2-7. 消えた桐箱
「あ、朱里さん」
急に声をかけられて、ビクッと体が跳ねた。 砂利に落としてた視線を上げると、蔵の前に男が一人立っていた。
たしか、昨日和孝おじさんに紹介された遺品整理業者の若い方。名前は……藤見、だったっけ。
その人が一人で蔵の前に立って、こっちを見ていた。
……この人、こんなところで何やってるんだろ。
身構えてしまう。私はただ散歩してただけだから、別に悪いことなんてしてないし、普通にしてればいいだけなんだけど。
回れ右するのも、なんか逃げるみたいで変だよね。でも喋ったこともない人に急に下の名前で呼ばれるのって、なんか気持ち悪いんですけど。
「……何してるんですか、こんなところで」
自分でも思ってた以上に、固い声が出た。私の刺々しい声に、その人は一瞬戸惑ったような、こちらを窺うような顔をした。
たしか、大学生って言ってたよね。お兄ちゃんと同じ歳くらいってことは、私とも歳が近いはず。
藤見さん(たぶん)は黒いダッフルコートを着て、デニムを履いていた。あらためて見ると、背が高い。お兄ちゃんよりも頭半分くらい大きい気がする。百七十後半くらいはあるんじゃないかな。何でこんな若い人がわざわざ遺品整理なんて仕事をしてるんだろう。死んだ人の持ち物を片づけるなんて、私だったら絶対嫌。なんか、そういうのに興味があるってだけでちょっと不気味っていうか、得体が知れない感じがする。
藤見さんは少し困ったように頭をかきながら、
「あ、すみません。和孝さんに言ってからのほうが良いとは思ったんですが、姿が見えなくて……。ここ、蔵ですよね。何か手がかりになるものがないかなと思って、ちょっと周りを見てたんです」
「手がかりって……あの桐箱の?」
私が聞き返すと、彼は少しだけ視線を逸らして、「ええ、まぁ」と曖昧に頷いた。
何か誤魔化してるのかな。昨日、和孝おじさんと和幸おじさんがまた喧嘩してたし、遺品整理っていっても目的は桐箱を探すことだよね。
藤見さんの後ろに立つ、蔵を見た。物置代わりにしてる小さな蔵。
ここにあるって思ってるのかな。どこにあるのか知らないけど、ここにあるなら和孝おじさんがもう見つけてるんじゃないの。
「……鍵かかってるから、中を見たいなら和孝おじさんに言ったほうがいいと思う」
「あ、ですよね」
突き放すように言って庭へ戻ろうとした時、蔵の方から、小さくカタッと、何かが倒れるような音が聞こえた。
藤見さんは振り返ってゆっくり一歩近づくと、そっと蔵の扉の取っ手に手をかけた。この蔵の扉は、古いけれどがっしりした木製だ。金目の物が入っているわけじゃないけど、普段は和孝おじさんが鍵をかけているはず。はずだったけど――。
「……開いてる」
藤見さんが呟くと同時に、重い扉が抵抗もなく、音を立てて数センチほど動いた。
「えっ嘘……いつもは鍵、かかってるのに」
思わず声が上ずる。
藤見さんは扉の隙間に視線を向けたまま、私に尋ねた。
「この中、何が入っているか知っていますか?」
「……ただの物置だよ。和孝おじさんが昔使ってた自転車とか、本とか、もう使わない物が置いてあると思う」
「そうですか……」
藤見さんはそう言いながら、さらに扉を半分ほど開けようとした。
……えっ、勝手に入ろうとしてる?
放っておいて去ってしまいたかったけれど、もし中で何かを壊されたり、変なことが起きたら私が何か言われるかもしれない。私は彼の背後から中を覗き込むようにして、一歩、蔵の入り口へと足を踏み入れた。
「……ねぇ、勝手に入らないほうがいいと思う。和孝おじさんに怒られるよ」
和孝おじさんは、別に怒らないとは思うけど。
でも、藤見さんは私の言葉が聞こえていないみたいに、じっと中の暗闇を見つめている。
「あの……ねぇってば!」
痺れを切らして、彼の背中を掴んで引き戻そうと近づいた、その時だった。
――どん、と。
誰かに背中を、強く押された。確かな手の感触だった。
「わっ!」
「えっ? うわっ!?」
前のめりになった私の体が藤見さんにぶつかり、そのまま二人して蔵の中へと倒れ込む。埃っぽい匂いが鼻を突き、膝を硬い床に打ちつけた。
慌てて振り返った瞬間、視界が急速に狭まった。ギギギ、と嫌な音を立てて、重い扉が勝手に閉まっていく。
「待って!」
叫んで手を伸ばしたけれど、一足遅かった。
――バタン!
大きな音とともに扉が閉まり、その直後、外側からガチャンと鍵がかかる音が響いた。
光が、消えた。十畳ほどの空間は、一瞬にして逃げ場のない薄暗闇に包まれた。
「ちょっ、何で、」
藤見さんが私に向かって文句を言おうとしてるのが分かって、遮って声を上げた。
「ちがっ、私じゃない! 誰かに押されたの!」
「誰かって……他に誰かいたんですか?」
「いなかったと思う、けど……」
見たわけじゃないから確信は持てない。でも、あんなに強い力で押されたんだから、誰かがいたとしか思えない。
……家族の誰かが、悪ふざけでやったの? でも、鍵かけてる音もした気がする……そんなイタズラするような人いる?
一気に言いようのない不安がこみ上げてくる。
そっと見上げると、さっきまで開いてたはずの重い扉が、壁のように立ちはだかっていた。
藤見さんは膝を払って立ち上がると、扉を叩き、外に向かって声を張り上げる。
「すみませーん! 誰か、開けてください!」
返ってくるのは、彼の声の残響だけだった。人の気配どころか、風の音すら聞こえない。
藤見さんが何度か扉を揺するように力を込めたり、肩をぶつけて扉を開けようと試みたけれど、厚い木製の扉はびくともしなかった。
見上げると、高い位置にある小さな窓から、申し訳程度の光が差し込んでいる。けれど外は曇天の冬空。その薄明かりは室内にぼんやりとした光の筋を落とすだけで、十畳ある蔵を照らすには、あまりにも頼りなかった。
「……サイアク」
藤見さんが小さく毒づき、コートのポケットから折り畳み式のガラケーを取り出した。古っ。
私も慌てて自分のスマホを取り出す。
……あれ? さっきまで生きてたはずの画面は、真っ黒だった。 電源ボタンを何度押しても、長押ししても、冷たいまま反応を返さない。
「何で……」
さっき確認したときは、たしか二十パーセントくらいは残ってたはず。一気にゼロになるような使い方してないのに……。
藤見さんが「はぁ……」と深い溜息をついてガラケーをパチンと閉じるのが見えた。彼の方も充電無くなったのかな……。
お互い何も言わずに、数十秒の沈黙。
……何でこんなことになったんだろう。そもそもこの人が勝手に蔵なんて開けるからじゃん。サイアク。
心の中で悪態をつく。それと同時に、連絡手段のない暗闇の中で知らない男の人と二人きりになっているという事実が、じわじわと嫌悪感と恐怖に変わっていく。
けれど、藤見さんは私の視線なんて気にしていないようだった。彼はハッとした様子で、コートのポケットを弄り、棒状のものを取り出した。
カチッ、と音がして、細い光が暗闇を切り裂いた。
「……懐中電灯?」
「はい。今日佑香さんに借りて……返しそびれてました」
テレビのリモコンくらいの、細くて軽いライト。パワーはそれほどないけれど、今の状況では唯一の救いみたいに心強く思える光だった。
藤見さんは私を見ることもなく、ゆっくりとライトで室内を照らし始めた。
ぼんやりと光の輪郭に浮かび上がるのは、和孝おじさんたちが昔使ってた錆びた自転車、背表紙の剥げた古い本やノート、何が入っているか分からない埃を被った段ボール箱……。薄暗い中では色がはっきりしないからよく分からない物もあった。
そして、静かすぎる。 自分の呼吸音だけが大きく響いてるみたい、暗闇の奥から何かがこちらを覗き込んでいるような気がして、足元がすうすうした。
「……朱里さん」
唐突に名前を呼ばれて、心臓が跳ね上がった。 藤見さんは相変わらず蔵の奥に注意を向けたまま、低い声で尋ねた。
「ここに来ること、誰かに言いましたか?」
「……言ってない。トイレに行くって言って、部屋を出てきたから」
答えた瞬間、急激な心細さが込み上げてきた。 私がいないことに誰かが気づくのは、ずっと先になるかもしれない。
「そうですか……」
藤見さんの声は落ち着いて聞こえたけれど、ライトを持つ手がわずかに震えているのが見えた。
この人も、本当は怖いのかな。
そのとき。 ライトの光が、部屋の隅にある古い箪笥のような物の隙間を照らした。 そこに、何かが、いた。
「ひっ……!」
喉の奥で短い悲鳴が跳ねた。ライトの細い光が捉えたのは、積み上げられた段ボールの隙間からこちらをじっと見つめる、おかっぱ頭の女の子。
赤い着物を着た、人形だった。暗闇とライトの鋭い陰影のせいで、その白すぎる顔が、まるで生きている人間のように生々しく見えて、心臓がぎゅうっと縮み上がる。
「……市松人形ですね。うちにも男の子のやつがありますよ」
藤見さんが私を落ち着かせようとするように、静かな声で言った。人形をライトで照らしたまま。光当てるの、やめてほしいんだけど……。
「そうなんだ……こういうのって、遺品整理の現場にもよくあるんですか?」
「え?……あ、ああ、そうです。子供の成長や幸せを願って買ったりするものだそうですから。雛人形とか、五月人形と同じですよ」
一瞬、彼が言葉に詰まった気がしたけれど、お祝いの品だと言われて少しだけ肩の力が抜けた。和美おばさんが生まれたときにでも買ったのかな。裕福な家だったから、そういう古めかしい物はあった気がする。夏美ちゃんが生まれてからも、三月には立派な雛人形が飾ってあったの見たことあるし。
藤見さんは扉の近くから一歩も動かないまま、手に持った小さなライトをゆっくりと彷徨わせ続けた。光の輪郭に浮かび上がる影について、一つひとつ私に尋ねてくる。
「あの箱、何が入ってるか分かります?」
「知らない。……見たことないし」
「あの子供用自転車は、和孝さんのですか?」
「たぶん……でも、和幸さんも和美おばさんも持ってたはずだから、誰のかは分かんない」
「そうですか……」
会話が途切れると、再び沈黙が重くのしかかってくる。
そういえば、この人私が誰かに押されたって言ったこと、疑わなかったな。誰かいたのか確認はしてきたけど。……そういえば、結局私を押したのは誰だったんだろう。鍵までかけて、何でそんなこと……。
暗闇の奥から忍び寄ってくる恐怖に気付かないふりをして、私は自分の方から言葉を繋いだ。
「ねえ……桐箱が見つかるまで、ずっとここにいるの?」
「えっ……いや、どうでしょう。一応、遺品整理業者ですから。整理が終わったら帰るんじゃないでしょうか」
なんだか要領を得ない答え。依頼された物を探すのが仕事じゃないの? 不審に思って彼をチラッと見ると、藤見さんも私の方を見ていたみたいで、気まずそうに視線を泳がせた。
「僕はただの助手なので、詳しい依頼内容は知らないんです。あくまで手伝いというか……」
「そうなんだ……」
人一人分だけ離れた場所に立つ彼を、ライトの反射越しに盗み見る。
手伝いなんだ。たしかに若いし、冬休みのバイトとかなのかもしれない。だとしたら、こんな薄気味悪い家に来させられて、彼も運が悪い。
「朱里さんは、この家によく来るんですか?」
今度は藤見さんの方から聞いてきた。
「……お父さんとお母さんに連れてこられたときに来るくらい。最近はあんまり来てなかったけど、昔からお正月とか集まるし」
「へぇ。昔から、和孝さんと和幸さんはあんな感じなんですか? あっ、話したくなかったらいいんですけど」
一瞬、部外者のこの人に家庭の事情を話していいのか、と戸惑った。でも、静寂になることが怖くて、勝手に口が開いていた。
「まぁ、仲良いイメージはないかな。昨日みたいに、みんなの前で怒鳴り合ったりはしてなかったと思うけど。……ここ数年で、どんどん酷くなってる気がする」
口に出してみると、自分たちの歪さが改めて浮き彫りになるような感覚だった。
「お父さんもおじいちゃんも、孝蔵おじいさんの悪口ばっかりだったし……。ここは、そういう家なんだよ。私、ずっと嫌だった」
藤見さんは、ライトを床に向けたまま、黙って私の話を聞いていた。
「朱里さんのお父さんとお母さんは、孝蔵さんや和孝さんと仲が悪かったの?」
藤見さんの問いに、私は少し自嘲気味に鼻で笑った。
「……うん。仲がいいフリしてるだけ。和孝おじさんは真面目な人だけど、うちは違うから。二人で、ずっと人の悪口ばっかり言ってるし」
言ってから、ハッとした。
なんで初対面のこの人に、こんな家の恥みたいなことを喋っちゃってるんだろう。 気まずくて黙り込むと、藤見さんは少し遠くを見るような目をして、
「そうなんだ。俺は父が子供の時に亡くなったから、両親が話してる姿って、ほとんど記憶にないな。……よく喋ってるんだ?」
予想外の言葉が返ってきて、一瞬言葉に詰まった。
お父さんが、いない。なんて返していいか分からなくて、私はそこには触れずに両親の話を続けた。
「……うん、よく喋ってるから、仲はいいんだと思う。孝蔵おじいさんのことも、和孝おじさんのことも、好きじゃないみたいで、二人の悪口ばっかりだけど」
「あー、まぁ、気が合わない相手っているからね」
藤見さんが絞り出したような相槌に、心の中でちょっとだけ笑う。無理してフォローしなくていいのに。
「桐箱があるから、そのおかげで成功してるんだって。ただの嫉妬だよね。でも孝蔵おじいさんはちゃんとした人だったから、会社が大きくなったのも、自分で頑張ったからじゃないかな」
「ちゃんとした人?」
「うん。あんまり話したことないから、勝手なイメージかもだけど。それにさ、桐箱持ってるだけで成功するなら、誰も苦労しないでしょ。何でも上手くいくって言うなら、和孝おじさんと和幸おじさんだって仲良しのはずだし、和子おばあさんだって事故で死んだりしない。……そうじゃない?」
「たしかに」
藤見さんは、本当に感心したように繰り返した。
「たしかに、そうだね。本当に幸運を運ぶもの、ってわけじゃないのかも」
その様子を見て、なんだか少しだけ愉快な気分になった。大人も、藤見さんも、みんな本物の「すごいお宝」だと思い込んでる。でも、私だけは知っている。
「……あの桐箱の中身、大したものじゃないし」
「え、中身知ってるの!?」
藤見さんが、ぎょっとしたように私の顔を覗き込んだ。
……ヤバい、喋りすぎた。誰にも言ったことなかったのに。
「あっ、えっと……た、たまたま、見ちゃったことがあって。誰にも言わないでほしいんだけど……」
藤見さんは少しの間考え込むように黙った後、真剣な目で私を見た。
「……誰にも言わないから。中身が何だったか、教えてくれる?」
迷ったけれど、彼には嘘を吐けない気がした。
私は、ずっと昔に書斎で見た中身について、一気に喋った。
藤見さんは感心したように呟いた。
「そうだったんだ……だからシロさんはあんなこと言ってたんだ」
「え?」
「あ、いや、何でもない。教えてくれてありがとう。……その桐箱が今どこにあるか、誰が持っていったのかは知ってる?」
いつの間にか、藤見さんから敬語が消えていた。
「ううん、知らない。……まさか、うちのお父さんとお母さんを疑ってる?」
「いや、そういうわけじゃないよ! でも実際に無くなってるから……」
「持ってってないよ。和孝おじさんか和幸おじさんが隠してるんじゃないかって、二人で文句言ってたもん」
言いかけて、ふと両親の会話を思い出した。
「あ……でも、桐箱が欲しすぎて、嫌がらせとかはしてたみたいだけど」
「嫌がらせ?」
「うん。何かを置いたとか言ってたと思う。『桐箱が無いなら、置いた意味がない』とか何とか。何か分かんないけど、たぶん何か嫌がらせしてたんだよね」
言い終わる前に、藤見さんが「それ、本当!?」とぐいっと詰め寄ってきた。
「う、うん」 驚いて小さく頷く。
言っちゃいけないことだった? 嫌がらせって、さすがにヤバいことだったのかな。
藤見さんは呆然としたように口を開け、それから小さく「そうだったのか……」と呟いた。そして片手で口を覆う。
その目は何かを確信しているように見えた。もしかして、やっぱりうちのお父さんが桐箱を盗んだ犯人だと思っているのかなって、ちょっと嫌な予感がした。
でも心は不思議と軽やかだった。家族のことも、桐箱のことも、しゃべらないほうが良かったのかもしれないのに。本当はずっと、誰かに話したかったのかな。
ほんの少し口元が緩んだそのとき、光がチラチラと揺れた。
藤見さんの持っている懐中電灯じゃない。高い位置にある、小さな窓。そこから差し込んでいた薄い光の筋が、明滅するように揺らいでいる。
「あ、誰か気づいたのかも!」
上を見上げて、私は喜んで叫びそうになった。窓の外に、誰かの手がひらひらと動いているのが見えたから。いつまでもこんなところにいるわけにいかない。
「ねぇ、開けてください! ここに……」
「しっ!」
藤見さんに、片手で乱暴に口を塞がれた。
「っ、んぐっ……!」
「静かに。……見て。あんな高い窓、外から手を振れる人間なんていないよ」
ずん、と一瞬で心臓が凍って落ちるような感覚。この蔵の窓は、大人の背丈よりもずっと高い位置にある。外はただの壁で、足場なんてない。
なのに。窓の向こうでは、真っ白な、細長い指先が。今も「おいで、おいで」って言ってるみたいに、手招きを続けていた。
心臓が耳元で鐘を打っているみたいにうるさい。
じゃあ、あの窓で手を振っているのは何?
あれは一体――。
「たぶん、直接何かしてくることはないはずだから、大人しくしていよう」
藤見さんが私の口からそっと手を外すと、低く囁いた。
「なんで、そんな、……あれは、何なの!?」
「……俺たちを閉じ込めて、怖がらせようとしてるんだと思う。だから、下手に騒がないほうがいい」
何言ってんの、この人。全然意味分かんない。
カチカチと歯が鳴ってることに気づく。震えが止まらない。
怖い思いをさせようとしている、って何が? 何のために? やだ、考えたくない、もう十分すぎるほど怖い。大体、あの窓は曇りガラスのはずなのに、なんであんなに生々しく手が見えるの? 誰の手なの!
怖いのに目が離せなかった。一瞬でも目を離したら、あの手がこちらへ伸びてくるような気がして黙ったままじっと窓を見上げていると、不意に、吸い込まれるようにその手が消えた。
……いなくなった?
安堵しかけたその瞬間、背後にあった扉が、爆発したような音を立てて激しく叩かれた。
――ガン! ガン!! ガガン!!!
「っ、ひあ……っ!」
悲鳴にもならない声が漏れる。
私と藤見さんは弾かれたように扉から離れた。薄暗闇の中、藤見さんにしがみつくように身を寄せた。少しでも扉から距離を取りたくて後ずさっているつもりなのに、ちっとも離れていかない。体が恐怖で固まって、動いてない。
扉を叩く音は絶えず続いている。その度に心臓が跳ね上がり続ける。
助けて、と祈る思いで、ぶるぶる震える手をもう一度スマホに伸ばすけれど、画面は死んだように沈黙したままだ。どうにかしてよ、と隣の藤見さんを見上げるけれど、彼のこめかみにもびっしょりと汗が浮いているのが見えた。
藤見さんは辺りをキョロキョロと見渡して、それからポケットに手を突っ込んでガラケーを取り出そうとした。取り出したガラケーの他に、何かがポケットから零れ落ちた。平べったい何かが床に落ちる。
暗くてよく見えなかったけれど、彼はそれを拾って一瞬だけ考え込むと、意を決したように激しく鳴り響く扉へと手を伸ばした。
彼がその何かを扉に押し当てた、その時だった。
『ギャッ!!』
獣の鳴き声。小さいけれど、はっきり聞こえた。それが一回聞こえたと思ったら、あんなに激しかった衝撃が嘘のようにピタリと止んだ。
「……え?」
呆然として立ち尽くす。
藤見さんは手に持ったものをじっと見つめていた。それは折り紙のようだった。何かを折っているみたいな、形のあるもの。
「……まじか」
彼が信じられないといった様子で独り言を漏らす。形を確かめるように、触っていた。
「それ……」
聞いてみようとしたけど、それよりも先に前を向いた藤見さんがおそるおそる扉に手をかけた。
外側にゆっくり押してみる。すると、あれほど固く閉ざされていたはずの扉が、何の抵抗もなくギィ……と音を立てて開いた。
「……開いた」
「あ……っ」
隙間から差し込んできた薄灰色の光があまりに嬉しくて、膝から崩れ落ちそうになる。
急いで外に出ると、冷たい冬の風が吹き抜けた。自分が汗をかいていたことに、その時初めて気づく。急に体温が奪われて、治まった震えが寒さによってまた体を撫でるようだった。
「……戻ろう。これ、一応持ってて」
藤見さんはそう言って、手に持っていた折り紙を私に一つ差し出した。
受け取って、何を折った物なのか、ひっくり返して理解する。
「これ……犬?」
「とにかく、今は子供部屋にいたほうがいい。あそこなら、たぶん大丈夫だから」
この犬の折り紙が何なのか、答えは貰えなかった。でも、それよりこの場所から離れたい気持ちのほうが強かった。
言われるがまま、私は震える指で犬の折り紙を握りしめ、歩き出した彼の後を追った。
そっと振り返った蔵の入り口には、誰の影もなかったけれど。 折り紙を握る手のひらから伝わってくる、微かな、自分の心臓の鼓動が、さっきまでの恐怖が現実だったことを物語っていた。




