ナルクスが死んだ 暗
ネモと側近たち シリアス
ナルクスが死んだ。
あの日から一年が経とうとしている今でも、ノーラルドはその事実を受け入れられないでいる。
まだ生きている気がする。
現実味がなかった。
物心がついた時には既に隣にいた親友が。
心配性で臆病で、喧嘩早いノーラルドをいつも怒っていた親友が。
剣の振り方もろくに知らなかったナルクスが、よりにもよって戦場で、自分よりも先に死ぬだなんて、ノーラルドは考えたことも無かった。
(なぁ……なんでだ? ナルクス)
お前は、自分が戦えないことを、よくよく解っていたじゃないか。
剣を持っても仕方がないから、文官の道を取ったんじゃなかったのか。
だというのに、いくら鍛錬しても身に付かなかった癖に剣なんか握って、兵士に混じって死ぬだなんて。
(似合わねえなぁ。大体お前が死んじまったら、誰が俺の喧嘩を止めてくれるってんだよ)
海を挟んだ遠い異国の地で、馴染めない他人の城の窓辺で、ノーラルドは吸い慣れた安い巻きタバコを吸う。
粗悪品だ。
ナルクスはいつも、中毒になるから止めろと言っていた。
何かと口を出してくる奴だった。
当時は煩いと思っていたが、今となっては、親友が道楽に口を挟んでこないだなんて静かすぎる。
ぼんやりと煙を吸い込んでいると、部屋のドアが鳴った。
出仕前の朝だった。
年下の同僚の声を聞いているうちに、仕えている主人の身の回りの世話をしなければいけない事を思い出した。
最後に深く煙を吸い込んで火をもみ消し、ノーラルドは手と顔を洗う。
「いま行く、リュトス」
肩に鼻先を寄せてにおいを嗅ぐ。
衣服にタバコが染み込んでいた。
上着を着たまま吸ったのは失敗だった。
──ナルクスに怒られちまう。
とっさに浮かんだ考えを、ノーラルドは鼻に皺を寄せて自嘲する。
あいつは死んだ。
もういない。
⌘
「慰霊祭が行われるそうですね。日程等は未定だそうですが、その日は皆、休日とします」
主人が寝起きしている客間の扉を開けると、寝台から低く気怠げな声が聞こえてきた。
は、と応えたケルビムがそのまま寝台を覆う天幕を閉めて振り返り、ノーラルドを見とめて足を止める。
「遅刻だ」
「あぁすみませんね。あんまり朝焼けが綺麗だったもんで」
側近の中では年長者であケルビムは、飄々としたノーラルドの言い分を聞いて眉間を寄せる。
側仕えとはいえ、ノーラルドの本職は護衛官。
いざという時に剣を振るうことが出来るのならば、ケルビムも口は出さない。
「ネモ様、どうかなさったんですか。今日はお休みで?」
普段であれば、とっくに着替えを済ませて食事をとっている時間である。
未だ寝台の中、ということは、また調子でも崩したのか。
(こういう時のためについて来ていたカルベネも、死んじまったしなぁ)
おまけに船に積んであった中央の医療品は、もうほとんど在庫がない。
(他所様のために、うちがここまでやる必要があったのかね)
頭をよぎった冷笑を抑え込み、ノーラルドは寝台へと目を向ける。
ネモはこの状況はどう思っているのか。
「ここのところ……というより終戦して以来、どうも深く眠れておられない。気づいていただろう」
「……ああ。ええ、そうですね。目の下のくまを見ればわかります」
「以前であればカルベネが……いや」
カルベネが鎮静剤を調合して、ノーラルドがカモミールのミルクティーにそれを混ぜて、飲ませていた。
やるせ無く嘆息をこぼし、ケルビムは瞼を下ろして首を振る。
「私は宮廷医に睡眠薬を出して貰えるよう話をつけに行く。お前は護衛官としての職務に就いているように。身の回りのことはリュトスがやる」
「はい。そのように」
「それから……臭うぞ。今日はあまりネモ様に近寄るな」
渋面のケルビムに肩を竦めて、ノーラルドは部屋を出ると扉の前に立つ。
話し相手もいやしない。
今日も一日、ここに突っ立て終わるのだろう。
「……慰霊祭か」
ウォルグランド奪還のために命を落とした全ての者を、弔うための祭事。
ナルクスとカルベネが、その大勢のうちのひとりにされてしまう事が、ノーラルドには受け入れられなかった。
それから数日後、相変わらず眠りの浅いネモのもとに、とうとう医者がやってきた。
基本的に王族しか診ない宮廷医シエスタが、どうしてエトルリアのネモのもとへやって来たのかと思えば、あの王弟が心配をしてこの女医を寄越したらしい。
「ネモ様も難儀な方ですこと。オリビア殿下といいネモ様といい、まったく魔術師ときたら。他人の心配をなさる前に少しはご自身の健康を省みて欲しいものですわ」
開けっぱなしの扉から部屋を覗き見れば、懇々と説教をするシエスタの言葉を、ネモは右から左に聞き流している。
夜着の上からガウンを羽織った主人は、目が開いているのかすらあやしい。
「不眠症を甘く見ると死にますわよ」
「……ええ、はい。それは解っているのですが」
「原因に心当たりはありませんの。ご存じでしょうけれど、こういうものは少なからず心的要因が関わっているものですわ」
「そうですねぇ。この一年は色々と変化がありましたから、疲れが出たのでしょう。なに、そのうちもとに戻ります。ただ、少々時間が要るだけかと」
肘掛けに肘をつき、頭が重いのかこめかみを押さえつつ、そう言ったっきり黙り込むネモ。
側に仕えているリュトスが、心配そうに主人を見下ろしている。
「……とにかく、鎮静剤と睡眠剤を処方しておきます。心当たりがあるのでしたら、抱え込まずに話してしまった方が気鬱も楽になりますわよ。わたくしでよろしければ、いつでも聞きますから」
ネモは口元に薄い微笑を浮かべると、そのまま目を閉じてしまった。
シエスタは気の毒そうな表情を浮かべる。
(気鬱か)
それは主人に限ったことではない。
ケルビムもリュトスも、ここのところ気が塞いでいる。
もちろんノーラルドだって同じである。
仲間が死んで一年という節目に、皆、なにかしら思うところがあるのだ。
「それでは側近の方。お薬をお渡ししますから、毎日取りに来てくださいませ。とにかく早急に、一時間でも眠った方が良いですわ。本当に、死にますわよ」
シエスタは今日の分の薬をリュトスに手渡すとそう言い残し、ネモの寝室を去っていた。
慰霊祭が行われたその晩、ノーラルドは酒瓶を片手に城下町をさまよい歩いていた。
ケルビムとリュトスはネモと共に参列したようだが、ノーラルドは行かなかった。
ネモがこの日を休日としたのは、ノーラルドたちに慰霊祭への参列を強制しないため。
現在エトルリアの代表のような立ち位置にいるネモは、たとえ気が乗らずとも、体が悪くとも、顔を出さないわけにはいかない。
(あいつだったら、付き添ってやったんだろうな)
ケルビムもリュトスも、自らの感情よりも主人を重んじる男だ。
かつてはノーラルドにもそれが出来ていた。
「……いや。違うなぁ」
親友がそうしていたから、自然とそれに倣っていただけだ。
酩酊した頭でぼんやりと思う。
足元がおぼつかないまま、当てもなく歩き続ける。
もはや自分は、かつてのように主人に仕えることなど出来ない。
引き際なのかも知れない。
こんな異国にいても仕方がないじゃないか。
どさ、と路端に座りこむ。
薄ぼけた視界。
「エトルリアに、帰ろうか……」
酒を飲みすぎて痺れた口から出た言葉は、名案に思えた。
二日酔いで出仕した翌日の昼。
ケルビムは顔をしかめてノーラルドをネモの寝室から追い出しただけで、何も言わなかった。
いつものようにへらへらと笑って扉を守る位置につく。
相変わらずまともに眠れないらしい主人は、本日も寝台のなか。
リュトスは非番にも関わらず、ネモを心配して部屋に控えている。
ケルビムは引退するほど歳ではないが、彼の役割は側近頭であって、一から十まで主人の世話を焼くことではない。
全体を俯瞰して動くことが、本来のケルビムの仕事のはず。
人手が足りない。
補充をすべきだ。
ネモがそれを考えなかったはずがない。
人員の補充がされないのは、抵抗を感じているから?
散漫な思考。
ノーラルドは重い頭を振って、余計な物患いを振り落とす。
(辞職するなら、代わりを見繕っておかねぇとなぁ)
幸いウォルグランドには、ネモの門弟たちを含めたエトルリアの人間が大勢、留学に来ている。
──魔術師の側近がいれば、きっとネモ様も便利だろう。
明日は非番、演習場に出かけて、使えそうな人間を探してみるとするか。
代わりがいるとなれば、ケルビムも文句は言うまい。
お目付役が居なくなって腐ってしまったノーラルドが部下では、仕事に差し支えることが目に見えている。
「ケルビム。すみませんが、話を聞いてもらってもいいですか」
その晩ノーラルドが辞職の意を伝えると、黙し、口元を引き結んで話を聞いていたケルビムは、ただ一言「そうか」と短く呟いた。
仕事を辞めると決めると、気分が軽くなるのはなぜだろうか。
問題から逃れられるためだろうか。
それとも、辞めた先に希望があると無意識に信じているからか。
演習場の魔術師たちを眺めながら、ノーラルドはどうでもいいと思った。
(しかし、こう魔術師ばかりだと、どれがネモ様の弟子だかまるでわからねえな)
無個性な連中だ。
それもそうだろう。
同じ時間に寝起きして、同じ住居に住んで、同じ訓練を受けているのだから、そりゃあ、個性もなにもない。
代わりを見つけるなど簡単だ思っていたが、そう楽でもないようだ。
公に募集でもかければ早いだろうが、そういったものに立候補してくる連中は、大抵出世欲の塊だ。
常に影でいなくてはならない側仕えに、相応しい性格とは言えない。
ケルビムが探した方がいい。
だいたい、これまでだってネモの側近はケルビムが選んできたじゃないか。
早々に見切りをつけたノーラルドが立ち上がったその時、リュトスがやって来た。
「ノーラルドさん、ネモ様がお呼びです」
「そうか。いま行く」
「あの……ノーラルドさん」
物言いたげなリュトスを見つめ返す。
思い詰めた顔をしている。
結局口をつぐんだリュトスの横を通り過ぎて、ノーラルドはネモの私室へと向かった。
部屋にはケルビムとネモが待っていた。
長椅子にもたれ掛かったネモが、気だるげに顔を上げてノーラルドを見る。
青混じりの灰色の三白眼。
相変わらずひどいくまだ。
「……ネモ様。寝台に横になっていた方がいいんじゃあ……」
「いえ。そう長い話でも、ありませんので」
寝不足の顔で薄く笑い、リュトスが扉を閉めて並ぶと、ネモは三人を前にしていっとき沈黙した。
ひとりひとりの顔を順々に眺め、ふと目元を和ませる。
凪いだ、老いた笑みだ。
ネモはその静かな面持ちのまま、長椅子から三人を見上げて告げた。
語りかけるように。
「今まで、よく仕えてくれましたね。海を渡り、戦を越えて、一年。頃合いでしょう。明日、二期目の留学生たちを乗せた船が、ウォルグランドに到着するそうです。一期生の何名かは、その船に乗って戻ることになる。お前たちも彼らと共に、エトルリアへ帰りなさい」