3-5. 蜘蛛の糸
「ぶはっ、……!……はぁ、はぁ、はぁっ!」
水面から顔を出し、俺は狂ったように空気を吸い込んだ。
冷たい水が全身を叩き、濡れた肌を夜風が容赦なく切り裂く。あまりの寒さに視界がチカチカと火花を散らした。
ここ……どこだ、早く、上がらなきゃ……っ!
パニックになりながら目を見開くと、頭上の夜空には、丸い月の隣で星々が瞬いているのが見えた。その光に少しだけ正気を取り戻すと、足の裏に確かな感触があることに気づく。泥を掴むような、重たい土の感触。
震える足でしっかりと立ち上がり、辺りを見渡した。
立てば腰より少し上、深い場所でも胸の下くらいまでの深さしかない。死に物狂いでもがいていた場所が、実は足のつく深さだったと気づく。
這うようにして池から上がると、夜の空気が濡れた体に容赦なく突き刺さった。重くまとわりつく衣服を脱ぎ捨てる気力もなく、俺はただガチガチと歯の根を鳴らして震えることしかできない。
「……ここ……石巖寺、か……?」
月明かりに照らされた境内の景色が、網膜に焼き付く。俺は、あそこから、蓮の浮かぶ池へと戻ってきていた。
その時、静まり返った境内に、複数の足音が響いた。
「こっちから水音がしました!」
坊主たちの焦った声に混じって、聞き慣れた低い声が届く。懐中電灯の光が俺を捉えた瞬間、坊主たちと一緒に、シロさんが駆け寄ってきた。
「……やっと見つけた」
光の逆光で顔はよく見えない。けれど、俺の手を取ったシロさんの声は、いつもの飄々とした調子とは似ても似つかない、安堵にあふれたものだった。
寺の一室、ストーブの爆ぜる音が心地良い。俺は着替えを借り、分厚い毛布に包まって熱い茶を啜っていた。隣ではシロさんが、苦り切った顔で俺を見つめている。
「電話している間に消えたから驚いたぞ。梨奈は『一人で帰るって言ってましたー』なんて呑気に言っていたが、送ると約束したのにおかしいと思ってな。……君が俺に何も言わずに帰るなんて、まず考えられないからな」
部屋の時計は、二十二時を過ぎていた。相談所を出たのは十八時前くらい。約四時間、あの場所にいたことになる。
「どこか寄るような……仲の良い友達の家でも近くにあったら気にしないんだが、君、友達いないだろう」
……否定はしないが、今言う必要があるだろうか。
そう思ったが、反論する気力もなかった。しゃべるのも億劫だった。
たしかにシロさんの言う通り、帰りも送ってもらう話だった気がする。なのに、一人で外に出たのか。……どうしてそうしたのか、自分のことなのに全然覚えていない。
一つだけどうしても気になって、重い口を開く。
「どうして、俺がここにいるってわかったんですか……?」
「俺も皆目見当がつかなかったよ。ただ、今日午前中にここで手伝いをしていたのを思い出してな。もしかして寺に忘れ物でもしたかと思って、立ち寄ったんだ」
そう言って、シロさんはテーブルの上に置かれた最中を手に取った。ずぶ濡れのコートのポケットから出てきた、蓮の花の模様。シロさんはその模様をそっと撫でた。
『今は地下茎から伸び始めたばかりの、若葉が見られる状態なんだ』
坊主の一人が言っていたことを思い出す。
……俺が掴んだのは、蓮の茎だったのかな。
手に持っていた湯飲みをテーブルへ置く。手に、あまり力が入らない。意識が、遠のいていく。温まりすぎたのか、それとも熱が上がったのかな。
「でもまぁ、無事でよかった……おい惟、大丈夫か?!」
シロさんの慌てた声を聞きながら、俺の意識はぷつりと途切れた。
・
その後二日間、俺は風邪による高熱で寝込んだ。
母には「手伝いの最中に誤って池に落ちた」と説明し、リュックの中身まで濡れているのは「帰り際だったから」と適当にごまかした。腑に落ちない顔をしていたけど、シロさんがお見舞いに来て監督不行き届きだったと謝ってくれたら、母が「むしろこちらこそ申し訳ない」と謝っていた(寝ているとき、そんなやりとりがぼんやりと聞こえてきていた)。結果として誤魔化せていたと思う。
寝込んでいる間、食欲はなかったけれど、母が作ってくれた卵がゆは美味しかった。
「もう、高校生にもなって何やってるんだか……」
「お手伝いするのはいいけど、無茶はしないように」
母も祖母も、同じようなことを言っていた。祖父母と親子だったのは父で、祖母と母は血が繋がっていないのに、なぜか寝ている俺を覗き込む表情はそっくりだった。
部屋の中を我が物顔でうろうろしている小さな異形たちはいつも通りうっとうしかったけれど、高熱で魘されている間、なぜか悪夢は見なかった。
ようやく熱が下がり、絶望が襲ってきたのは三日目の朝だった。
「……サイアク」
せっかく書き上げた読書感想文は、水にふやけて文字が滲み、使い物にならない無残な紙屑に変わっていた。本のコピーも同様だった。
新学期まであと数日。俺は記憶を頼りに、最初からすべて書き直す作業を強いられることになった。
・
春休み最後の日。
相談所に顔を出すことにしたら、病み上がりを心配してシロさんが迎えに来てくれた。車の中で、俺は改めてあの夜の出来事をすべて話した。
「あれは、やっぱり……裁縫箱のもとに現れた老婆の息子、だったんでしょうか」
「……そうだろうな」
シロさんはハンドルを握ったまま、静かに頷いた。
「あの後、梨奈が調べてくれたんだ。君がちょうど男と出会ったあたりにあるアパートで、数ヶ月前に自殺した男がいた。死ぬ約一年前に妻と子供に出て行かれた、無職で借金のある男だった。……ロープで、首を吊っていたそうだ」
「そうですか……」
「君は、気づかないうちに男に呼ばれてしまったのかもしれないな」
風邪を引き始めていたところだったから。体も意識も弱っているときが引っ張られやすくなる、とは前にシロさんに聞いた話だった。
相談所が見えてきたところで、「あ、」とシロさんが何かを思い出したように言葉を漏らした。
「だが、一つ訂正がある。老婆は幽霊じゃない」
「えっ……?」
聞き返したところで、車は相談所の駐車場に停止した。
車から降りて中へ入ると、梨奈さんと和華子さんが温かく迎えてくれた。
「惟くん、具合大丈夫なの?」
「病み上がりでしょう、無理はしなくていいからね」
「ありがとうございます。はい、もう大丈夫です」
梨奈さんが淹れてくれた紅茶を受け取る。今日はそれほど寒くないけど、カップを持つと、手のひらにじんわりと温かさが伝わってきた。
すぐそばのテーブルでコーヒーを頼んでいたシロさんに、俺は声をかけた。
「シロさん、さっきの話の続きなんですけど……」
「ああ、老婆の話だろう。それなんだが……あ、電話だ。すまん、梨奈説明してやってくれ」
話を遮るように鳴りだしたスマホを持って、シロさんは外へ出て行ってしまった。
梨奈さんのほうを見れば、「ん?」と首を傾げられたので、シロさんに老婆について話を聞いている途中だったことを伝えた。
「ああ、あのお婆さん……」
シロさんが座っていた椅子に、梨奈さんは腰を下ろした。
「惟くんが熱を出している間にね、またワジマサービスから連絡があったの。『事務所の近くであの老婆を見た!』って。しかも昼間にね。幽霊じゃないのかもしれないけど、不気味だからできれば調べてほしいって相談されて、私と誠さんで調査したの」
梨奈さんはちょっとだけ眉根を下げて、力なく笑った。
「お婆さん、生きてる人だったよ。……ワジマサービスの人に話していた通り、息子さんがいて、その奥さんが子供を連れて出ていったっていう話も本当。近所の人に聞き込みと、新聞とかチェックして分かったんだけど……息子さん、自殺しちゃってた。はっきりした理由は分からない。仕事もしてなかったみたいだし、借金もあったみたいだから、奥さんと子供が出て行ったことだけが原因じゃなかったのかもしれないね。……お婆さんは、息子さんが死んじゃったことが受け入れられなかったみたい」
梨奈さんが言葉を探すように少し言い淀むと、俺の向かい側に座っていた和華子さんが説明を続けてくれた。
「言い方は適切ではないかもしれないけど、お婆さん、精神的にちょっとおかしくなっちゃったそうなの。……ずっと、いなくなった孫を探してるんだって。近所ではかなり有名で、シングルマザーや、子連れの母親だけ住んでる、って聞くと、押し掛けて、自分の孫じゃないかを確認してるみたい」
和華子さんも話を聞いているらしく、悲しそうに眉を下げて言う。
「どこから話を聞きつけているのかは分からないんだけど、ワジマサービスの事務所に訪れたときは、ニュースを見たり、現場で話を聞いたのかもしれないね。近所の人の話では、普通に受け答えしているときもあるそうだけど、人目を気にせず大声で騒ぎ立てたりするって。……ワジマサービス事務所でソファが濡れていたのは、興奮して……漏らしちゃったみたい」
……そうだったんだ。てっきり幽霊だとばかり思っていたけど、生きているんだ……。
梨奈さんが、「あと、」と話を続けた。
「アパートの火事で亡くなったのは母親と小さな女の子だったって。だから、そもそもお婆さんの探している孫じゃなかったみたい」
梨奈さんも和華子さんも、口元は柔らかく微笑んでいるけど、いつもの明るい様子はない。二人とも優しいから、火事で亡くなった親子と、孫を探し続ける老婆を思いやっているのかもしれない。
でも、男の独白を聞いた俺としては、複雑な気持ちだった。
孫を探し続けている――男のことは? 自分の息子が死んでしまった理由を考えたのかな。考えても、自分に原因があるかもしれないとは思わなかったのか。それとも、思いついたうえで、受け入れられなかったのか。
あの池の底へ沈んでいった男の、穏やかな微笑みを思い出す。彼も死んでから、自分が死んだことを受け入れられなかったのか。雁字搦めになっていた男は……今は、楽になれたのかな。
ケトルの湯が沸いた音がして、梨奈さんが席を立つと同時に、電話を終えたシロさんが戻ってきた。シロさんは俺が話を聞き終わったことを悟ったらしく、何も言わずに席に着いた。
俺はこっそり、深く溜息をついた。
明日からは新学期。
学校生活では、知らない人間の強い思いに振り回されない日常を送りたい――そう願いながら、俺はほどよい温かさになった紅茶を飲み干した。
『蜘蛛の糸』 完




