第1話
「ねー、悠斗ってば! 聞いてる?」
今の今まで見つめていた相手の眉が下がり、饒舌に言葉を紡いでいた唇がへの字に曲がった。真っ黒なカラコン一枚隔てた向こうで、茶色がかった瞳が不安げに揺れている。
放課後の教室には僕たち以外には誰もいない。開け放たれた窓の向こうから聞こえる野球部の雄々しい声と吹奏楽部のフルートの音色が、青春のハーモニーを奏でている。
騒々しさが話し声をかき消し、かえって二人の時間を秘密めいたものに感じさせる。その雰囲気のせいなのか、じっくりと相手の顔を観察してしまっている自分にようやく気づいた。照れ隠しに頭を掻きそうになるのを堪え、僕は余裕たっぷりに顎を上げてみせる。
「聞いてるよ。未だに弊校の野球部が、雨の日の練習メニューとしてウサギ跳びをやっているのは、あまりにも前時代的だって話だろ? あれ、膝に悪いからな」
「そんな話してないし! もう、やっぱ全然聞いてないじゃん!」
対話相手であるところの浦野奈々は、僕の答えに不満げに唇を尖らせた。長いピンクの爪で、少し低めに結んだツインテールの毛先を弄んでいる。
「冗談。あれだろ、最近噂になってる、机の印の話だろ?」
何とか記憶の端にあった単語を拾って問うと、奈々は勢いよく頷いた。
「そう! ある日登校してきたら、机に目印のようなものが書かれてたんだって! しかも校舎中に、何個も同じような印が書かれた机があるらしくって! 不思議じゃない?」
奈々はこちらに身を乗り出しながら捲し立てる。第二ボタンまで開けられた制服の隙間から胸元が見えそうで、僕は視線を彷徨わせながら椅子ごと仰け反った。その拍子に、奈々の甘ったるい香水の香りが鼻をくすぐる。
「誰かのイタズラじゃないのか?」
「誰が? なんの目的で? わざわざ校舎のいろんな机に印をつけて回るなんて、これってやっぱり……」
そこで言葉を区切って、奈々はらんらんと目を輝かせる。どうやらまた彼女の悪癖が始まったようだ。僕が眉を顰めるのと、奈々が言葉を続けるのは、ほぼ同時だった。
「……サイコパスの仕業じゃない!?」
「あのなぁ、どうしてそうなるんだよ」
呆れて肩を落とす僕の目の前で、奈々は人差し指をピンと立てて、得意げな笑みを浮かべる。
「だって、目印と言えばターゲット、ターゲットと言ったら連続殺人、連続殺人と言ったらサイコパス、でしょ?」
「そんな雑な連想ゲームがあるかよ。単に君がホラーが好きだから、そうやってこじつけてるだけだろ」
「そんなことないし!」
奈々は不満げにぷくっと頬を膨らませる。普段はつんと澄ました美人な雰囲気の顔が、ふっくらと子供らしい丸みを帯びてとても可愛い。
思わず唇から零れそうになった賛辞の言葉を無理やり飲み込んで、僕はニヒルな笑みを作った。
「まさか君は、これが猟奇殺人犯の犯行声明だとでも思っているのか?」
「まあ、そうだったらワクワクするなぁと思ってるけど……」
途端、奈々はにっと笑う。悪戯を思いついた子供のように無邪気な笑顔で、奈々は首を傾げた。
「……悠斗がそういう言い方をするってことは、もう見当がついてるんでしょ? 机に目印を付けた犯人と、その理由」
「ああ、まあな」
余裕たっぷりに言って肩をすくめる。上の空ながらも、奈々が"不思議な事件"の話を持ち込んだ時点で、こういう展開になることは予測済みだった。
それにこの程度の謎、奈々の顔の可愛いところ百選を考えながらでも、片手間に解ける。肘をついて視線の高さで指を合わせる――尖塔のポーズを取りながら、僕は口を開く。
「まずは状況を整理しよう。三日前、学校中の机に謎の印が描かれていた。描かれた机の総数は分からないが、ほぼ全クラスに、一つ以上印のついた机がある。間違いないな?」
「うん、間違いなーし!」
奈々はビシッと敬礼のポーズをしながら答える。非常に元気いっぱいな動きだが、左手なのが惜しい。
「奈々、君はその前にもいくつかの噂話をしただろ。何の話をしたか、覚えているか?」
「ええっと……三年の久住屋先輩が他校の不良生徒との喧嘩で、相手の家ごと粉砕したって噂。副校長先生が演劇部や吹奏楽部の練習を覗き見しててキモイって噂。保健医の先生が大恋愛の末に失恋したって噂、の三つだったかな?」
「ああそうだ。二つは心底どうでもいいんだが……その久住屋って人が本当に人間かどうかはかなり気にかかるが……今回の事件には関係ない。残る一つだけは、事件と関係がある」
「嘘っ! どれ?」
驚きで目を瞬かせる奈々を手で制して、僕は教室の壁を顎で示す。そこには室温計や時間割表と共に、カレンダーが貼られている。
「そして今の時期。五月、つまり初夏だ。この三つの事実を合わせれば、自然と答えは導き出せる」
ううん、と唸りながら、奈々は腕を組む。眉間に寄せる皺すら可愛く思えてしまうのだから、まったく恋の病とは恐ろしい。
「単純な話だ。夏休み前のこの時期、秋の教育委員会の予算案を提出するため、教師陣は学校中の備品を確認する。副校長先生が放課後にウロウロしていたのは、部活を覗き見するためじゃなくて、備品の確認のためだろう」
ここで僕は尖塔のポーズを解く。マジシャンの種明かしよろしく、わざとらしく大袈裟に手を広げてみせた。
「つまり謎の印というのは、単に交換対象の机を識別するための印ってことさ! 印がつけられた机を調べてみるといい。恐らく脚がガタガタしていたり、天板に穴が空いていたりするはずだからね」
「ふぅん。なんだ、そんなことかー」
僕の渾身の解説に、奈々はつまらなそうに肩を落とす。しゅんとした様子は叱られた子犬のようでたいそう可愛い。そんな思考を振り切り、僕は緩く首を振った。
「世の中の不思議に思えることなんて、蓋を開けば大したことないってのが、ほとんどだからね。猟奇的な思考をしたサイコパスなんて、そうそういるものじゃない」
「そっかぁ……でも、悠斗は、本物のサイコパスだもんね?」
奈々の言葉に、思わず震えそうになった肩を、全筋肉を総動員して止める。無理に笑みを作って、僕は口を開いた。
「そうとも。僕こそが唯一、本物のサイコパスだよ」
奈々は嬉しそうに目を細める。とろんと蕩けた瞳には僕だけが映っていた。彼女の頬が赤く染まり、桃色の唇がゆるりと弧を描く。
「やっぱり、悠斗って最高のサイコパスだね♡ 大好き♡」
奈々に微笑み返しながら、僕は人知れず胸中で叫ぶ。
――違う、僕は、本当はサイコパスなんかじゃないんだ。




