2-10. 消えた桐箱
俺は重い足を引きずって、母屋の中へ戻った。
広い玄関に入るとやはり空気の重さが違う。相変わらず小さな影もウロウロしていて、その数が増えているような気もする。
そのまま二階の子供部屋へと向かった。シロさんに言われたからじゃないけど、さっき泣きそうな顔をしていた夏美ちゃんのことが気にかかっていたから。母親の佑香さんが一緒に行っていたし、小さい子供の慰め方を知らない俺が行く必要はないと思う。でも子供部屋はこの家の中にあって唯一と言える明るい空間だったから、自然と足が向かってしまっていた。
静かに二階へ上がり、子供部屋の障子戸をそっとノックする。
「藤見です。あの、入ってもいいですか?」
「どうぞ」と、聞こえたのは大人の女性の声だった。
開けると、そこだけは一階の重苦しさが嘘のように、明るく柔らかな空気が流れていた。
「……あ、お兄ちゃん」
春斗くんが俺に気づいて声を上げた。ローテーブルの手前、ラグの上に夏美ちゃんを挟んで春斗くんと和美さんが座っていた。佑香さんはいないようだった。
和美さんは自分のスマートフォンを二人の間に置き、何か動画を見せているようだった。画面からは「ワン、ワン!」という犬の鳴き声が聞こえてくる。
「……夏美ちゃん、大丈夫?」
俺が声をかけると、夏美ちゃんは少し目を赤くしていたけれど、小さく頷いた。
「うん……今、ぷちの動画見てる」
近くへ行って覗き込むと、画面の中では小柄な柴犬が尻尾を振って走り回っていた。夏美ちゃんはまだ笑顔とまではいかないけれど、その様子をじっと見つめて、少しずつ落ち着きを取り戻しているようだった。
「あの、……先ほどは驚かれたでしょう。お見苦しいところをお見せして、すみません」
和美さんが申し訳なさそうに俺を見上げて言った。
「いえ、俺は大丈夫です。……あー、なんか、サキさん、機嫌が悪かったみたいですね」
こういうとき、シロさんだったらもっと気の利いたことを言うんだろうな。
「……昨日はもっと、こう……穏やかな感じ、だった気がするんですけど」
言葉を選んでそう言ったけど、もう正体が妖怪だと分かっている以上、自分で滑稽なことを言っている気がした。
でも和孝さんも和美さんも驚いているというよりは、怒ってる、怯えているようだったから、ああいう態度を見せたのは初めてじゃないのかもしれない。シロさんはそこまで賢い妖怪じゃないと言っていたし、感情のままに態度を変えていたのかも。
そんなことを考えていると、
「……私、彼女に嫌われているみたいなんです」
和美さんが、ふと自嘲気味に呟いた。
「えっ、そうなんですか?」
「ええ。私がいる時は、いつもああやって刺々しくて……。廊下ですれ違うときなんかは、露骨に避けられていました。……私、彼女に何か失礼なことでもしてしまったのかもしれません」
困惑したように眉を下げる和美さんを見て、俺は考え込んだ。
サキさん……野狐が、特定の誰かを嫌っているってことだよな。妖怪にも好き嫌いとかあるんだろうか。
和幸さんの痩せてやつれている様子を見るに、彼はたぶん取り憑かれている状態だ。厳密には「取り憑かれている」というのはちょっと違うのかもしれないけど、サキさんとずっと一緒にいることで、だいぶ影響は受けてしまっているんだと思う。生気が吸い取られている、とでも言うのか。
野狐が何匹いるのかは分からないが、家全体に影響が出ている結果が孝蔵さんの体調不良とそれが続いたことによる死なんだとしたら、個人的に影響が大きいのが和幸さんか。
和孝さんは、まだそこまで影響が出ていない気がする。時折様子がおかしくなることもあるけど、すぐ正気を取り戻すし……でももしかしたら多少の自覚があるからこそ、うちみたいな怪しいところに相談したのかな。
和美さんは嫌われているとは言うけど、彼女本人に様子がおかしいことはない。会ってまだ数時間だけど、至って普通の人に見える。あ、でも孝蔵さんが体調を崩すようになってから、和美さんもこの家に来ると少し具合が悪くなるって言ってたっけ。
「サキさんって、いつから和幸さんと付き合ってるんですか?」
「え?」
聞き返されて、あまりに不躾な質問だったかと思ったが、和美さんは斜め上を見るように視線を動かしながら十秒くらい考えると、
「たしか、お父さんが倒れてから……数ヶ月後だったと思います。私は初めて彼女を家に連れてきたときはいなかったので、どういう雰囲気だったのか分かりません。でも兄さんから話には聞いていました。『和幸が彼女を連れてきた』って」
この兄さんは和孝さんのことだよな。やっぱり和孝さんと和美さんはけっこう仲が良さそうだ。
「……その、こんなこと聞いていいのか分からないんですが、あの二人ってどういう風に知り合ったんですか? なんか……けっこう歳が離れて見えるなって思って」
失礼なこと言ってるかもしれないと思ったが、和美さんは特に気にした様子もなく答えてくれた。
「『家の近くで知り合った』って言ってたそうです。あ、家ってこの家です。年齢が離れているのは見てすぐに分かったので、兄さんも不思議に思って聞いたみたいなんですけど……詳しいことはあまり」
そう言いながら、子供たちを気にしてちらりと視線を夏美ちゃんと春斗くんへ向けたが、二人はスマホの画面に見入っていた。
「最初は感じの良い人だったみたいなんです。美人だし、いつもニコニコしていて、『和幸があんな美人捕まえるなんて』って父も喜んでいたみたいで。でも兄さんは『和幸が付き合うにはちょっと若すぎるんじゃないか』って……サキさんのいないところで、和幸兄さんに言っちゃったみたいで。『本当にちゃんと付き合ってるのか』って、兄さんなりに心配していたみたいなんですが、ちょっと正直すぎるんですよね。もう少し上手いこと聞けばいいのに……」
そう言って口を閉じた和美さんは、寂しそうに目を伏せる。
和孝さんはサキさんのことを、妖怪とは気づかなくとも、ある意味怪しい存在として警戒していたのかもしれない。
佑香さんはよく分からないけど、子供たちは何の影響も受けてなさそうに見える。さっきはサキさんに怒鳴られて泣いていた夏美ちゃんも、春斗くんも至って普通、健康そうに見えるし。
何よりこの子供部屋が明るくて、空気が綺麗だ。
なぜなんだろう、場所の問題とか? だったら他の二階の部屋も見せてもらったほうがいいかな。でも今はシロさんいないし、案内してもらってない部屋に勝手に入るのは良くないよなぁ……。
結局、桐箱はまだ見つかってない。もう一回くらい書斎と寝室を見ておいたほうがいいのかな。でも和孝さんが探したって言ってたから、俺一人で探したところでたいした収穫は得られなそうな気もする。
このあとどこに行くか考えたとき、ふと思い出した。
玄関で鍵の仕舞い場所を教えてもらったとき、和孝さんはこう言ってた。
『この中に鍵を入れているんです。車の鍵、家の鍵、蔵の鍵……引き出しの鍵もここに置いていました。これです』
この家には蔵があるんだ。
和孝さんは何も言ってなかったけど、探したのかな。もし和幸さんや博さん、身内が盗んだなら持ち出す前にこっそり隠してたりしそうな気もするけど。
庭の方かな、和孝さんに聞いてみよう。




