猫
「あ、お兄さん、それはそこに置いてくださいね。それで、そっちのは椅子の横」
あくる日の午前、アトリエ。今日も今日とて花を描くメルティーナは、各種の荷物を抱えた俺の方をまったく見ないまま、しかし狂いのない正確な指示を飛ばす。もしかして、絵描きの背中には目でもついているのだろうか。
「眠たそうですね?」
「まあ、昨日ちょっと同じ宿の客と話し込んでな。これがまたおかしな話だったんだよ……」
俺は少しにやけながら、昨晩の顛末をこの絵描きの少女に語った。
「その御夫婦はきっと、とても仲がいいんですね」
彼女は笑って、それ以上は何も言わなかった。
今日も今日とて、日が暮れる。
日が暮れたら、宿に帰る。おいしい夕食をいただいて、ユーリアさんの揺れる金髪を眺めて、続いてハルさんの頭もちらりと眺めて、視界の端の自分の髪を意識した。食事が終われば、何となくハルさんの後を追う。今日も奥さんは来なかったらしい。まあ当然だろう。
不甲斐ないハルさんをひとしきりからかった後、俺は部屋を追い出され、自室に戻る。戻ってみれば、何故かミアが俺のベッドですやすやと寝ている。まるで昨日の俺のようだ。
彼女は安らかに寝息を立てている。なんだか、猫みたいだ。
「……」
きっと、疲れているのだろう。もしかしたら先生に怒られてここに逃げ込んでいるのかもしれない。以前もそんなことがあったから。
とりあえず、布団を掛けてやることにしようか。とはいえ、ミアはしっかりと掛け布団を身体の下に敷いてしまっている。起こすのも忍びない――俺は、自分の上着をこの魔法使いに提供することを決意した。
「……おい」
起こしたくはない。ただ、安らかに寝ているこの少女に向けて、俺は声を掛けずにはいられなかった。ただしその理由は判らない。もしかしたら、最初から理由そのものが存在しないのかもしれないのだから、考えるのは一切やめにした。
「……俺も眠いんだよ」
ただ何となく、この寝顔に文句を言いたくなった。あまりにきれいな、安心しきった、この寝顔に。
俺はミアの寝ているベッドにそっと腰掛ける。それに当たって、なるべく揺らさないように心がけた。俺が腰を落としきるのに合わせてか、ミアが寝がえりを打ってこちらに擦り寄ってきた。やっぱり、猫みたいだ。
猫の頭は撫でてやるものだ。
「……何してるんですか」
しばらくすると、ミアが目を覚ました。音もなく、静かに。
「……何もしてないよ」
「嘘です。していました」
「……はいはい」
そんなことを言って、ミアはまた眠りについた。俺はもう諦める。風呂に入ろう。
風呂から上がると、ミアはきちんと起きていた。先程まであんなによく寝ていたとは思えないくらいに、背筋をぴんと伸ばして。
それはまるで、まるっきりいつもの魔法使いだ。
「前髪、跳ねてるぞ」
「うるさいです」
ミアは顔を逸らす。まあ、耳の裏まで真っ赤になっているのは丸判りであるのだが。しかし、そこまで指摘するのはかわいそうというものだろう、多分。
「それで、どうした」
「……はい」
俺は濡れた髪を拭いながら問い、ミアはそれに応えた。彼女はただ淡々と、淡々としている風を装って、俺に、ただその飾り気のないひとことだけを残していった。ただこれだけを伝えに来た彼女のことを思うと、少しばかり胸が痛んだ。
「あと三日です」




