまった。手持ち無沙汰でいる俺たちを気遣ったのか、風呂も勧められて早々にシャワーを借りたあと、俺とシロさんは離れに引っ込むことになった。


「八時半か。眠るにはまだ早いな」

 寝巻きに着替えて腕を組みながら、シロさんが呟く。視線の先の壁掛け時計は八時を過ぎたところだった。

「でも来てほしくないみたいでしたよ」

 分かってる、と返事をするシロさんは深くうなずいた。

 探し物を始めたいシロさんの様子に気づいたのか、和孝さんは俺たちに「移動で疲れてるでしょうから今日はゆっくり休んでください」と暗に離れへ戻るよう促してきたのだ。早く見つけて欲しいはずなのにのんびりしてていいのかと思ったけど、シロさんは「車で往復四時間かけて移動して、疲れが出てきたんだろ。これから晩酌もあるしな」と納得しているようだった。

 なるほど、たしかに和孝さんは昼間会ったときより顔に疲労の色が濃くなっていた。

「それに奥さんもな。一人じゃ大変だろうに」

 離れに戻ってきてから、シロさんにそう言われて気づいたのは佑香さん一人で夕食の支度をしていたこと。他の人たちは誰も顔を出さなかった台所で、全員分の食事を用意していた。

「明日、朝食の準備手伝ったほうがいいですか?」

「料理できるのか?」

「あんまり……でも皿並べるくらいはできますよ! 手伝いながら何か話が聞けるかもしれないし」

「お、仕事熱心だな」

「早く帰りたいだけです」

 からかわれてるみたいな気がして、むっとして言えばシロさんは軽く笑った。

「気持ちだけにしておこう。女性は自分以外の人間が台所に入るのをよく思わないことが多い。まして俺たちは知り合ってまだ間もない、何かと気を遣わせてしまうかもしれない。自分の意見をはっきり言えるタイプの女性じゃなさそうだしな」

 良い案だと思ったけど、そう言われてみたらそんな気がする。


 眠るにはまだ早いと言いながらも、やることがないので俺とシロさんは早々に布団に入ることになった。

 慣れない場所での緊張のせいだろうか。布団に入ると、驚くほどすぐに意識が沈んでいった。石油ストーブが消えた後の、冷え冷えとした空気も、今は心地よい重みに感じられた。



 どれくらい眠ったのか。

 ――ガタッ。  ……ガタ、コト。

 古い木の枠が震える、低く重い音。繰り返されるその音は、時々ガシャンと小さくガラスと木が触れ合う音が混じる。玄関の引き戸を叩く音のようだった。

「……ん」  重い瞼を押し上げると、視界の端で、隣の布団に寝ていたシロさんが上体を起こすのが見えた。ぼんやりそちらへ視線を移すと、薄暗い室内でも静かに玄関の方を見据えているのが分かる。

「……シロさん。誰か来たんですかね?」

「分からない。だが、人間じゃなさそうだ」

 シロさんの言葉に、一気に眠気が吹き飛んだ。

 静かに立ち上がり、俺も恐る恐るその背中に続いた。

 二人で音のする玄関へと向かう。玄関の格子状の木枠にはめ込まれたすりガラス、その向こう側に――巨大な、真っ黒い影がいた。



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