ナルクスが死んだ 明
ケルビムは言葉を失い、リュトスは取り乱した。
ノーラルドはといえば、他人事のように「この人はそういう人だったな」と考えていた。
アナクサゴラスと組めば朝から晩まで腹黒い画策をして人生を愉しんでいるが、そうでない時は至極真っ当。
自身よりも他者を優先するその気質は、ネモもまた主人に仕える者、魔術師という職にあるからだろうか。
もう休むので下がりなさい、という命令によって寝室を追い出され、三人は思い思いの場所へ。
ケルビムはそのまま閉ざされた扉の前に控え、リュトスは感情の昂りのままにどこかへ去っていく。
ノーラルドはふたりを横目に、上着をその辺に脱ぎ捨てて城を出る。
(ケルビムはネモ様に話したんだろうか。俺は、あいつらを道連れにしちまったのか? それとも、ネモ様は最初から全部解って……)
ああ、嫌だ。
自己嫌悪と自責がろくでもない憶測を生み出して止まらない。
適当な店で酒を買い、その場で瓶の栓を口で抜いて一息に煽る。
かっと喉を焼くアルコールは、思考を鈍らせてくれるのでここのところ手放せない。
気晴らしの薬みたいな物だ。
味なんかどうでもいい。
馬鹿になれれば、それで構わなかった。
昼間から飲み歩いて、気付けば夜になっている。
泥酔して路端に座り込み、うつらうつらと船を漕いでいると、ザッと音を立てて何者かが前に立った。
──夜盗にでも目をつけられたか。
濁っていた頭の中が冷たく覚めていく。
腰に佩いた剣に指をかけると、声が降って来た。
「顔も見ないで斬るつもりですか。それじゃあ悪党と変わらないじゃないか」
「……お前……」
どうしてこんな薄汚い路地に、こいつが?
のろのろと顔を上げれば、激しい感情に顔を歪めたリュトスが、ノーラルドを睨むように見下ろしている。
「……おう、どうした、リュトス。明日でお別れなんだ。ネモ様の側にいてやらなくていいのか」
「あんたがそれを言うんですか」
真っ直ぐな物言いに苦笑が浮かぶ。
リュトスはいい育ち方をした。
皆で面倒をみて育てた後輩だ。
まだ子供だと思っていたが、いつのまにか男の顔をするようになっていた。
「いいんだ、俺は。どうせ負担になるだけだ」
「どうせ? どうせってなんです」
「見りゃあわかるだろう。俺はもう駄目なんだよ。みっともなく酒に逃げるだけの、役立たずだ」
剣にかけた指を外す。
酒瓶を取ろうとして失敗し、瓶を倒してしまった。
石畳に広がっていく黒い染みをぼんやりと眺める。
こぼれたものは、もう元には戻らない。
「……ナルクスさんが今のあんたを見たら、なんて言うだろうな」
「おぉい、リュトス。それで挑発しているつもりか?」
「カルベネさんだっていい気はしないでしょう。仕事を増やすなって怒るだろうな」
「……よせ、いい加減にしろ」
「あのふたりは、ネモ様に帰れと言われても大人しく言いなりになったりしない」
「黙れって言ってんのが解らねえのか!!」
怒号を浴びても、リュトスの姿勢は揺るがなかった。
腕が伸び、襟首を掴まれる。
硬く握り締められた拳が振り上げられている。
──ああ、殴るなら殴ればいい。それで気が済むのなら、いくらでも。
されど拳が振り下ろされることはなかった。
代わりに落ちて来たのは、途方に暮れたような、リュトスの声だ。
「あんたまで居なくなってしまったら、俺はどうしたらいいんですか……」
居なくなる。
居なくなる?
何も、死んだわけでも無いだろうに。
「どうするも何も、お前だったらひとりになっても何処でも上手くやっていけるだろうよ」
本音だった。当たり前だ。
ケルビムの監督のもとで、ナルクスとカルベネとノーラルドで育てたリュトスだ。
何処に出しても恥ずかしくない後輩だ。
だがその後輩は今、情けなく泣き顔を歪めている。
まるで配属された当初のように頼りない。
「……どうした、リュトス」
「それはこっちの台詞です」
「ああ? 何言ってんだ、お前」
「ノーラルドさん」
腹の辺りにぐっと押しつけられた物を見やる。
本、いや手記だろうか。
表紙に記されていた持ち主の名を見て、ノーラルドは震えた。
丁寧で几帳面な文字で記されている親友の名。
「これはナルクスさんの日記です。戦の前に託されました。後半は、ネモ様とノーラルドさんについて、事細かに書かれていました」
やめろ。
「ナルクスさんは、自分が居なくなった後のことを考えていたんです。覚悟を決めて、行動していたんです。ナルクスさんは、ネモ様と同じくらい貴方のことを心配していたんです。読んでみればいい。俺はこれを読んでしまったから、ノーラルドさんが駄目になっていくのをただ見ていることなんか出来ない」
もうやめてくれ。
ノーラルドは顔を覆う。
そんなことを知ってどうなる。
あいつが心配性で用意周到なのは、言われるまでもなく解っているとも。
「ノーラルドさん。俺だって……俺だって寂しい。寂しいし悲しいです。ケルビムさんもネモ様も口には出さないけど、同じなんです。なのに誰もふたりの話をしない。おかしいじゃないですか」
「そりゃあ、口に出しちまったら、取り繕えなくなっちまうからだろうよ」
「取り繕わなくったっていいじゃないか」
真っ直ぐなリュトスの言葉が、傷口を抉る。
「仲間が死んだ時くらい、皆で泣きましょうよ」
負けだ。完敗だ。
リュトスの中にはナルクスの優しさが生きている。
当然だ。
この男は皆で育てたのだから。
黙し、顔を覆ったままうつむき、声を殺して背を震わせる。
(お前はここに居たのか、ナルクス。こんなに近くに)
どうりでいつも隣にいるような気がするわけだ。
ナルクスは死んだ。
だが死んだからといって、居なくなったことにはならない。
ノーラルドたちが忘れない限り、親友は生き続ける。
忘れない限り、どこにだって見出せる。
あいつはいつまでも、隣にいる。
酔いが覚めた頃合い、ノーラルドは城へ戻った。
夜更けにも関わらず、ネモの寝室からは薄明かりが漏れていた。
今日もまた、眠れない夜を過ごしているのだろうか。
酒臭さを少しでも誤魔化そうとミントを噛み、ノーラルドはネモの部屋へ足を踏み入れる。
バルコニーに面した窓辺のテーブルに肘をついて、ネモは星空を見上げていた。
テーブルには葡萄酒の杯。
珍しいこともあるものだ。
「おや……ノーラルド。どうしたのです。こんな夜更けに」
振り向いたネモは相変わらず凪いで見える。
ご一緒しても、と問いかけて葡萄酒を指すと、最後ですしねえと言ってネモは席をすすめた。
向かい側に腰を落ち着け、ノーラルドはなんとなしに主人の状態を観察する。
ネモが酒を飲んでいるところなんて、見たこともない。
いつもは青白い顔がやや赤かった。
葡萄酒の瓶の中身はほとんど減っていない。
到底、酒に強そうには見えない。
「ネモ様、どうして酒なんか。好きでもないでしょうに」
「まあ、ねぇ。ですが私だって、十年に一度くらいは葡萄酒の力が必要な日もある」
「葡萄酒の力、ですか」
ノーラルドが好んで飲むのは蒸留酒だ。
葡萄酒では度数が低すぎてこれっぽちも酔えない。
とはいえ、ネモには葡萄酒でも十分なのだろう。
星を詠みながらゆっくりと杯を傾けていたネモは、なんの前触れもなく、突然嗚咽をこぼした。
「うぅ……ううぁ」
「ネ、ネモ様」
ノーラルドは狼狽した。
泣いている、だと? あのネモが。
仕えて以来、一度たりとも無かったことだ。
酒のせいだろうか。
酒に酔って、感情の制御かきかなくなっている。
ぐすぐすとすすり泣きながら、ネモは空になった酒杯に葡萄酒を注ぐ。
狙いを外してこぼしていた。
やはり既に相当酔っていると見える。
「あの、ネモ様……そろそろおやめになった方が」
「黙らっしゃい。どうしようと私の勝手です。お前も飲みなさいノーラルド。それとも私の酒は飲めないとでも?」
「い、いえ。そんなことは」
泣き上戸の絡み酒ときたか。
なんてたちの悪い酔っぱらいだ。
これは明日の朝、相当気まずい思いをするに違いない。
ノーラルドの前でネモはぐいと葡萄酒をあおり、肘をついた手で顔を覆う。
「なぜ……ずっと考えているのです。私はあの日、なぜふたりを船に残して行かなかった。私が連れていかなければ……私が間違えたのです……うっ、うぅ」
ずるずるとテーブルに突っ伏してしまった主人を前に、ノーラルドは茫然とした。
後悔をしていたのか。
戦で人死にが出ることは当然のことだ。
エトルリアを出てネモに着いていくと決めた時から、全員がそれを覚悟していた。
少なくとも己の死に関してはそうだった。
友に死なれることについては、考える余裕も無かったが。
この一年、ネモはナルクスとカルベネの死を悔やんでいたのだろうか。
ずっと表に出せずに抱えていたのだろうか。
(ああ、そうだなナルクス。この方を置いて、エトルリアには帰れない)
──当たり前だろうノーラルド。帰るだなんて、何を馬鹿なことを。
呆れ顔の親友が頭に浮かぶ。
ナルクスだったらどうする?
少なくとも、このままネモに葡萄酒を飲ませ続けたりはさせないだろう。
ノーラルドは主人の手から杯を取り上げ、立ち上がった。
あっ、と非難の声を上げるネモを無視して、杯もボトルも片付けてしまうと、代わりに水差しを取って戻る。
「葡萄酒の力はもう十分借りたでしょう。水飲んでください、ほら。明日後悔しますよ」
「良いのです、どうせ明日になればお前たちは居なくなるのだから。……私なんてねぇ、肝心な時に役に立たない主人に仕えたって仕方がないでしょう、主人といえば閣下も私を置き去りに……これは酷い……」
「あーハイハイそうですね。つーか、閣下もって、ネモ様」
俺たちに帰れと命じたのはネモ様じゃないか。
出かかった言葉を飲み込んで、ノーラルドは苦笑する。
くまの濃い目を充血させて、ブツブツと文句を言っている主人。
ひどい有様だ。夢に出そうだ。
この人もこんな風になるのか。
親友は知っていたのだろうか。
「いけない……なにやら気分が悪く……うえ」
「あーあー、だから言ったのに。吐くなら吐いちまった方がいいですよ」
「うるさい! そんなことはお前に言われなくとも……うっ」
「……」
「……」
口を押さえて沈黙。
水桶を差し出して視線を外すと、ひったくるように桶を奪ったネモはノーラルドに背を向けて嘔吐した。
相変わらず静かに吐く人だ。
胃を悪くしていた頃は頻繁に吐いていたので、慣れているのだろう。
こうなってしまっては仕方がない。
──吐き気が治まるまで飲んでしまった酒を吐かせて、脱水状態を起こさないように水分を摂らせる。
眠ってしまったら身体は横向きに。
吐瀉物が喉に詰まったら、窒息しますから。
中毒を起こしてしまうと最悪死ぬので、呼吸と脈拍は確認すること。
可能であれば、早急に点滴を。
記憶のなかのカルベネが、冷静に指示を下す。
勤勉な衛生兵だったカルベネには、知識と冷静さでは全く勝てなかった。
ノーラルドだって馬鹿では無いというのに。
主人を介抱しているうちに空が白み始める。
流石に疲れたのだろう、吐き気が治まるとネモは眠ってしまった。
諸々の片付けをしているうちにリュトスが出仕して来て、そのまま慌てて宮廷医を呼びに行く。
きっちりと身支度を整えたケルビムは、部屋のにおいを嗅いで眉を顰め、ノーラルドのだらしない姿を見て顔をしかめ、青い顔で眠っているネモを見て顔色を変えた。
「医者なら、もうリュトスが呼びに行きましたよ」
自身も二日酔いで痛む頭を押さえながら、ノーラルドは言い訳をする。
「あー、あと俺が夜中に来た時にはもう飲んでたんで、あの人。俺が飲ませたわけじゃあ、ないですからね」
「……わかっている」
「旅支度、しなかったんですね。ケルビム」
窓を開け、換気を始めたケルビムの身なりは、今日船旅に出る者の服装ではない。
リュトスに連れられてやって来た女医が、悪酔いで青ざめたネモに向かって「馬鹿ですの!?」と怒っている。
「お前こそ、エトルリアに帰るのではなかったのか」
七十は歳下の女医にがみがみと説教をされる主人を呆れ気味に眺めながら、ケルビムは呟いた。
気まずい思いでマッチをすり、巻きタバコに火をつけながら、ノーラルドは肩を竦めてへらりと笑う。
「いやぁね、帰れませんよ。……ナルクスに、怒られちまう」
久方ぶりに声に出した親友の名は、上等な葡萄酒と安いタバコの味がした。
ナルクスが死んだ 終
睡眠薬を飲んでいる人に酒を飲ませてはいけない。
側近たちの会話にふたりの名が上るようになり、ネモの不眠症は少し改善した。
ノーラルドがナルクスの日記を読めるようになるのは、もう少し先のこと。




