6-4. 浮かぶ梅の実
雨がフロントガラスを叩き、視界をぼんやりと遮る中、シラカバさんの車――白いSUVは滑らかに市内を走り出した。
助手席に乗せてもらったものの、窓の外は雨のせいで変わらず薄暗い景色だ。けれど、景色を楽しむためのドライブではないから、そんなことはどうでも良かった。
「中学生活はどうだ? この時間に下校ってことは、部活には入らなかったのか?」
シラカバさんが前を向いたまま、何気ない口調で話を振ってきた。
「はい。帰宅部っていうか……なんか一応、名前だけの筋トレ部みたいなのには入ってるんですけど、行かなくてもいいやつなんで」
「なんだそりゃ」
シラカバさんは少しだけおかしそうに笑うと、軽快にハンドルを切った。
そういえば、こうしてシラカバさんと二人きりで話をするのは、これが初めてかもしれない。いつもは家に祖母や母がいたし、ふらりとやってきて土産を渡されたことはあっても、彼はすぐに帰ってしまっていたから。
そう意識した途端、なんだか急に喉が渇きはじめた。
「……さっきの、なんですけど」
俺が決意を固めて切り出すと、シラカバさんはすぐに察して教えてくれた。
「子供二人の後ろについていったもののことだろう。おそらく『雨降り小僧』か『唐傘小僧』の類だったんだろうと思うよ。ちょっと人間を驚かせて面白がりたいだけの、昔話に出てくるような古典的な妖怪だ。俺が君の名前を呼びながら道路を渡ったときに、目が合って逃げていった。遠目に見ただけだから、もしかしたら別のやつだったかもしれないが……雨の日に、ちょっとした悪戯をするのが好きなんだ」
「……」
……妖怪がいる、って当たり前のように言うんだな……。
さっきのが何だったのかを瞬時に特定していることにも驚いたが、何より、何の迷いもなく『当然存在し、見えている』という前提で話をする姿に衝撃を受けた。
「どうした? 君にも見えていたんだろう」
何も言葉を返せないでいる俺に、シラカバさんが静かに問いかけてくる。
「……はい、見えていました。……あの、シラカバさんは、いつもああいうのが見えるんですか?」
「ああ、たぶん生まれたときからな。君もそうなんだろ? 君の父さんもそうだった」
「!」
そっか、だから……。
「はい。……父さんや、おじいちゃんとも、そういう……妖怪とか幽霊の話をしたんですか?」
「もちろん。むしろ、それで意気投合して仲良くなったようなもんだよ。色んな話をしたよ。二人も俺も、同じくらいに見える人間だったからな」
シラカバさんは懐かしそうに目を細めて笑った。
それを聞いた瞬間、なんだかとても不思議な感覚だった。嬉しいような、胸の奥で氷がじんわりと解けて広がっていくような安堵感。
けれど、その喜びもすっと冷める。
……そっか。俺も大人になってもずっと、見え続けるんだ……。言いようのない不安は、消えることはないのか。
そんな俺の内心の動揺を知ってか知らずか、シラカバさんは淡々と語り始めた。
「俺はね、人より多くのものが見えることが、それほど嫌だとは思わなかったんだ。もちろん幼少期は怖かったし、実際に危ない目に遭ったことも一度や二度じゃない。だが、それ以上に好奇心の方が勝ってしまったんだよ。未知の世界への興味、というやつだな」
ワイパーが雨水を払う音だけが規則正しく響く。
「……ただ、見えないものが見える人間というのは、見えない人間から見たら『嘘つき』か『頭のおかしい奴』になる。俺の両親は、どちらも全く霊感のない人間だった。そのせいで両親とは全くそりが合わなくてなぁ……俺は中学に上がるタイミングで、地元を離れてここ石森市にある叔父夫婦の家に身を寄せることになったんだ。そして、君のおじいさんに出会った」
シラカバさんは前を向いたまま、昔を懐かしむように言葉を続ける。
「そこから君のおばあさんや、君の父さんに出会って、その後、君の母さんにも出会った。子供のいなかった叔父夫婦は俺を本当の息子のように可愛がってくれたし、君の家族とも深く仲良くさせてもらってね。俺の中学、高校時代は、本当に楽しいものだったよ」
当時の光景を思い浮かべているのだろうか。父と母の学生時代なんて、俺には上手く想像できなかった。
饒舌に話すシラカバさんは、ハンドルを切った。家に送ってくれると言っていたけど、遠回りしているようだった。
「大学進学を機に、東京に出たんだ。そこで、今の仕事を一緒に始めることになる相棒に出会って、――そいつもよく見えるやつで、在学中に悪ノリ半分で今の相談所を立ち上げたんだよ」
「……相談所、ですか?」
「ん? あ、ああ。何でも屋って言っただろ?――『なんでも相談所』だ。名前の通り、どんな相談でも受け付けますよと言って、文字通り何でもやった。……って言っても、普通の困り事ならその道のプロに頼むだろ? だが、その道のプロがなかなか見つからない場合や、他人に言いたくない類の悩み……つまり、オカルトや心霊関係の相談が、メインとして舞い込んでくるようになったんだ」
幽霊や妖怪とは一秒でも長く関わりたくないと考えている俺にとって、理解しがたい生き方だった。
けれど俺は何も言わず、ただ彼の話に深く聞き入っていた。
「面白い相談もあれば、つまらないもの、本気で大変な目に遭ったこともあった。オカルト以外の悩み事もな。世の中、そういう人知れず困っている人間というのは意外と多くて、仕事にはだんだんと困らなくなった。大学を卒業してからも、そのまま本業として飯を食っていけるくらいには。だから俺はずっと東京で仕事を続けていたんだ。……たまに、こっちにもふらりと帰ってきてはいたんだけどな。君の両親の結婚式に出席したり」
シラカバさんは一瞬だけ俺の顔を見て、ふっと笑った。
「ただ、その結婚式の翌年。俺は、とんでもなく厄介な相談を受けてしまって、そこからしばらく身動きが取れなくなってしまったんだ。大体、十年くらいかな」
「……あ。もしかして、外国に行っていたっていう時期ですか?」
以前、母と祖母が話していた会話が脳裏をよぎる。祖父や父が亡くなったときも含めて、連絡が全く取れない時期があったと。
「はは、そうだな。見えない人間に言っても信じてもらえないし、余計な心配をかけるだけだから、世間には『海外に行っていた』と説明しているんだ。……実を言うと、はっきりとそれがどこだったのか、俺自身にも上手く断定できないんだ。ただ、確かに日本のどこかであって……この世とあの世の、ちょうど狭間のような場所だったのかな、あれは」
シラカバさん自身の言葉にも、当時の記憶を反芻するような、どこか不安定な揺らぎが滲んでいた。
この世と、あの世の狭間――。
その浮世離れした単語を聞いた瞬間、俺は以前からシラカバさんに対して抱いていた疑問を思い出した。
気づけば、その問いが衝動的に口をついて出ていた。
「……シラカバさんは、人間、なんですよね?」
「えっ?」
「あ、いや、なんか……初めて会ったときから、見た目が全然変わらないから」
俺の突飛な質問に対し、シラカバさんは一瞬きょとんとしたあと、ぷっと吹き出した。
「くくっ……そうだよな、やっぱり気づくよな」
ひとしきり笑ったあと、彼はハンドルを握る手を少し緩め、「どうなんだろうな」と、今度は静かに呟くように言った。
どう、とは……一体どういう意味だろう。
俺が思考を巡らせていると、シラカバさんが口を開いた。
「詳しい話は長くなるから、まぁそのうちな。……俺は昔、ある人に――それも、人間と言っていいのかは分からない存在だが――自分の『老い』をあげたんだよ。そこから、俺の身体は年齢を取らなくなった。二十九歳の頃のままだ。だから、見た目はずっと二十九歳のままで止まっているんだ」
「『老い』を、あげた……?」
――二十九歳。俺は運転席に座るシラカバさんの横顔を、ついじろじろと観察してしまった。
老いをあげる、という意味は全く理解できなかったけれど、確かに、その年齢はしっくりくる。三十歳前後……少なくとも、年下のはずの母より若く見えるのは事実だった。
「人間としての年齢を普通に数えるなら、今年で四十三だな。君の両親より三つ年上なんだ。君とはちょうど、三十歳差か」
「三十歳差……。その、老いをあげたって……老いって、年を取るってことですよね?」
「そのまんまの意味だよ。どうしてもそれが必要な人がいたから、あげたんだ」
「はぁ……?」
全然意味が分からない。
ちらりと視線を向けていたが、シラカバさんの表情を見るに、これ以上ここで詳しく説明してくれる気はなさそうだった。
「……これからもずっと、年を取らないんですか?」
「おそらくな。だから、今俺が純粋な『人間』だと言い切ってしまっていいのかは、自分でも断言できないんだ。ただ、日本で生まれて育った日本人だし、老いをあげたこと以外は普通の人間のつもりではいるが。……まぁ、いつかまた、普通に歳を取ることができるようになるかもしれないしな。何かきっかけがあれば、こうやって年を取らなくなることがあり得るんだから、逆にまた年を取るようになることがあったっておかしくはないだろ?」
「そう、ですね……」
そうなんだろうか……。なんだかもう、よく分からなくなってきた。
シラカバさんは年を取らない。たぶん、これからもずっと。
けれど、いつかまた年を取り始めるかもしれない……それは、どうか分からないけど。
想像もしていなかった情報を一度に叩き込まれ、それを頭の中で整理しようとして、俺の眉間には自然と力が入っていた。
そんな俺の様子を察したのか、シラカバさんが声をかけてきた。
「中学で部活もやってないなら、放課後も休みの日もずいぶんと暇だろ。たまに、うちの相談所の仕事を見学しに来るか?」
「暇、ってわけじゃ……」
「君、友達もいないだろ? ずっと家に一人でいるの、つまらなくないか」
「! 友達は、別に……。っていうか、なんでそんなこと思うんですか」
図星を突かれて、俺は少し声を尖らせた。
「小学校のときから、いつも寄り道もせず真っ直ぐ家に帰ってくるじゃないか。中学生になっても部活をやらずに直帰しているし。君の母さんから聞いたが、周りの子が持っているようなスマホが欲しいと、一度もねだったことがないらしいな」
「……」
……何も言い返せなかった。全部、その通りだったから。
「ま、気が向いたときでいいけどな。でも、ただずっと怯えて見ないふりを続けているよりは、それがどんなものなのか、一度覗いてみるのも悪くないと思うぞ」
シラカバさんの言葉が、雨音の向こうから静かに鼓膜へと染み込んでいく。
「……じゃあ、気が向いたら。……お願いします」
俺は意図せず小さくなった声で、そう答えた。
車は我が家の前に到着し、俺はシラカバさんの車を降りた。
玄関をくぐる直前、ふと振り返ると、いつの間にか雨は完全に止んでいた。
厚い雨雲の切れ目から、柔らかい夕明かりが差し込んでいるのが見えた。




