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逆行懐古録Ⅰ しあわせなリーナ  作者: 黒川杞閖
一月 「しあわせなリーナ」
21/52

それぞれの秘密

 まったく予想できないことではなかった。とはいえ彼女の依頼に、そして射抜くような視線に、俺は戸惑っていた。

「仕上げるって言われても、俺は絵なんか……」

 俺は無理だよ、と細々何度か繰り返した。それでもメルティーナは引かなかった。こちらが否定をするたびに、大丈夫ですという無敵の呪文をぶつけてくるのだ。同じやり取りを何度か繰り返したのち、とうとう俺はメルティーナに負けた。ぽっきりと折れて、彼女の話の続きをおとなしく聞くことになった。

「あたしはこの国を出たことがありません。それどころか、この街と、ここから少し離れた生まれ故郷のことしか知らないのが現実です」

 メルティーナはキャンバスの角に手をかけて、視線を落としてぽつぽつと話し出した。

「要するに、イマジネーション不足なんですよ」

 彼女はまた、照れて笑う。

「このキャンバスは世界の詰まった箱です。世界のいろいろなことをここに閉じ込めたいんです。そのためには、あたしの経験だけでは何もかもが足りない」

 今度は小さなため息。

「お兄さんは旅の人でしょう? それに、帝国訛りで話す遠いところの人です。きっとお兄さんは、あたしよりもいろいろなことを見て、知っているはずです」

 再びオレンジの瞳がこちらに向く。

「だからあたしは、あなたの頭の中が欲しいんです。あなたの人生、どうかあたしに貸してください。お願いします」

 瞳は伏せられ、メルティーナは深々とこうべを垂れた。

「――要するに、何をすればいいんだ?」

 この申し出を断るだけの力が、果たして俺にはあっただろうか。

 結局この日も具体的な作業に入ることなく、俺はメルティーナと次の日の約束だけをして、清流亭に戻った。気が付けば陽は傾きだしているような頃合いだ。俺は、両肩に痛みにも似ただるさを感じて、重たい服を脱いでベッドに横たわる。

 ふと目を開けるとミアがいた。

「……部屋着くらいまともに着たらどうですか?」

 彼女は俺の、胸と腹をすべてはだけたひどい格好を見て顔をしかめた。俺は、いくら何でも申し訳ないなと思いながら、やっとの思いで顔を歪めて笑った。

「お疲れ、なんですね」

 そう言ってミアは、いつまでも服の乱れを直さない俺をたしなめる。ああ、すまないと言うその前に、ミアは寝転がったままの俺のボタンに手を掛け、すべてをきちんと整えてくれた。垂れ下がる長い髪からは、甘い花のような香りがする。本当ならもっと思うところがあってもいいはずなのだが、このときに限っては、ああ、長いな、というどうでもいいような感想しか抱けなかった。だからこそ、このくたくたで役立たずの俺はただ、彼女のやさしさに甘えることにした。今はきっと、それでいい。

「花の絵なんだ」

「え?」

「彼女の、メルティーナ・フラウの描いているのは、見たことのない花の絵なんだよ」

「……そうですか」

「すごくきれいなんだよ。でも、まだその花は未完成で、彼女はそこに、彼女自身と俺の世界のすべてを詰め込みたくて」

「――はい」

「あがいて、いるんだ」

 覚えているのはこの言葉までだ。俺はふたたび、眠りに落ちていた。目覚めたとき、ミアはもう、ここにはいなかった。

 あがいているんだ。

 どうしてこんなことを言ったのか、目覚めた後の俺自身にも判らなかった。そしてそれは、いくら考えても答えと応えの見つからないものだ。

 時計と下の様子を伺うに、ちょうど夕食どきらしい。疲れはいくらかましになった。今夜もおいしい夕食を食べて、ハルさんに絡みに行くことにしよう。

 夕食は魚であった。そして的確に感想を表すうまい言葉が見つからない程度にはおいしかった。作文とスピーチは苦手だ。

「で? 君は今夜、何の用で来た」

「いやあ、それはその」

 食後はそのままハルさんの部屋にくっついていく。ちょっと迷惑かとも思ったが、彼の性格からしてそこまで遠慮する必要もあるまい。

 話題はひとつ、俺は気になっていたあのことを聞く。

「ハルさんはどうしてひとりでツインの部屋に泊まっているんですか?」

「……」

 例の椅子に座っていたハルさんは、図々しくも空いたベッドに腰かけていた俺の方にゆっくりと歩いてくる。そして目の前に来た、と思った次の瞬間。

 頭をグーで殴られた。

「な、何ですか!」

「察しろよ!」

「無理です!」

 そんな言葉の応酬を、驚くべきことに十分も続けてしまった。その間、俺はハルさんに三回殴られた。不毛だ。

 暗転。

「――夫婦喧嘩の末に家出? はぁ?」

 俺が頭の痛みと引き換えに聞きだした事の真相は、それはもう随分とあっけなくてくだらないものだった。もちろんこのリチャード・ハルにとっては目下最重要の事項なのであろうが、そんなの殴られた俺には関係ない。とにかく側頭部が痛い。

「それであんた、ふてくされて仕事休んで単身こんなところに来て、それで引きこもってるんですか? うわ、意味わかんね」

「……引きこもってない。昼間は妻が万が一迎えに来ていないかと、広場の辺りで本を読んで……」

「余計悪いわ!」

 俺たちの不毛極まるこの争いは、恐ろしいことになんと深夜まで続いた。


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