第九話 抜け殻は、しかし力強く
頬を流れる汗を拭った。上がる息は疲労を認識させ、進む足の痛みは筋肉の悲鳴だろう。運動不足は勿論だが、しかし真白はこの粘りつく様な疲労は精神的なものもあると思った。
汗のにおい。太い腕に生えた体毛は濡れていて、まくられたティーシャツの袖からは汗ばんだ二の腕が伸びている。背負うバックパックは重々しく、肩口に食い込んでその部分の布が歪んでいる。すぐそこまで迫った山頂を見つめる歩は、真白との距離を徐々に近付けていた。意識してのことなのか、無意識なのかわからないが、斜め前を行くその背中は、頼もしげでありながら、しかしどこか真白の胸中をざわめかせた。歩と出会ってから重ねた短い時間の中で、真白はこうも背を伸ばして前を向く彼を見たことはなかった。常に下を向いていて、自信などないといった風であったからだ。それがどうだ。歩は今胸を張ってこうして真白の前を歩いている。自信に溢れても見えた。それでも真白は一抹の不安を胸に抱いた。正体のわからない不安の尻尾を掴もうと真白は歩の長い髪を見る。黒髪は表情を遮り、その心中を見せない。
馬鹿な事。再びその言葉が脳裏をよぎった。真白は歩の感情を知っている。じわじわと這いずってくる危機感に駆り立てられて、真白は自身のうちにその感情の名前を探しつつ、歩の背を追った。
山を跨いで下りに入った。木々は深く視界が悪い。葉や枝、幹が何重にも重なって、陽光を遮り、真白は涼しさというものを感じた。肌寒く、羽織るシャツ越しに二の腕を抱いて、真白は大地を踏みしめる。足元は根と落ち葉と植物に覆われ、人や獣が歩いたというわけではなさそうだ。草木のにおい。真白は支えにと傍の木に手をついて、それらの中に歩を探す。
暫く歩けば視界がはれた。眩しい日の光に目をすぼめ、手で顔を覆い、指の隙間から景色を見やった。
街がある。
廃墟と呼ぶことは出来ない。人の存在を感じる集合体を誰が廃墟と呼べようか。
歩いて数時間。昼過ぎて日が傾き始めるころだろうか。その頃にはあそこに辿り着くだろうと真白は考える。
真白は目に映るものを否定しない。ここがどこなのか、そして自分が誰なのか真白は知っている。歩が教えてくれたからだ。だから出会いというものに身構えた。メガネの男たちが思い起こされて、真白は知らず知らずのうちに歩の手を握っていた。
恐ろしいほどにその手は冷たかった。こちらを振り向いた歩は笑って、選択を真白に委ねる。行くも行かないも真白次第だと。柔らかい表情とは裏腹に、まるで血が通っていないと思えてしまうほど冷たい指先が、真白の手の中にある。それでも歩はこちらの手を離さなかった。力を込めれば返ってくる力がある。しかし満足することが出来なくて、真白はもう一つの手で歩の手を包んだ。
「行こう」
不安を感じさせないように気丈に振る舞ったつもりであるが、やっとの思いで吐き出せた声は震えていた。
ゆっくりと頷いた歩は、どこかこの世のものではないような神聖な雰囲気を纏っていた。真白は両手に力を込めて、歩をこの場に縛った。
山を下り平地に入ると、視界に映る色のバリエーションが増えたような気がした。思えば、背後あの山のむこうは限られた色ばかりで、花の明るい色や、草花の間をひらひらと舞う蝶の翅の眩さなどはなかった。蝶と呼んだその生き物は、真白がよく見聞きしてきたものと変わりはないように思えた。足元の拳大の石をつま先に力を込めてひっくり返すと、こちらにもよく知る生き物達がいた。耳を澄ませば、木々のざわめきの中に様々な生物の息遣いが感じ取られた。急に現実感がにじり寄ってきて、真白はしばしの間面食らった。
そこから更に歩を進めると、遂に森は終わりを告げ、開けた視界には整然と並べられた石碑が多数存在した。一目でここは墓地であるとわかったものの、しかしどれも手入れがされておらず、辛うじて形を保っているそれらは、表面に刻まれた名前をどれも忘れてしまっていた。地面から伸びる植物に抱かれるように立ち尽くすそれらは、近付くにつれて徐々にその輪郭を確かにしていく街並みとは対象的だった。
歩はその前に屈んで表面を撫でている。冷たい指先は相変わらずで、穏やかな表情は何を思っているのだろうか。名前が彫られていたのであろう溝に指先を滑り込ませ、歩はその縁をなぞっている。どうしてか、真白には一瞬歩の足にツタが絡まっているように思えた。目を数回瞬かせて、しっかりと見ればそんなことはなかった。
墓地から街に続く細い道がある。誰もここを長らく通っていないのか、微かにそれが道であるのだとわかる程度の幅には、背の低い雑草が伸びている。踏みしめて二人は歩いた。
暫くすると、水が流れる音が聞こえた。間もなくそれは川のせせらぎであるとわかった。水面はキラキラと光を反射させている。涼し気な光景と音に真白は欲を覚えたが、光が邪魔をして水底が見えず、その深さを知ることが出来なかったし、また川の向かい側に迫った街に人影があったことから、彼女は自身と歩のにおいなど忘れてそれを注視した。
こちら側とむこうを繋ぐ石橋。それを前に、真白は声を聞く。雑多な生活音と人々の声。耳を突く高い声は、小さな子供たちの笑い声だ。
真白は走る子供たちの姿を遠目に見た。こうして歩以外に人を見たのは、随分と久しぶりだと感じた。不意に視界に白と赤がチラつく。それは歩と繋いだ手から流れ込んできた物の様な気がした。白い線が二人を導く様に向こう側に流れていく。冷たい指先が僅かに動いた。
「人がいる」
するりと歩の口から言葉が滑り落ちた。短くそれに返すのと、視界の奥の子供がこちらを指さしたのはほぼ同タイミングだった。彼らの頭はどれもみなカラフルであった。チラチラと小さな火が燃えて、飛び散った火の粉から周囲に燃え移るように、彼らは真白たちに気付いていく。ざわめきが伝播していき、一つ小さな火の粉が街中へと駆けて行った。
「どうする?」
真白は問うた。歩の答えを待った。ジッと見つめた。歩は落ち着いているようだ。走り出しはしない。真白は歩の行動を待っている。
「行こう」
歩は微笑んだ。その笑顔を見ていると胸が締め付けられて、真白は目を逸らした。川の水底は見えない。
石橋を渡りだすと、対岸に女がいることに気が付いた。深緑色の髪の女は、男の子に手を引かれて急いできたようで、肩を揺らしている。もう一方の手に握られた長い棒が不可解だった。胸に手をついて呼吸を整え、彼女は顔を上げた。目が合う。すると彼女は大きく目を見開き、途端にその表情を怒りに染めた。棒を真白たちに構えると、それが杖なのだとわかった。地面について歩行を補助する為の物ではなく、それ以外の用途に使われる物であると。向けられた先端に光が集まって、真白はオカルトじみた光景に、それを魔法の杖と反射的に決めつけた。
冗談だと理性が追い付いた。しかし、正面の女が何か怒号を発するとともに、杖の先から放たれた光が、真白の横を擦過して背後の木を穿ったのを見て、真白は確信めいたものを得た。全身を緊張感が支配した。肌が粟立つ。
女が何かを言っている。日本語ではない。しかし鋭い語気は、その意味が分からずとも、こちらを問いただすものであるというのは確かだ。向けられた杖の先に再び光が集まる。殺気、というものを真白は初めて感じた。
「やめろ!」
歩が真白の前に立った。女と真白の間に立った歩の背に、真白は視界を遮られる。それはあちらも同じだろう。
「歩!アイツ普通じゃない!!逃げよう!!」
真白は歩の腕を引っ張った。冷たかった指先に熱がこもっている。感じた危険に怖気づいた真白は、目の前の大きな背中に一瞬たじろいた。歩が今何を見ているのか、その片鱗を真白は知った。
「馬鹿なことを考えるな!」
真白の声に歩の背がピクリと動いた。やがてゆっくりと振り向いた歩は、緩やかな笑みを浮かべている。何もかもを諦めてしまったような力のない笑みだ。
「答えなさい!!あなた達は何者なの!?どこから来たの!?」
真白は微かな頭痛を得た。酔ったような感覚に捉われて、まるで水中にいるかのように音が籠った。徐々にクリアになっていく聴覚は、女の声を得る。日本語だ。
「何者……?」
歩も同じ感覚に捉われたのか、頭をおさえている。苦しそうにそう反復した。
「黒い髪、黒い瞳……。トワイライト」
女はそこで大きく息を吐いた。目が据わっている。本気で殺す気なのかと、真白はその濃密な殺意に倒れかけた。歩の手がこちらの手を握っていなければ、腰を抜かしていただろう。
「あの子は連れて行かせない。ノアは連れて行かせない!」
杖を構えた女は、その先端の光を更に大きくさせた。
「やめろ!……聞く耳も持ってくれないのか!!」
歩の怒鳴り声は、女に届かないのか、それとも聞こうとしていないのか、深緑色は迸る殺意を抑えない。
真白は混乱の中で歩の感情の名前を知った。それは常に真白が抱いていた物だった。仕方ないとそう思わせて、自分を誤魔化して簡単に正当化してしまう感情。歩は何かを諦めてしまっている。頼もしいはずの背中が、途端に厚みを失った。目の前の男は、こんなにも薄っぺらいのかと驚いた。歩は何物にも縛られていない。唯一、今もなお繋いでいる手を除いて。
光が強く瞬いた。女は杖を振りかぶった。放たれた殺意が、莫大な光量を伴って歩と真白に迫ってくる。
歩が振り向いた。歩の瞳を真白は見た。穏やかな表情だ。黒い瞳は煌めいている。燦々と輝いている瞳は、その奥に闇を抱えていた。そこはかとない闇は、身も毛もよだつ冷気を放っている。それは歩の全身にまで伝わっていた。だが、真白はその瞳に映る真白自身を見た。歩は闇の奥に真白を見ていた。
歩は、真白を抱きしめた。真白を守るために、自身を盾にした。真白は歩の願いを知った。
真白は手を回した。歩の体を抱きしめ、強く力を込める。認めたくはなかった。ようやく真白は幸せというものを得たのだ。そうしてこれからに期待することが出来たのだ。望みを得て、寄り添いたいと思えた人を得たのだ。だから真白は歩を抱きしめた。
迫る光は記憶を呼び起こした。あの時はその後目を覚ますことが出来た。掴みたいものを掴んでいた。それが嬉しかった。それだけで良かった。この光はどうなのだろうか。もう一度目を覚ますことが出来るのだろうか。その時、真白は何を掴んでいるのだろうか。
真白は腕に込める力を強めた。そして訪れた衝撃に意識を失った。意識を失う最後の瞬間まで、真白は彼の名前を忘れなかった。
頬を流れる汗を拭った。上がる息は疲労を認識させ、進む足の痛みは筋肉の悲鳴だろう。運動不足は勿論だが、しかし真白はこの粘りつく様な疲労は精神的なものもあると思った。
汗のにおい。太い腕に生えた体毛は濡れていて、まくられたティーシャツの袖からは汗ばんだ二の腕が伸びている。背負うバックパックは重々しく、肩口に食い込んでその部分の布が歪んでいる。すぐそこまで迫った山頂を見つめる歩は、真白との距離を徐々に近付けていた。意識してのことなのか、無意識なのかわからないが、斜め前を行くその背中は、頼もしげでありながら、しかしどこか真白の胸中をざわめかせた。歩と出会ってから重ねた短い時間の中で、真白はこうも背を伸ばして前を向く彼を見たことはなかった。常に下を向いていて、自信などないといった風であったからだ。それがどうだ。歩は今胸を張ってこうして真白の前を歩いている。自信に溢れても見えた。それでも真白は一抹の不安を胸に抱いた。正体のわからない不安の尻尾を掴もうと真白は歩の長い髪を見る。黒髪は表情を遮り、その心中を見せない。
馬鹿な事。再びその言葉が脳裏をよぎった。真白は歩の感情を知っている。じわじわと這いずってくる危機感に駆り立てられて、真白は自身のうちにその感情の名前を探しつつ、歩の背を追った。
山を跨いで下りに入った。木々は深く視界が悪い。葉や枝、幹が何重にも重なって、陽光を遮り、真白は涼しさというものを感じた。肌寒く、羽織るシャツ越しに二の腕を抱いて、真白は大地を踏みしめる。足元は根と落ち葉と植物に覆われ、人や獣が歩いたというわけではなさそうだ。草木のにおい。真白は支えにと傍の木に手をついて、それらの中に歩を探す。
暫く歩けば視界がはれた。眩しい日の光に目をすぼめ、手で顔を覆い、指の隙間から景色を見やった。
街がある。
廃墟と呼ぶことは出来ない。人の存在を感じる集合体を誰が廃墟と呼べようか。
歩いて数時間。昼過ぎて日が傾き始めるころだろうか。その頃にはあそこに辿り着くだろうと真白は考える。
真白は目に映るものを否定しない。ここがどこなのか、そして自分が誰なのか真白は知っている。歩が教えてくれたからだ。だから出会いというものに身構えた。メガネの男たちが思い起こされて、真白は知らず知らずのうちに歩の手を握っていた。
恐ろしいほどにその手は冷たかった。こちらを振り向いた歩は笑って、選択を真白に委ねる。行くも行かないも真白次第だと。柔らかい表情とは裏腹に、まるで血が通っていないと思えてしまうほど冷たい指先が、真白の手の中にある。それでも歩はこちらの手を離さなかった。力を込めれば返ってくる力がある。しかし満足することが出来なくて、真白はもう一つの手で歩の手を包んだ。
「行こう」
不安を感じさせないように気丈に振る舞ったつもりであるが、やっとの思いで吐き出せた声は震えていた。
ゆっくりと頷いた歩は、どこかこの世のものではないような神聖な雰囲気を纏っていた。真白は両手に力を込めて、歩をこの場に縛った。
山を下り平地に入ると、視界に映る色のバリエーションが増えたような気がした。思えば、背後あの山のむこうは限られた色ばかりで、花の明るい色や、草花の間をひらひらと舞う蝶の翅の眩さなどはなかった。蝶と呼んだその生き物は、真白がよく見聞きしてきたものと変わりはないように思えた。足元の拳大の石をつま先に力を込めてひっくり返すと、こちらにもよく知る生き物達がいた。耳を澄ませば、木々のざわめきの中に様々な生物の息遣いが感じ取られた。急に現実感がにじり寄ってきて、真白はしばしの間面食らった。
そこから更に歩を進めると、遂に森は終わりを告げ、開けた視界には整然と並べられた石碑が多数存在した。一目でここは墓地であるとわかったものの、しかしどれも手入れがされておらず、辛うじて形を保っているそれらは、表面に刻まれた名前をどれも忘れてしまっていた。地面から伸びる植物に抱かれるように立ち尽くすそれらは、近付くにつれて徐々にその輪郭を確かにしていく街並みとは対象的だった。
歩はその前に屈んで表面を撫でている。冷たい指先は相変わらずで、穏やかな表情は何を思っているのだろうか。名前が彫られていたのであろう溝に指先を滑り込ませ、歩はその縁をなぞっている。どうしてか、真白には一瞬歩の足にツタが絡まっているように思えた。目を数回瞬かせて、しっかりと見ればそんなことはなかった。
墓地から街に続く細い道がある。誰もここを長らく通っていないのか、微かにそれが道であるのだとわかる程度の幅には、背の低い雑草が伸びている。踏みしめて二人は歩いた。
暫くすると、水が流れる音が聞こえた。間もなくそれは川のせせらぎであるとわかった。水面はキラキラと光を反射させている。涼し気な光景と音に真白は欲を覚えたが、光が邪魔をして水底が見えず、その深さを知ることが出来なかったし、また川の向かい側に迫った街に人影があったことから、彼女は自身と歩のにおいなど忘れてそれを注視した。
こちら側とむこうを繋ぐ石橋。それを前に、真白は声を聞く。雑多な生活音と人々の声。耳を突く高い声は、小さな子供たちの笑い声だ。
真白は走る子供たちの姿を遠目に見た。こうして歩以外に人を見たのは、随分と久しぶりだと感じた。不意に視界に白と赤がチラつく。それは歩と繋いだ手から流れ込んできた物の様な気がした。白い線が二人を導く様に向こう側に流れていく。冷たい指先が僅かに動いた。
「人がいる」
するりと歩の口から言葉が滑り落ちた。短くそれに返すのと、視界の奥の子供がこちらを指さしたのはほぼ同タイミングだった。彼らの頭はどれもみなカラフルであった。チラチラと小さな火が燃えて、飛び散った火の粉から周囲に燃え移るように、彼らは真白たちに気付いていく。ざわめきが伝播していき、一つ小さな火の粉が街中へと駆けて行った。
「どうする?」
真白は問うた。歩の答えを待った。ジッと見つめた。歩は落ち着いているようだ。走り出しはしない。真白は歩の行動を待っている。
「行こう」
歩は微笑んだ。その笑顔を見ていると胸が締め付けられて、真白は目を逸らした。川の水底は見えない。
石橋を渡りだすと、対岸に女がいることに気が付いた。深緑色の髪の女は、男の子に手を引かれて急いできたようで、肩を揺らしている。もう一方の手に握られた長い棒が不可解だった。胸に手をついて呼吸を整え、彼女は顔を上げた。目が合う。すると彼女は大きく目を見開き、途端にその表情を怒りに染めた。棒を真白たちに構えると、それが杖なのだとわかった。地面について歩行を補助する為の物ではなく、それ以外の用途に使われる物であると。向けられた先端に光が集まって、真白はオカルトじみた光景に、それを魔法の杖と反射的に決めつけた。
冗談だと理性が追い付いた。しかし、正面の女が何か怒号を発するとともに、杖の先から放たれた光が、真白の横を擦過して背後の木を穿ったのを見て、真白は確信めいたものを得た。全身を緊張感が支配した。肌が粟立つ。
女が何かを言っている。日本語ではない。しかし鋭い語気は、その意味が分からずとも、こちらを問いただすものであるというのは確かだ。向けられた杖の先に再び光が集まる。殺気、というものを真白は初めて感じた。
「やめろ!」
歩が真白の前に立った。女と真白の間に立った歩の背に、真白は視界を遮られる。それはあちらも同じだろう。
「歩!アイツ普通じゃない!!逃げよう!!」
真白は歩の腕を引っ張った。冷たかった指先に熱がこもっている。感じた危険に怖気づいた真白は、目の前の大きな背中に一瞬たじろいた。歩が今何を見ているのか、その片鱗を真白は知った。
「馬鹿なことを考えるな!」
真白の声に歩の背がピクリと動いた。やがてゆっくりと振り向いた歩は、緩やかな笑みを浮かべている。何もかもを諦めてしまったような力のない笑みだ。
「答えなさい!!あなた達は何者なの!?どこから来たの!?」
真白は微かな頭痛を得た。酔ったような感覚に捉われて、まるで水中にいるかのように音が籠った。徐々にクリアになっていく聴覚は、女の声を得る。日本語だ。
「何者……?」
歩も同じ感覚に捉われたのか、頭をおさえている。苦しそうにそう反復した。
「黒い髪、黒い瞳……。トワイライト」
女はそこで大きく息を吐いた。目が据わっている。本気で殺す気なのかと、真白はその濃密な殺意に倒れかけた。歩の手がこちらの手を握っていなければ、腰を抜かしていただろう。
「あの子は連れて行かせない。ノアは連れて行かせない!」
杖を構えた女は、その先端の光を更に大きくさせた。
「やめろ!……聞く耳も持ってくれないのか!!」
歩の怒鳴り声は、女に届かないのか、それとも聞こうとしていないのか、深緑色は迸る殺意を抑えない。
真白は混乱の中で歩の感情の名前を知った。それは常に真白が抱いていた物だった。仕方ないとそう思わせて、自分を誤魔化して簡単に正当化してしまう感情。歩は何かを諦めてしまっている。頼もしいはずの背中が、途端に厚みを失った。目の前の男は、こんなにも薄っぺらいのかと驚いた。歩は何物にも縛られていない。唯一、今もなお繋いでいる手を除いて。
光が強く瞬いた。女は杖を振りかぶった。放たれた殺意が、莫大な光量を伴って歩と真白に迫ってくる。
歩が振り向いた。歩の瞳を真白は見た。穏やかな表情だ。黒い瞳は煌めいている。燦々と輝いている瞳は、その奥に闇を抱えていた。そこはかとない闇は、身も毛もよだつ冷気を放っている。それは歩の全身にまで伝わっていた。だが、真白はその瞳に映る真白自身を見た。歩は闇の奥に真白を見ていた。
歩は、真白を抱きしめた。真白を守るために、自身を盾にした。真白は歩の願いを知った。
真白は手を回した。歩の体を抱きしめ、強く力を込める。認めたくはなかった。ようやく真白は幸せというものを得たのだ。そうしてこれからに期待することが出来たのだ。望みを得て、寄り添いたいと思えた人を得たのだ。だから真白は歩を抱きしめた。
迫る光は記憶を呼び起こした。あの時はその後目を覚ますことが出来た。掴みたいものを掴んでいた。それが嬉しかった。それだけで良かった。この光はどうなのだろうか。もう一度目を覚ますことが出来るのだろうか。その時、真白は何を掴んでいるのだろうか。
真白は腕に込める力を強めた。そして訪れた衝撃に意識を失った。意識を失う最後の瞬間まで、真白は彼の名前を忘れなかった。