1-1. 記憶の無い男
――こっちを見るなっ!
――頼むから俺の前に現れるな!
市内にあるクリニックの待合室の天井は、明るすぎる照明のせいでやたら白く感じる。薄い色の木目柄の床、薄いベージュの壁紙を背に黄色や水色のソファが並んでいた。
ソファには、俺を含めた数人の患者が座っていた。周りを気にするように、チラチラと視線を彷徨わせる若い女、瞬きせず一点をジッと見つめ続ける小汚い男、訳の分からないことをブツブツと言い続ける太った男、長い髪の隙間から、爪を噛む口元だけが覗いている女。清潔な待合室に不似合いな人間ばかりだ。
今日はいつもより空いていた。そのせいで、俺が座っている位置から見える受付の真横、診察室へ進む廊下に男が二人立っているのが嫌でも視界に入ってくる。
二人は俺を見て、ニタニタと口元を歪めて笑っている。顔立ちははっきり見えるのに、輪郭だけが妙に滲んでいて、照明の下に立っているのに影が落ちていなかった。
なるべく男たちを見ないように、自分の足元へ視線を落とす。受付にいる看護婦たちは、何かの書類の整理をしたり、ファイル片手に忙しなく歩き回っている。すぐ近くに立つ二人の男には気づかない。
膝が小刻みに揺れる。
診察が終わったんだから、さっさと帰ればいい。電話をして迎えを呼ばなきゃいけないのに、腰を上げるのが億劫で仕方がない。気が進まない理由は分かってる、携帯電話を持っていないせいで、待合室の公衆電話を使わなきゃならない。わざわざお願いしなきゃ帰宅することもできない自分が情けなくて、余計に気が進まない。
視界の端で、男たちはまだ笑っている。
――やっぱり、俺がおかしいのか?
目に入る自分の膝が小刻みに揺れる様子すら、余計に気持ちを波立たせる。
俺にしか見えないなら、これは幻覚だ。幻覚が見えているってことは、頭が壊れているってことだ。自分が正常だと証明できないのが一番怖い。誰に言ったところで、まともに取り合ってもらえない。笑う二人より、むしろそのことの方が恐ろしい。
――何で俺がこんな目に遭うんだ、クソッ!
舌打ちしそうになった瞬間、隣に誰かが腰を下ろし、ソファが沈んだ。
患者は皆、基本的に誰かの隣に座ろうとはしない。それなのに間を空けずに隣に座ろうとしたことも驚きだが、人が近くに来ていることに全く気づかなかった。
思わず座った人間の顔を見ると、俺を見ていたその男と目が合った。
「君、もしかしてあそこにいるものが見えているのか?」
俺のほうを見て、はっきりとそう言った。
声を潜めるように俺のほうへ少しだけ寄って、
「ほら、受付の横にいるだろう」
俺にだけ見えるように、受付の横を指で差し示す。
指の先には、先ほどと同じように俺を嘲笑する男二人が立っていた。
春先の曇天は、雲との境目が分からないような色をしていた。
白いSUVは宮城県石森市の街中を軽快に走る。運転しているのは待合室で声を掛けてきた男で、「シラカバ」と名乗り、「受付横に見えたものについて話がしたい」と言ってきた。見た目三十代前半くらい、痩せ型で身長は俺より少し高いくらい(おそらく一七〇後半)。髪も目も黒い、ごく普通の、どこにでもいる日本人男性に見えた。
初対面の相手に付いてきたのは、あの二人の男のことを口にしたからだ。
俺以外の誰にも見えないはずの、ニヤニヤ笑う二人組。医者には暗に妄想や幻覚と片付けられた存在を、この男は迷いなく「見えている」と言った。
進行方向を向いたまま、シラカバさんは静かに話し始めた。
「急に声をかけてすまなかったな。ただ時々視線をやっていたから、君にも見えていると思ったんだ。……医者には妄想だと言われたかい?」
なんだか少しだけ、芝居がかったような口調だ。「まぁ……そんな感じですね」 曖昧に返事をすると、彼は「だろうな」と笑った。
「で、君には何が見えていた?」
「……男が二人、立ってた」
「立ってるだけか?」
わざと知っているふうな口調に、思わず眉をひそめる。分かっているのに聞いているような口ぶりだった。
「……俺を見て、ニヤニヤ笑ってました」
シラカバさんは短く頷き、さらに質問を重ねる。
「いつからだ?」
「……二週間くらい前から、ですかね」
「病院だけじゃなく、他でも見たか?」
「ええ……たぶん」
「たぶん?」
シラカバさんが助手席に座る俺のほうへ、チラリと視線を寄越したのが、視界の端でなんとなく分かった。曖昧な答え方をしている自覚はあるが、俺にもそう言うしかなかった。
「俺、一か月前に倒れてるところを発見されたんです。市街から外れた県道で。気づいたら病院のベッドの上で……」
「倒れてた?」
「事故か、轢き逃げか。警察もよく分からないみたいで。怪我は大したことなかったんですけど……自分が誰なのか、覚えてなかった」
自分の声が、やけに乾いて聞こえる。
警察の見立てではおそらく何か事故に巻き込まれたか、轢き逃げに遭った。怪我は奇跡的に目立った外傷はなく、擦り傷程度ではあったが、病院に運ばれて治療を受けた。
自分に関することは一向に何も思い出せず、事故のショックで記憶が混濁していると思われていた。脳機能に障害はなく、解離性健忘と診断された。
名前、年齢、誕生日、生まれ故郷、家族、服は着ていたが、身元が分かる持ち物はなし。
病院のネットワークや、警察のデータベース(捜索願や前歴者など)とも照合してもらったが何も出ず、手掛かりは見つからなかった。
轢き逃げに関しても、東北の車通りの少ない県道で防犯カメラはなし。県道脇の草むらに横たわっているのが見つかったのは朝方だったこともあって、今のところ犯人は見つかっていない。
日常を過ごす上で問題ない程度の一般常識や知識はあったから、役所で相談して生活保護申請を受理され、市の無料低額宿泊所に入所することになった。
「そりゃ、なんというか……壮絶だな。今も、何も思い出せないのか?」
「まぁ……そうですね」
役所の窓口でも好奇の目で見られた。あまり自分から人に言いたい内容ではなかったが、それよりも俺は他の人に見えない男たちが同じく見えていることのほうが気になっていた。
「あの二人は、病院に運ばれて治療を受けているときから見えてた。最初は、俺に関係なく病院に来てる人だと思って……」
助手席から横目をやると、シラカバさんの表情は変わらない。けれど俺の言葉を一つも聞き逃していないような、静かな気配だけが伝わってくる。
「役所で世話になって、宿泊所に入れてもらったんですけど……」
口を閉ざしかけたが、結局続ける。
「あの二人、そこでも見えました」
「宿泊所で?」
「はい、廊下に立ってて……。でも誰も気づいてない。俺が『あの人たちは誰だ』って聞いたら、変な目で見られて」
「見えてなかったのか」
黙って頷く。あのときのことは思い出したくない。明らかに俺をおかしな奴だと語る目が、無性に腹立たしかった。
「俺はおかしくなんかない。そう思ってたんですけど、でも精神科を受診するように言われて、病院の医者や看護婦に言っても信じてもらえなかった」
医者は頭ごなしに否定するわけではないが、生温かい笑みを浮かべて、『うんうん、そうなんだね』とまるで子ども扱いされた。待合室にいたような頭のおかしい患者と俺も一緒なんだと思ったら、悔しくて情けなかった。
「記憶喪失については分からんが、待合室にいたものは俺にも見えていた。妄想や幻覚じゃないさ」
ハンドルを握るシラカバさんが、少しだけ笑った。その言葉に、胸の奥がじんわりと緩む。ほんの少しだけ、息がしやすくなった。自分で思っている以上に、精神的に参っていたのかもしれない。
「……あの男たちは、何なんですか?」
「説明が難しいが、いわゆる幽霊や怪異と呼ばれるものだろうな。見える人間もいれば、見えない人間もいる」
「幽霊……」
幽霊にしては、はっきり存在しているように見えた。足もあって、その辺にいる人間と同じように存在しているように見えた。輪郭がぼんやりしているような気はしたが、今まで幽霊かもしれないなんて考えたことも無かった。
「俺に、霊感があるってことですか?」
「……それはどうだろうな。男二人以外は見えないんだろ?」
「それは、まぁ」
男二人以外、変な物は見ていないと思う。だが今までも男二人を幽霊だと思ったことはなかったんだから、見えているのに気づかなかっただけかもしれない。
シラカバさんにそう言ってみると、「たしかにな」と小さく頷いた。
「そんなにはっきり見えているなら、その幽霊とだけ波長が合っているのかもしれないな」
「波長?」
シラカバさんは俺の質問には答えずに腕時計で時間を確認すると、ルームミラーに手を伸ばしてほんの少し位置を調整した。
「話を聞いたら家まで送ろうと思っていたが、今の状況を聞くと時間はあるんだろう。俺はこれから仕事に行くから、良かったら一緒に来ないか?」
「仕事、ですか?」
「ああ。君や俺と同じで、見える力が必要な仕事だ。まぁ必要としないこともあるがな」
見える力、って幽霊が見えることか。
どんな仕事なのか聞いてみたが、それ以上説明する気はないようで適当に流されてしまった。
それでもあまり嫌な気はしなかった。他の人間に見えないものが見える、仲間に出会えたような気がして、悪くなかった。




