2-9. 消えた桐箱
母屋の茶の間に入った瞬間、俺は思わず足を止めた。
そこには、昨日の初対面時よりもさらに険悪な空気が、澱みのように溜まっていた。テーブルを囲んでいるのは、和幸さんとサキさん、和孝さん、そして和美さん。和美さんは縮こまるようにして居心地悪そうに箸を動かしているが、向かいの和幸さんは何が気に入らないのか、カチャカチャと音を立てて皿を突っついている。その隣に座るサキさんは、美しい顔を隠そうともせずに不機嫌そうに歪めていた。
「おや、和幸さんとサキさんもお揃いで。お邪魔します」
シロさんがいつものにこやかな調子で声をかけたが、二人は俺たちの方を見ようともしなかった。返ってきたのは皿を置く荒い音だけだ。
「……すみません、お気になさらず」
和孝さんが申し訳なさと疲れが混じったような顔で、小さく溜息をつきながら俺たちを促した。シロさんは「いえいえ」と全く気にせず笑顔のままだが、俺は気まずくて視線を泳がせてしまう。
和幸さんはともかく、サキさんは昨日はもっと、こう……愛想良く笑っていた気がしたんだけど。今日はまるで別人みたいに人相が悪い。つり目をより吊り上げて、口元も歪んでいる。それに、彼女に寄り添われている和幸さんは昨日より顔色が悪く、少し頬が削げているように見えた。
席が空いていなかったので、俺はサキさんから出来る限り(と言ってもこぶし三つ分くらい)間を空けて隣に腰を下ろした。俺のすぐ隣にシロさんが滑り込むように座る。
「あれ、武田さんは昼食をご一緒されないんですか?」
「仕事の電話がかかってきて、急遽戻られました。何かまだ聞きたいことなどあれば、連絡しましょうか?」
「そうでしたか。いえ、今のところは大丈夫です」
シロさんと和孝さんの会話が終わるとちょうど、台所から佑香さんが俺とシロさんの分を運んできてくれた。
「お待たせしました。温かいうちに食べてくださいね」
昼食はソース焼きそばだった。湯気が立ち上る濃いソースの香りは本来なら食欲をそそるはずだけど、この凍てつくような空気の中では、なんだかそこだけ浮いているように感じた。
「ありがとうございます。いただきます……」
俺がお礼を言って割り箸を割った、その時だった。
「あっ! おじさん、お兄ちゃん」
廊下からパタパタと足音が響き、夏美ちゃんが茶の間に顔を出した。
「夏美、ご飯は子供部屋に持っていくって言ったでしょ」
佑香さんが嗜めたが、夏美ちゃんの手には何やらカラフルな紙の塊が握られていた。彼女は俺たちのほうへ駆け寄ると、和美さんの姿を見て「あ!」と声をあげた。
「和美おばちゃん、来てたんだ! ぷち、元気?」
「うん、ぷちは元気だよ。夏美ちゃんも元気そうだね」
「ぷち?」
シロさんが聞くと、和美さんが「飼っている犬の名前です」と教えてくれた。小柄な柴犬を飼っているそうだ。
「ねえ、これあげる」
夏美ちゃんが俺とシロさんの前に、小さな手を差し出した。手のひらには折り紙で丁寧に折られた、二匹の犬が乗っていた。
「さっき見てたでしょ。また折ったからあげる。おじいちゃんの部屋のそうじ、頑張ってね」
「ありがとう、夏美ちゃん。大切にするよ」
シロさんが受け取ると、俺も「ありがとう」とそれを受け取った。
――ガシャン!
突然、隣で激しい音が響いた。
ビクッとして見ると、サキさんが自分のコップをテーブルに叩きつけていた。中のお茶が激しく飛び散り、テーブルに広がっていく。
「……うるさいわね、さっきから」
サキさんはジロリと射抜くような冷たい視線を夏美ちゃんへ向けた。その瞳は怒りというよりは、何かおぞましいものを忌み嫌うような、どす黒い感情に満ちていた。
「子供は部屋で静かにさせておきなさいよ!」
夏美ちゃんから俺の手の中にある折り紙へ視線を移し、彼女は汚物でも見るような目で睨みつけていた。
「……っ」
固まっていると、すぐそばで息を呑むような声が聞こえた。夏美ちゃんの顔が、恐怖で一瞬にして強張った。大きな瞳にみるみるうちに涙が溜まっていく。
「ちょっと、っ!」
佑香さんが夏美ちゃんに駆け寄り、肩を抱き寄せた。震える娘を隠すようにして、逃げるように茶の間から連れ出していく。廊下からパタパタと足音が遠ざかっていくのが聞こえた。
「怒鳴る必要はないだろう!」
和孝さんが強い口調でサキさんを非難した。首元が赤く染まり、声が少し震えている。怒っているようだが、俺やシロさんの手前堪えているのかもしれない。
しかしサキさんは和孝さんを睨みつけるだけ、代わりに和幸さんが口を開いた。
「うるさいのをうるさいと言って、何が悪いんだよ」
「お前……! うるさくなんてなかっただろ、ここは俺の家だぞ、文句があるなら出ていけ! 大体、葬儀の片付けを手伝うと言いながら、何もしないで部屋に引きこもってばかりじゃないか! 何しに来てるんだ!」
和孝さんは余裕がなくなったのか、立ち上がって怒鳴りつけている。負けじと言い返す和幸さんも立ち上がり、怒号が飛び交う中、俺はただ呆然と座っていることしかできなかった。
和美さんはどうしたら良いか分からないようで、震える手で箸を握りしめながらオロオロと視線を彷徨わせている。シロさんはといえば、嵐が過ぎ去るのを待つように静かに座り、その鋭い視線は和孝さんでも和幸さんでもなく、じっとサキさんの横顔を観察していた。
サキさんは煩わしそうに和孝さんを睨みつけていたが、ふとその視線が隣にいた俺に移った。
その時、俺の鼻を強烈な匂いが突いた。
それは床下で嗅いだあの不快な獣の臭い。だけど、あの時よりもずっと濃く、生々しい。彼女の体から噴き出しているように感じた。
サキさんは和孝さんを睨みつけたまま、低く、喉を鳴らすような声で言い放った。
「……もういいわ。和幸、行きましょう」
サキさんは食べかけの焼きそばをそのままに、乱暴に椅子を引いて立ち上がった。和幸さんも糸が切れた人形のような足取りで、彼女の後に続く。
バタン、と廊下の向こうで襖が乱暴に閉まる音が聞こえ、茶の間には重苦しい沈黙だけが残った。
和孝さんは力なく椅子に座り込み、額を押さえて深く溜息をついた。和美さんは何も言えず、ただ自分の膝の上を見つめている。
俺は手のひらの中にある小さな折り紙をそっと見つめた。 夏美ちゃんがくれた、茶色の折り紙の犬。よく見るとシロさんが高そうだと言った柄の折り紙で折られていた。
和幸さんとサキさんが出て行ったあとの茶の間には、重苦しい沈黙だけが残った。
気まずい……というか、あまりの豹変ぶりに驚いたし、まだ心臓が落ち着かない。
「和孝さん。午後も引き続き敷地内を調べようと思いますが、買い出しにも行くため少し出かけると思います。調査に必要なものがありまして」
シロさんが声をかけると、和孝さんは「あ、ああ……よろしくお願いします」と、魂が抜けたような声で答えた。さきほどのやりとりで疲れているようだった。和美さんはまだ焼きそばが残っていたが、小さくごちそうさまを言うと皿を持って立ち上がり、台所のほうへ行った。
せっかくの焼きそばも、もうすっかり冷めてしまっていた。味もよく分からない食事を早々に終え、俺とシロさんは足早に茶の間を後にした。
廊下に出て、玄関へ向かう角を曲がったところで、俺は堪らず声を潜めて切り出した。
「シロさん。さっきのサキさん、あれ、もしかして」
「気づいたか? まぁ、あんなに露骨に獣臭をさせていたら、バレバレだな」
シロさんは足を止めずに、事も無げに言った。
「やっぱりそうですよね。人間に化けてるってことですよね、昨日は全然気づきませんでした……」
「化けるのはなかなか上手いようだが、感情が昂ると詰めが甘くなる。……和幸さんの様子がおかしいのも、彼女のせいだろうな」
このまま気づかなかったらと思うと、ゾッとする。
玄関から出ると、シロさんは「さて、俺はちょっと街まで行ってくる」とポケットから車のキーを取り出した。
「さっき言った通り、野狐を追い出すための殺鼠剤を買いにな。君は残っててくれ」
「えっ、一人でですか?」
「どうしても危険を感じたら逃げてもいいぞ。野狐はたいして賢い妖怪じゃないし、直接命の危険があるほどの危害は加えられないはずだが……君は妖怪には好かれやすいしな。……でも、子供たちの様子が気になるだろ?」
シロさんはそう言って、自分のポケットから、夏美ちゃんがくれたばかりの折り紙の犬を取り出した。
「そうだ、これは君が持っていたほうがいいな」
「え、何でですか?」
「何でって……俺は出かけるから、君が持っている方が役に立つかもしれないだろ」
「はぁ……」
よく分からないが、引っ込める気はないようなので受け取った。俺のとは柄が違う、黄色と白色の和柄で折られた犬だった。
「すぐ戻る。もし何かあったら連絡してくれ」
シロさんはそう言い残すと、ひらひらと手を振って、門から出て行った。エンジンがかかる音が聞こえ、白いSUVが動き出したのが見えた。
遠ざかるエンジンの音を聞きながら、俺は一人、玄関先で立ち尽くした。
手の中にある二つの折り紙の犬。
シロさんがいなくなった途端、背後にある巨大な屋敷が、急に呼吸を止めた化け物のように不気味に静まり返っている気がした。
振り返って室内へ戻るのを、ちょっとだけ躊躇ってしまった。




