悪令嬢イリアの最後
冷たい石畳に、赤い血が広がっていく。
「で、殿下...何故このようなことを....」
イリア・ベネリエスは震える声で目の前の男を見つめた。
彼女の婚約者であり、この国の王太子エドワード。
幼い頃から未来を誓い、誰よりも信じ、身も心も捧げた相手だった。
今にして思えば、最初から彼女の人生は最悪だった。
侯爵家・ベネリエス家に生まれたイリアは、幼い頃から未来の王妃となるためだけに育てられた。
礼儀作法、政治、外交、舞踏。自由な時間などなく、常に「王太子妃にふさわしくあれ」と厳しく教育されてきた。
それでも彼女は幸せになれると信じていた。
ヒロインが王子と結ばれと信じていたから。
婚約者であるエドワードこそ、自分の運命の人なのだと。
だが、その想いはすべて幻想だった。
エドワードには最初から愛する女性がいた。
イリアとの婚約は王家の都合にすぎず、彼は優しい言葉をかけながら裏では恋人と会い、イリアを利用し続けていた。
そして彼女は、最後までその嘘に気づくことができなかった。
「イリア・ベネリエス。お前を国家反逆罪、および王族暗殺未遂の罪で断罪する。」
その声は、どこまでも冷たかった。
「違います信じてください! 私は何もしていません!」
必死の訴えも、誰一人耳を貸さない。
貴族たちは蔑むように彼女を見下ろし、かつて友人と呼んだ者たちは静かに視線を逸らした。
「お前は本当に馬鹿な女だな。」
エドワードは鼻で笑い、冷たく言い放った。
「最初から最後まで、俺がお前を愛するとでも思っていたのか?」
「え..?」
イリアの喉から、かすれた声が漏れる。
「王家のために利用できるから婚約した。それだけだ。お前は勝手に夢を見て、勝手に期待していた だけ。」
彼は一歩近づき、見下すように微笑んだ。そしてその冷酷な赤い一目で彼女を見つめた。
「だから言っただろう? …いや、お前は何も気づかなかったな。」
その笑みには、かつて見せた優しさは一片も残っていなかった。
「君が悪い。」
「俺を信じたのも、お前。」
「俺を愛したのも、お前。」
「騙されたのも、お前。」
「全部、お前自身が招いたことだ。」
その言葉は刃よりも鋭く、イリアの心を深く切り裂いた。
信じていた未来も、愛も、すべてが偽りだった。
――自分は最初から、ただ利用されるためだけの存在だったのだ。
衛兵がゆっくりと剣を抜く。
鋭い刃が胸を貫いた。
激しい痛みとともに、視界が赤く染まっていく。
(どうして……私が……)
意識が闇へ沈む、その最後の瞬間。
彼女は心の底から願った。
(もし、もう一度やり直せるなら……)
(こんなクソみたいな人生やり直せるかしら。)
その瞬間、世界は眩い白い光に包まれた。
――眩しい。
瞼の裏を焼くような朝日に、イリアは思わず顔をしかめた。
「……っ」
ゆっくりと目を開けると、金色の光がカーテンの隙間から部屋いっぱいに降り注いでいた。
朝日だ。
あの冷たい処刑場とは正反対の、あまりにも穏やかな朝。
「……ここは?」
掠れた声が漏れる。
目に映ったのは、見慣れた白い天井だった。
天蓋付きの大きなベッド。
淡いクリーム色のカーテン。
磨き上げられた木製の床。
窓辺には白いユリが飾られ、部屋にはほんのりと紅茶と花の香りが漂っている。
どれも懐かしい。
懐かしすぎる。
「……嘘。」
心臓が大きく跳ねた。
イリアは勢いよく体を起こす。
柔らかな羽毛布団が肩から滑り落ちた。
その瞬間、無意識に胸へ手を当てる。
「……ない。」
服を掴み、何度も確かめる。
あの剣で貫かれた傷が。
胸を焼くような痛みが。
流れ続けていた温かい血が。
何も、残っていなかった。
「そんな……」
昨日まで、自分は確かに死んだ。
冷たい石畳に倒れ、婚約者だったエドワードに見下されながら。
『お前は本当に馬鹿な女だな。』
『最初から最後まで、俺がお前を愛するとでも思ったか?』
『君が悪い。』
その言葉が耳の奥で何度も何度も響く。
「……っ!」
イリアは耳を塞ぎ、息を荒くした。
違う。
夢なんかじゃない。
あの絶望も、裏切られた痛みも、胸を貫かれた瞬間の激痛も、あまりにも鮮明すぎる。
夢で済ませられるはずがない。
震える足でベッドから降りると、鏡台へ駆け寄った。
鏡に映った少女を見て、息を呑む。
「……私?」
そこにいたのは、十八歳のイリアではなかった。
少し幼さの残る顔立ち。
肩まで流れる艶やかな漆黒の髪。
雪のように白い肌。
絶望を知る前の、澄んだ青い瞳。
そして首元には、断罪の日につけられていた傷跡すらない。
「まさか……」
震える指で鏡に触れる。
冷たい感触が伝わる。
夢ではない。
「本当に……戻ったの?」
その時、コンコン、と部屋の扉がノックされた。
「イリアお嬢様、お目覚めでしょうか?」
聞き慣れた声だった。
胸が締めつけられる。
この声は――。
「リ、リア……?」
前世では、自分をかばい処刑された侍女。
死んだはずの彼女の声が、今、扉の向こうから聞こえていた。
やはり私は、2年前のあの日に戻っていた。




