51話 逃亡姫と将軍の提案
──同刻。
(絶対に顔なんて合わせてやるもんか!)
約束の時間30分前からずっと自室のベッドの下に隠れていたユキは、時間を見てそろそろと部屋を抜け出し、城の中庭を目指していた。
未だに、婚約には納得がいっていない。
(みんなして勝手に話進めちゃって、本当、私を何だと思ってるの)
長いドレスの裾を両手で持ち上げながら、急ぎ足で、それでも音が出ないように慎重に歩いていく。普段着ることなんてないような正装に、ヒールの高い歩きにくい靴。
髪飾りもネックレスも、こんな高価そうなものつけた事なんてない。
こんなのまるで何処かの国のお姫様みたいじゃない。と思って、そういえば自分が一国の姫だったと思い出し、がっくりと肩を落とした。
今頃は婚約相手の将軍も来ているだろうし、自分の姿が見当たらなくて、きっとお父さんもお母さんも困っているだろう。そう考えればもしかしたらとんでもない事をしちゃったのかもしれないと、段々怒りよりも焦りや不安が増してくる。
それでもやっぱり、絶対に会ってなんかやりたくない。
「はぁ……」
ため息と共に中庭に続くドアを開ければ、ふわりと甘い香りに包まれる。
綺麗に手入れされた中庭。辺りには色とりどりの花が咲いている。
この時間は庭師も、休憩中の騎士もいない。
「……ん?」
正面の噴水に視線を向けた時、いつもはないはずの何かを見つける。
物凄くふわふわしている琥珀色の大きな毛玉。
階段を下りて近付いてみれば、すぐにそれが巨大な狼だと分かり息をのんだ。
巨大な獣がここにいて騒ぎになっていないという事は、誰かのペットだろうか。
今は寝ているらしく、丸まって一定のリズムで呼吸している。
「可愛い……」
たまにピクッと動くその三角の耳に触れてみたくて、ユキはそっと手を伸ばした。
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「えへへ……もふもふ、可愛いーっ」
実をいえば、暫く前から眠は起きていた。
千聖が謁見している間、暇になりそうだったので城の中庭にある噴水横で涼んでいたのだ。
流石に人の姿でのんびり寝るのも端から見てだらしないなと思い狼の姿で寝ていたのだが、なにやら触れられる感覚で目が覚めた。
そのまま気づかぬふりをしていれば気が済んで去ってくかと思って無視して寝ていれば、いつの間にやら首元にまとわり付かれ、モフモフスリスリされていた。
聞こえる声や匂いから女だろうが、狼のオレと遊びたいのだろうか。
そろそろ許容出来ないくらいになってきたし、まぁ背に乗せてやるくらいなら付き合ってやるか。
そんな風に思って目を開ければ──
「え!!!」
「ッ!? きゃぁぁぁぁ!!!」
ぱぁぁぁんッと平手打ちの音が響く。
体勢や相手の位置的に、このまま人間になるのはまずいと思ったし、抱き付いてた狼が実は男だったなんてショックだろうと相手の事も考えて狼で通すつもりだった。しかし目を開けてまず目に飛び込んできたのは、一目見てわかるほどの‟お姫様”だった。
「うそだろ……」
オレともあろう狼が心底驚いてそのまま人間の姿に戻ってしまうとは。という己に対する衝撃と、まさかお姫様がここにいるなんて。というダブルの衝撃に、眠はただ唖然として、ぶたれた左の頬を摩りながら目の前の人物から視線を逸らせずにいた。
「ご、ごめんなさい……あのっ、貴方が人だったなんて知らなくて……私……」
「いやオレが悪い……!」
「男性がこんなに近い事、初めてで……殴ってしまってごめんなさい……直ぐにお医」
「だ、大丈夫だ、必要ないっ……それより、あー……ご無礼を……」
眠は慌てて、姫の前でひざまずいた。
この失態はぶっちゃけ下手すれば処刑レベルだ。
こちらの動きを見て、戸惑った様に差し出してくれた手をそっととって、その手の甲に唇を寄せる。もちろん、勢いあまって唇はつけない様に気を付けた。
今回アスガルドに向かうにあたって、王族の女性への挨拶を千聖と猛勉強しておいたのだが、まさかこんなにも早く実践する羽目になるとは。
大きな黄金色の瞳。
白銀色の髪はお洒落で且つ上品にアップされており、頭の上に乗せられているティアラも、青っぽいドレスも、彼女によく似合っている。
まるで彼女以外の全ての時間が止まっているのではないかと錯覚する程に、彼女に見惚れ、彼女以外が視界に入ってこない。今まで他に感じた事がないくらいオーラのような何かが、彼女にはあった。
「あの……無礼、とは承知のうえ、ですが」
「はい……?」
言葉がつまるのは、使い慣れない敬語のせいか、それとも心が惹きつけられる程に美しい目の前の少女のせいなのか。眠は少女の手を離すことすら忘れて、それでも正直に、今頭の中にある願望を伝えるために口を開いた。
「記念に写真撮らせてもらっても、いっすか?」
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「その、娘には見聞を広げるという意味でも、ここではなく魔界で生活をさせていてね……基本的には魔界の魔法使いたちと一緒に庶民的な生活を送らせているせいか自分が一国の姫だという自覚が薄くて……今朝まで部屋で準備してたんだけどね、さっき見たらもぬけの殻で……」
苦笑いする他ない。
とどのつまりは、姫の自覚が足りないお姫様は結婚が嫌で逃げ出したと。
バツの悪そうな顔で、アスガルド王は事の経緯を説明してくれた。姫が失踪した事を曝露してからは会話の内容も、王の挙動も幾分まともなものとなったところから、先程から王が誤魔化そうとしていたのは姫が消えた事だったらしい。
「……そう、ですか」
姫の失踪を聞いた千聖は、さして驚いたりする事もなく苦笑いでリアクションを返す。
普通に考えても、どこの馬の骨ともわからない敵国の男と結婚させられるなんて嫌だろう。気持ちがわからないでもないから、責める気持ちも起きなかった。
逃げ出したといってもそう遠くには行っていないだろうが、日を改めて出直した方が良さそうだ。
「ご不在ということでしたら、長居するわけにもいきませんね」
笑い交じりにそう言って、千聖は立ち上がった。
アスガルド王と向かい合ってからずっと膝をついた姿勢を保っていたせいか、衝動的に身体を伸ばしたくなるが、それをぐっとこらえて姿勢を正す。
柔らかい表情で会釈をして──もう一度、口を開いた。
「……むしろ、お嬢様が居ないのは、私としては都合が良かったかもしれない」
その声は、先ほど会話をしていた時のものより、幾分か低いトーンだった。
この空間に一滴の緊張を投じるため、あえてやったことだ。
水の中に一滴落とされた墨のごとく、じわりと二人の間に薄い緊張が広がっていく。
狙い通り、王の顔に張り付いた笑顔も薄くなっていった。
「どういうことだろう」
「一つ、私からご提案したいことがございます」
「提案? ……あぁ、聞こうか」
口元で作った笑顔が崩れることはないが、目は笑っていない。
そんな千聖の表情を見て、王も笑うことをやめた。
“提案”の言葉に王が警戒しているのは見てとれる。
「ヘーリオスに関することです」
「……君が救ってくれた土地だね?」
ヘーリオスと聞いて王は少しだけ、肩の力を抜いた。
千聖は王の反応をうかがいながらも慎重に言葉を続ける。
「えぇ、その通りです。……その夜明けの地ですが──私に頂けませんでしょうか」




