3-3. 蜘蛛の糸
昼食後、俺は持ってきていた原稿用紙と本のコピーを広げた。
「なぁに、それ?」
「春休みの宿題で、読書感想文です」
覗き込んできた梨奈さんが、コピーをそっと手に取った。
「『蜘蛛の糸』かぁ。てかコピーなんて偉いね、青空文庫のアプリとか使わないの?……って、惟くんガラケーだっけ」
「はぁ」
青空文庫のアプリというのが、どういうものなのかイメージが湧かず、適当な返事になってしまった。
課題図書は決まっていたから、春休みが始まって早々に図書館に本を借りにいったものの、すぐには書く気は起きなかった。短い話だしと、とりあえずコピーを取って本は返却していた。
「主人公が悪い人だから自業自得、って感じの話だっけ」
コピーにさっと目を通し、机の上に戻した梨奈さんがあまり興味無さそうに言う。
芥川龍之介の『蜘蛛の糸』は、主人公の大罪人・カンダタが、蜘蛛を殺さず助けたことを理由に、お釈迦さまから救いの機会が与えられるという話だ。
極楽の蓮池から地獄を覗いたお釈迦さまが、カンダタの元へ蜘蛛の糸を垂らす。血の池でもがいていたカンダタは、喜んで糸をのぼり始めた。必死に上へとのぼっていくが、極楽までは距離がある。しばらくのぼっていくうちに、糸の下に他の罪人たちが群がっているのが見えた。細い糸が何人もの重さに耐えられるわけがない。切れてしまったらまた地獄へ逆戻りだと焦ったカンダタは、「この糸は己のものだ、下りろ」と叫ぶ。その途端、蜘蛛の糸はぷっつりと切れ、カンダタは真っ逆さまに落ちていった。
梨奈さんの言う通り自業自得な話にも聞こえるが、俺にはお釈迦様の慈悲の話って感じがした。
「……そもそも、蜘蛛を踏み殺さなかったっていうのは、果たして善行なのか」
「えっ、なにそれ。蜘蛛なんて殺しちゃってもいいじゃんってこと?」
「違います!」
つい零れた言葉に反応されて、慌てて否定した。
「踏み殺さないって普通のことじゃないですか? なんていうか、当たり前のことで、別に特別優しくしたとか助けたとかそういうことじゃないっていうか……。蜘蛛が別な虫に襲われそうになっているのを助けてあげたとか、そういうことをしてたなら、こう、慈悲が与えられるのも分かるんですけど」
人間は歩いているときにたまたま蜘蛛がいたら、踏み殺すことが前提になっている気がした。殺さなかったことを、助けたと表現すること自体に、ちょっと違和感を覚えるというか。
いや、仮に蜘蛛を助けるような出来事があったとしても、人を殺したり家に火をつけたりしていた大罪人が、救いの手によって極楽へ行けたら、善行と悪行がひどくアンバランスな気がする。
ちょっとの間「ふむ」と、考えた梨奈さんは、
「んー、お釈迦さまの感覚的には善行なんじゃない? 『あんなに悪い奴なのに、思いとどまれてえらいね!』的な。それか、当時の価値観なのかも」
一人で納得して頷く梨奈さんは、特に気にもならないことなんだろう。
俺と梨奈さんの話を聞いていたシロさんが、薄く笑って口を開いた。
「そもそも善行が、イコール善性というわけじゃない。『良いことをしよう』と思って蜘蛛を助けたから、ではなく、ただ一瞬、何の見返りも期待せず、自分のエゴが消えた瞬間があった。ここでいうエゴは、蜘蛛に対して『殺したい』『邪魔だ』とか、そういう感情だな。……そのエゴが消えた瞬間があるかどうか、悪人の中にその一瞬があったかどうかという話だろう」
蜘蛛に対して、殺したいという感情が消えた瞬間……?
「惟、君の感覚は至極真っ当なものだ。考え方も間違いじゃない。高校で宗教についてどこまで教えているのかはわからないが、『蜘蛛の糸』は仏教における善性の話だと、俺は思う」
そう言って、シロさんは足を組み替えると、紅茶を啜った。
「同じ芥川龍之介の『羅生門』は読んだことあるかい? 人間は極限状態になれば、生きるために道徳や倫理を簡単に踏み越えてしまう。それが人間という生き物だ。状況次第では、誰もが悪人になりえると俺は思う。……だからこそ、その本能に抗って一瞬でも蜘蛛を見逃した行動は、地獄の底でも細く光る糸のように、お釈迦様の目に止まったんじゃないか」
俺に話すようでいて、シロさんは最後のほう、何かを思い出すように静かに言葉を発していた。
・
背筋に這うような、気持ち悪い悪寒が走った。
帰路につくと空気が冷たい。外は薄暗くなっていた。温かい室内にいたせいか、余計に寒さが身に染みた。来週からは日中暖かくなるとテレビで言っていたけれど、本当にそうなんだろうか。疑ってしまうような寒さだった。
風邪引いたかな……。ただ寒いのとはちょっと違うような気がする。風邪のひきはじめ特有の悪寒というか。
でもなんとか完成させた読書感想文のおかげで、心なしか背負ったリュックが軽く感じられた。
相談所は市街地にあるせいか、夕方は車の往来が多い。バイパス通りは特に、帰途につく車の走行音やクラクションがうるさいくらいだ。市街地といっても道路は広いし、店も多くないから道自体はそれほど明るくない。けれど車のライトがギラギラと主張し始めている。仙台の光のページェントのようなイルミネーションの明かりは綺麗だと思うのに、車のライトが連なっている様子があまり綺麗だと思えないのは、どうしてなんだろう。
車と違い、通行人は少なくて、道路の向こう側に運動着姿の中学生が数人見えるくらいだった。
部活帰りかな。俺は中学でも、高校生となった今も、部活には所属していない。何かやってみたいと思ったことは無かった。体育館や校庭の木の下、人には見えないものが見えていた。だから、そこに居たいと思うことすらなかった。小学校や中学では特に、今より余裕も無かったから見ないふりは出来なくて、ただ走って逃げていた。
そんなことを思い出しながらバイパス通りから住宅街に入ってしばらく歩いていると、声をかけられた。
「あの、すみません」
自分に声をかけられたんだとは気づかず、最初無視してしまった。
「あの!」
数度目の声に振り返ると、男性が立っていた。
そわそわと視線が定まらないが、神経質そうに俺を見ている。身長は俺よりちょっとだけ低い――たぶん一七〇センチくらい――、縁なしの眼鏡をかけた中肉中背のおじさんだ。……顔に見覚えはない、と思う。
「……俺、ですか?」
「はい。……あの、私の母に会いましたか?」
「は?」
……母?
何を言っているか分からなくて眉間に皺が寄ってしまった。
しかし俺の怪訝な表情と返事を気にした様子もなく、男はブツブツと続けた。
「母さんには何度も言っているんです、探さなくていいって……」
「勝手に出て行ったんです、息子を連れて」
「孫に会いたいのは分かるんですが、でもしょうがないじゃないですか、もういないんだから……」
「私だって……会いたくないわけじゃないんですよ」
「でも母は、私の話は聞いてくれないんですよ……」
相槌を打っているわけではないのに、男性はひたすら話し続けていた。
ちょっとおかしな人かもしれない……。変な人に捕まってしまったと、内心冷や汗をかき始める。
いつの間にか、男性は俺の二の腕を掴んでいた。掴む手には振りほどけそうな力だけど、振り切って走って逃げたほうがいいのか、刺激しないほうがいいのか、迷ってしまう。
「……探すっていっても、何も残ってないんですよ」
「妻も息子も、いなくなったんですから。もういいじゃないですか」
「住んでいた家は引き払って、今はアパートに一人暮らしです……」
「真面目に、言われたことをやってきただけなのに……どうしてこんな風になったんだろう」
知らない年上の男が、俺の腕を掴んだまま早口で話し続けている。
何で、俺に話しかけてきたんだ……?
意味の分からない恐怖に固まっていたが、助けを求めて周りを見渡した。誰か歩いていないか、何でもいいから注意を逸らすようなものとか……。
――あれ、こんなに暗かったか?
ふと、暗闇の中にいることに気づく。
住宅の光も、街灯の光もない。車の音、人の声や犬の鳴き声も聞こえない、夕食の支度をする匂いもしない、日常を感じさせるものは何もない。
目の前の男ははっきりと見える。
暗い中に、俺と目の前の男だけが立っている。
恐怖がじわりと、足元から這い上がってきていた。




